本文へジャンプ はらだち日記11月 

 政府が「やらせ」質問させて良いのか 11/3
プロが知識を悪用すれば、アマは手足が出せない 11/1

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2006年11月29日(水)
教育基本法は、来週成立だそうですが

 教育基本法に反対する小林亜星さんのメッセージの載った紙面

 参議院にまわったばかりの教育基本法が、来週には成立の見通しだという。
 政治日程とやらで、来週成立しないと、その後の「防衛省」の審議が、間に合わなくなるのだそうだ。

 何でも、審議を長くやればいい、とは思わないが、政治日程のほうが先にあって、なかみの審議もろくにしないで、何日間審議しましたから、成立させますでは、「ヤメテヨネ!」と、言いたくなる。
 これからの日本を、どういう方向に向かわせようかという、100年の計に当たる「教育基本法」の審議を、たかだか1週間か10日で、すませてしまう。何を考えているのかと言いたい。

 政治家の頭にあるのは、数だけなのだろう。多数を取っているのだから、俺たちの言うことを通してかまわない。悔しかったら、数を取ってみろ。と言いたいのだろう。
 民主主義は、数だということしか、教えられなかったのだろうか。本当の民主主義は、少数者の意見を聞くことなのに。少数者の意見をとことん聞いて、修正できることは修正する。修正し尽くした後に、多数決で決着する。これが真の民主主義だ。

 今の状況は、修正もしなければ、少数者の意見も聞かない。自分たちの論理だけを通していく。その結果、子どもたちの進む方向が決められる。
 自分の言うことを通すには、ごり押しすればいい。相手がなんと言おうと、自分のやりたいようにやればいい。子どもたちには、そういう「お手本」が、また、示される。「いじめを止めよう」なんていう、お題目を唱えていても、いじめる側には、格好のお手本だ。

 教育基本法を通して、次は憲法ですか。いよいよ戦争ができる国に、変身ですか。
 それには、労働条件を良くしないで、フリーターをたくさん作り、兵隊への道を行かせなくては。
 徴兵制となると、国民の反発が強くて難しいが、本人の志願で兵士になるのは、仕方がないと、あまり問題にならないだろう。金持ちの子は、食えなくて兵隊になることもないから、安全だし、徴兵制より、ずっと良い方法だろう。

 貧乏人の子は、「お国のために・・・」という学校での教えもあれば、自分が良いことをしているような気持ちで、喜んで兵隊になる。実は、食うためであっても。
 アメリカでは、すでに定着している方式を、日本でもやればいい。「お国のために・・」が教えられなかったから、今まではちょっと難しかった。
 教育基本法が変われば、その点のハードルが低くなる。これで、万々歳。

 政府与党の腹の中が見えるだけ、腹が立つ。いっそ何も見えないほどの、知恵無しだったら良かった。

2006年11月25日(土)
精神障碍者は、明るいだけで良いの?

  地域の「精神障害者サポーター学習会」に誘われて、行ってみた。
 我が家のすぐ近くに、小規模作業所があるのは、つい最近知った。「自立支援事業」の改正で、できたのかと思っていたら、実は10年も前から、活動していたのだという。障碍者問題には、関心があり、地域の施設も知っている方だと思っていたが、精神障碍者については、知識が足りなかったことが分かり、愕然とした。

 知った後も、小規模作業所のドアをたたかなかった。表の看板に「ハッピー フラワー」のような愛称は書かれているが、「精神障碍者小規模作業所」とは書かれていなかったので、ここだと思うけど、でも違うのかな。という迷いがあって、たたけなかった。

 精神障碍者にたいする差別や、偏見があるため、書けないと場合があるとの話だった。他の障碍者にたいする理解は、かなり進んできたが、精神障碍者、特に、統合失調症の場合は、まだまだ、偏見・差別が強い。だから、ひっそりと活動するしかない。とのこと。

 学習会には、当事者の参加もあった。交通事故による高次脳機能障害の方も居たが、ほとんどの方は統合失調症のようだった。
 鬱病の方は、作業所への通所が難しいから、参加していないのだろう。良くなってくれば、リハビリ通勤・通学で、社会復帰が可能だから、作業所の必要性が薄いこともありそうだ。鬱病はかなり市民権を得たが、躁鬱病は、まだまだだとの説明もあった。

 ボランティアさんが、「皆さん明るいでしょう。」と言うので、何だか、カチンと来た。 自立支援法が改悪された今、時給100円、200円の賃金では、給料より、通勤費のほうが高くなる場合もある。それでも、1日の生活リズムを作りたい。家に隠っていたくない。などという要求で、通勤してくる。一般就労へのステップだと、いい聞かせて。
 家族も、通勤費を負担しながら、本人の生き甲斐のために、支援している。

 これは、おかしいと、怒るべきではないのか。なぜ、こんな状況に置いておくのか。これが、日本国憲法の精神にあったことなのか。我々のささやかな要求を、支援法でねじ曲げているのはけしからん。そう言って然るべきではないか。
 知的障害の場合は、認識に障害があるから、自分の置かれている状況を把握して、自分で抗議をすることは、なかなか難しい。しかし、精神障害の場合は、認識の障害ではないから、自分で抗議することができる。
 ただ、抗議するには、自分が精神障害であることを、公表しなくてはならないから、できない。公表後に来る差別と偏見に、立ち向かうだけの精神的強さに障害があるから。

 だからといって、一般就労を夢見るだけで、作業所で甘んじていて、明るく暮らせばそれで良いのだろうか。
 ボランティアさんに言わせると、そんな風に怒ることが、ストレスになって、障害を重くすることになるから、考えない方が良いのだそうだが。

2006年11月23日(木)
食育白書で、分かることは?

    食卓から見た家族のあり方を、報道した紙面

 食育が言われて何年かが過ぎた。現状を確認するために、食育白書なるものが出されたと、テレビで報道された。
 詳しく知りたいと思ったが、新聞で見つけることができなかった。もっとも、ズボラの身で、新聞を何日もため込んでいるから、そのなかに紛れて分からないのだと思うが。

 朝食をとらないので、午前中頭の回転が悪い。カルシュウムが足らず、キレる子どもが増えた。など、など。あげたら切りがないほどに、食の問題は深刻になっているようだ。

 世の中、グルメ指向で、テレビのチャンネルをつければ、うまいものの店を紹介している。旅といえば、温泉と宿のごちそうが定番。日本中が、美味い物への執着に満ちている。 そんな世の中で、日常的な食が貧しくなっているのは、皮肉な現象。

 子どもたちは、よりどりみどりで、好きな食べ物だけ選んで、食べる。少しでも、自分の気に入らない食べ物は、排除する。
 栄養を考えて作っても、子どもに排除されては、作る意欲をそがれてしまうから、親は子どもの好きな物しか作らなくなる。
 結果として、栄養が偏ったり、食事量が偏ったりする。なるべくしてなった、現状。

 学校給食が、その補填手段として、言われているが、あまり期待できない。
 嫌いな給食は、食べない子どもが増加している。給食食べずに、お腹が減っても、帰宅後は、すぐ好きな物が食べられるから、先生に言われたからと、無理してまで食べない。
 我々が子どものときは、買い食いも簡単にはできないし、おやつだって、ろくな物はない。だから、少々、いや、かなりまずい給食でも、今食べておかねば・・・と、食べた。

 今や、状況は全く違う。飢えていないのだから。基本的な、食にたいする執着は低い。 かつて、うまいものが食べられなかった、おとな達が、うまい物に執着しているだけで、子どもは、執着していない。飢えた経験がない子に、飢えのつらさなど理解できない。

 子どもが食事に執着しない、もうひとつの原因に、家族の人間関係があると、「会話乏しい食卓の風景」、「人物は『マーク』」4割に憎」との見出しで、夏に、朝日新聞が報じていた。
 我々の子ども時代は、家族関係は濃密だった。唯一の救いはそれかもしれない。食卓にテレビが入ってきてから、おかしくなったとは、従来から言われているが、携帯が入ってから、おかしさが倍増された感じがある。親子の会話を楽しむより、テレビや携帯に気を取られる親が増えた。食べ物を与えれば、それでよし。あとは、子どもに向き合うより、情報を取ることが大事の、親の姿に、子どもは、食べる意欲を失っているのだろう。

 親子が、テレビを切って、目を見つめ合って、会話しながら食べる。そうなれば、少々いやな食べ物も食べ、変な栄養失調もなくなるのではないか。無くなってほしいものだ。

2006年11月22日(水)
映画館は、長屋の時代

    新聞に載った『父親達の星条旗』の映画評

 息子につきあって『父親達の星条旗』という映画を見に行った。
 郊外のニュータウンにある、今流行の「シネマズ」という、ロードショー上映館。

 シネコンと言う場合もあるようで、昨年ロードショーを見に行ったのは、シネコンだった。「ひとつの映画館に、いくつかの劇場が完備されている」と、案内にあるので、「どうなっているのだろう。映画館がいくつも合わさっているなんて、よほど大きな映画館なのか。駅前が再開発されたからって、そんな広い場所ができたのだろうか」と、半信半疑で出かけた。中に入って、拍子抜けした。何のことはない。映画館の「長屋」だった。

 今回は、前回よりもっと小規模で、ひとつの「長屋」は、80人も入ると満席になるほどの大きさ。しかし、座席はゆったりしているから、従来の映画館なら、100人強入れる広さかもしれない。肘掛けには、飲み物を置く場所も作られ、至れり尽くせり。

 中央で見たいと申し出ると、ペアシートしかなかった。
 息子とペアシートかと思いながら、館内に入って、ペアシートの意味が、よく分かった。
最後尾の席で、シングルシートに比較して、小さくできている。狭くはないが、二人が身体を寄せ合って座るのに、ふさわしい広さ。おまけに、ソファーのようで、間に仕切の肘掛けがない。いやでも手を取り合えるようになっている。

 なるほど。デイトで映画を見るには、格好の席だ。肩を抱こうが、身体を寄せ合おうが、後の人に気兼ねをすることもない。ムードいっぱいの映画に触発されて、キスをしたり、身体に触れ合ったりしても、大きな物音を立てなければ、全く迷惑をかけないですむ。
 
 ペアというと、若者の特権のように思いがちだが、ペアは何も若い者だけではない。
 平日の昼間に、映画を見に来られるのは、子育ての手が離れた専業主婦か、シニアしかいないのだから。
 当日もシニアのペアを何組か見かけた。ペアシートに来たシニアは、残念ながら居なかったが。
 ペアシートを買って、熟年夫婦が、改めて、スキンシップを取り直すきっかけにすれば、夫婦の未来は明るいと、思うのだが。「今さら、若い者みたいに」と考えるシニアが、多いのだろうか。そこが、日本の日本たるゆえん。もったいない話。

 「父親達の星条旗」は、甘いムードいっぱいの映画とは言い難いから、ペアシートでロマンチックにとは、いかないかもしれない。しかし、戦場場面では、かなりギョッとする場面もあったから、そんな時に、手を触れ合うことが可能かもしれない。

 シニア割引もあって、千円でロードショウが見られた。ペアシートも知ったから、次は、ふさわしい相手と、映画鑑賞としゃれようか。

2006年11月22日(水)
ツッパリばあさんは、野原が好き

 茶色に変わったドクダミの葉   白い菊と黄葉したヤマノイモ

 国会中継を見ていたが、もっともらしい質疑に、だんだん腹が立ってきた。
 桝添議員は、国旗・国歌の尊重が当然という質問に、相も変わらず、スポーツの表彰場面を例に挙げていた。国際試合になれば、自国を応援するのが、常識。そんなものは、学校で教えられなくても、自然に生まれてくるもの。よほど、へそ曲がりでない限りは、自国でなく、相手国など、応援しないし、表彰されれば嬉しいに決まっている。いくら、けんかばかりしている兄弟ても、他人に対しては結束するのが、世の常だろう。

 次の議員は、イギリス視察の例を出し、自国の歴史をしっかり教えれば、誇りが持てると言う。第2次大戦後の扱いが、自虐史観になっているから、ダメなのだと言いたいらしい。これだって、論理のすり替えだ。イギリス視察でなく、ドイツ視察をするべきだ。日本と同じ立場にあったドイツが、歴史をどう教えているのか。第2次大戦の誤りも含めて、真実を教えるなかから、真の愛国心が育つのであって、くさいものにはふた式では、育つものも育たない。

 国会中継を見続けると、神経に悪いからと、久しぶりに庭に出た。
 庭と言うほどのことはない。軒下部分の空間が、家を取り巻いているだけだが。
 春に備えて、緑が芽吹いていたり、手入れもしないのに、けなげに咲いた菊の下では、ヤマノイモが黄葉していた。
 我が家の庭の、小さな「野原」は、確実に冬支度している。

 「ズボラ育児室」の窓も持っているから、当然だが、庭の手入れをいい加減にしているうちに、まともな花はだんだん消えて、いわゆる「雑草」と呼ばれている、小さな草花が勢力を伸ばしてきた。
 困ったなとは思ったが、よく見ると、なかなか可愛い花が咲いていたりして、抜いてしまうのが気の毒になってきた。「まあいいか」とズボラを決め込んでいるにつれ、どんどん雑草が増え、とうとう、今日のような「ミニ野原」ができあがってしまった。
 「野原」ができあがるにつれ、どこから来たのか、小さなバッタや、小さなトカゲが、草の間に見つかるようになった。そして、ちゃっかり、我が「野原」の住人になった。
 
 こうなると、もはや「野原」をつぶすわけにはいかなくなった。都会の真ん中に、バッタやトカゲが生息する空間ができたのだから。
 「貴重な自然」を、保護しています。と、右隣の人には言おう。
 前は道路、後との境は、ブロック塀、左は私道。というわけで、今はやりのガーデニングをして、なめたようにきれいな庭に、一本の雑草も許さないと頑張っている、隣近所への迷惑は、最小限に抑えられているので、何とか「野原」を続けられている。
 フェンスをくぐって、右隣の庭に、ドクダミが進出していることだけが、胸が痛む。
 隣の人が、黙って我慢してくださっていることに感謝。我慢しきれず、苦情が持ち込まれるまでは、もうしばらく「野原」を楽しもう。

2006年11月18日(土)
子どもが、子どもを産む話

  シニアの、性サークルを取材した学生さん達の、ビデオ発表会があったので、はるばる高尾山の近くにある、キャンパスへ出かけた。
 行く途中の街路樹が、ちょうど黄葉していて、すてきな眺めだった。キャンパスも、「これが大学キャンパス」というたたずまいで、学ぶ環境としては、申し分なかった。周りに、ゲームセンターだの、麻雀屋だのがないのも、学びに集中できそうだった。

 我々が、出演者になったビデオは、思った以上のできばえで、発表会での5作品中でも、一押しにできる作品に、仕上がっていた。中心的出演者となったNさんは、上映後の紹介に、とまどっていた。実物以上の、存在感ある画面になっていたので。

 学生マザーの奮闘記を撮った作品も、上映された。
 大学の食堂で、友人達と談笑しているシーンから、確かに大学生であることは分かった。保育園から、子どもを連れて帰ってくるシーンから、確かに、子どもが居ることも分かった。しかし、それ以外は、食事の支度、子どもの世話などを、自分の母親、つまり子どもの祖母に、ほとんど面倒見てもらっていた。
 シングルマザーではないらしく、父親と子どもの3人で、遊びに行っているシーンもあった。その父親は、フリーターだそうで、貯金をして、親子3人で暮らす計画はあるらしいが、貯金は貯まっていないらしい。かといって、妻の家で共に暮らすことはしていない。

 何だか、子育てごっこをしているように見えた。アンケートに、「子どもが子どもを育てているという感じ。この作品を見て、『これなら私も生もうかな』などと、安易に考える若者が増えそうで、恐ろしい」と、書きながら「あれはダメよ」「親になっていない」などと、同行したメンバーと話していた。

 上映後「この会場に、お二人が来てくださっています」との放送があった。
 どこにいるのかと見渡したが分からない。よく見たら、何とすぐ後の席に座っていた。我々の会話が聞こえたかもしれない。事実だから、聞こえて悪いことではないかもしれないが、誉めていない話が聞こえるのは、気分を害したかもしれないと、しゅんとなった。

 会場の若者達は、二人に歓迎の拍手をおくった。自分たちの生き様を、良しとしているように見える二人。その生き様を見て、応援しますよという態度を見せる学生達。
 違和感を持って見るのは、シニアの我々だけのような、会場の雰囲気だった。
 中絶せずに生むことは、けなげだ。逃げてしまわず、父親としての責任をとっているから、見上げたものだ。若者達は、そういう解釈なのだろうか。
 子育てが、保育園への送り迎えだけ。後は自分の母親任せ。3人暮らしをするというが、実際3人になったら、とても学業との両立はできず、イライラが募って、子どもを虐待しかねない。地に着いた、生活人とは思えない子育てを、容認するような風潮は、納得できない。時代遅れなのだろうか。

2006年11月16日(木)
千葉県なのに、東京とは

  東京ドイツ村のリーフレット表紙 と  園内案内図

 房総旅行目的地のひとつが、「東京ドイツ村」。
 「東京ドイツ村」と言うから、都内の千葉寄りに、新しくできた施設かと思っていた。「海ほたる」を通って再度、東京に入るのかと思っていたが、いっこうに東京方向には、行く気配がない。
 「ここです」と着いた所は、何と、房総半島のど真ん中の辺り。千葉県にありながら、「東京」の冠をつけていたのだ。どうりで、聞いたことがないと思った。「羊頭狗肉」の類だった。何だか、ペテンにあった気分だった。

 しかし、考えてみれば、「東京ディズニーランド」も千葉県にある。「東京国際空港」も千葉県成田にある。今に始まったことではない。以前から、「東京都」ではないのに、東京という冠を使っている例はある。
 関西のことはよく分からないが、同じようなことは、あるのだろう。「大阪」と冠がつきながら、実は兵庫県や奈良県にあるという事例が、あるに違いない。
 そう考えれば、いちいち目くじらを立てる方が、大人げないと言われてしまいそうだ。
商売をする立場としては、有名な、「カッコイイ」というイメージが定着している地名を借りるのは、当たり前のことなのだろう。「詐称罪」に問われなければ、それでOKなのだろう。

 東京の威光を借りて、周辺の者が潤えば、それで良いではないかという話になりそうだ。
しかし、そうすることで、東京はいい気になっているところができる。東京がやるんだ。文句あるか。天下の東京だぞ。と。
 その結果「国が何もやってくれないから都でやるんだ」という、思い上がった石原発言に、なるのではないか。東京が、日本を支配しているような、傲慢な行動が出てくる。東京が何かを始めれば、地方はそれについてくると考える。性教育バッシングなど、典型的な例だ。

 そんなことを考えていては、せっかくのドイツ村が、楽しくなくなる。
 「広い芝生と青空が、ごちそうです」とのキャッチコピーに違わず、何もない、広々した芝生だけの園内は、気に入った。300円也の観覧車、子ども向けのミニジェットコースターなどがあるものの、有料の遊戯施設が、ほとんど無いのに好感が持てた。
 ディズニーランドの、作り物だらけと好対照。1日、親子でじっくり楽しむには最適と思う。

 こういう場所が有名になり、引きも切らず、お客さんが来る。という施設になってほしいが、親が、作り物でないと、子どもと遊べなくなっている昨今では、この先どうなるだろう。帰宅後、知人に聞いたところでは、開園当時は、入りきれないほどの車の列だったそうだ。が、我々の行ったときには、平日のこともあり、閑散としていて、採算取れそうになかった。4、5年で閉園にならぬ事を願う。

2006年11月15日(水)
ツッパリばあさんは、富士が好き

 自宅近くのホームセンターでやっていた、旅行抽選会に当たった。掃除当番とか、手伝いとか、当たってほしくないものは当たるのに、何か楽しい事で当たったのは、生まれて初めて。

 今回は、房総日帰り旅行。「海ほたる」で、最初の休憩。「海ほたる」は、初めてではないが、展望デッキ1周は、初めてのこと。風は強かったが、景色はよく見えた。
 東京湾の向こうには、富士山が見えた。先週、河口湖から見たばかりだから、迫力の点では及ばないが、凛と立っている富士の遠景も、それなりに良いものだ。
 デジカメで写したが、残念ながら写っていない。いくらか衰えてきたとはいえ、まだまだ、人間の目の方が優れているということらしい。

 日本人であれば、みんな富士山は好きだ、と言われるだろうが、2週続けて富士を見て、どこに惹かれるのだろうかと考えた。
 富士の姿に自分を重ねているのかもしれない。と、思い至った。
 日本一高い独立峰だから、当然だろうが、他の山に追随していない。遠くから見ても、他の山に紛れることなく、常に、孤高を保っている。
 今回のように、海越えの姿を見ると、厳しい海風を、満身にあびながら、それでも孤高を保っている姿が、よく分かる。
 他の山と横並びになれば、もっと楽に風をやり過ごせるだろうに、それをしないで、一身に受けて動かない。

 遠くから見れば、端整な山肌も、長年の風雪にさらされて、ボロボロになっている。
その最たるものが、大沢崩れだそうで、数十万年、数百万年とかで、富士山の今の姿はなくなってしまうとか。
 自然の単位だから、人間の単位とは、桁が違うが、満身創痍で、孤高を保っていると思うと、よけいに富士が愛おしくなる。

 登山者の出すゴミのため、世界遺産になれないのは、気の毒すぎる。せめて、世界遺産になって、誇らしい偉容を充分に見せてから、今の姿を終えてほしい。
 ゴミを何とか無くして、富士山を世界遺産にしてやることが、今まで、感動を与えてくれた、富士に報いる道ではないのか。

 そういうことに、予算を使うのならば、国民のブーイングは起きないだろう。
 子どもたちを動員することも、「美しい国」作りの一助になるのではないか。 
 拙速に、教育基本法を通すことばかり、考えないで、地道に、合意を得る道を、一歩一歩進めてもらいたいものだ。

2006年11月12日(日)
市政悪化は、ゴミ収集日が多すぎた?

 昨日、定例の班長会があった。班長会は、町内を20くらいに分けた班の、周り番でしている班長さん達が、月1回集まる会だ。役員としての参加も半年経った。
 いつもは、行事の報告や、連絡が中心だが、昨日は「ゴミ収集日変更について」の、お話を、行政が来てすることになっていた。

 行政は何かというと、「住民のコンセンサス」と言う。住民の意見を聞き、住民の了解を取って進めていると言う。
 ひょっとして、これもそのひとつかなと思いついた。形式的には、町内のほとんど全員を代表している場だ。町内会費を納めた人が会員、という形をとっているので、住人が自動的に入るわけではない。しかし、非会員はほんの数えるほどだから、住民全員と言っても過言ではない。
 班ができていて、班長はそこの代表として出席するのだから、班長が了承すれば、班の了承がとれたことになる。

 しかし、班長は、周り番でやっているだけで、個々の問題が起きたからと、班員集めて班会ひらいたり、採決したりという機能を持っている班は、皆無。
 役員も同様だ。会長と言っても、全員の意見を聞いたり、多数決をとったりということはできない。せいぜい、会員の1/10にも満たない出席者の総会で、意見交換するくらいだ。それにもかかわらず、町会の賛成を得られたということで、事は運んでいく。
 自分がその一員になっているかと思うと、空恐ろしい気がした。

 説明に来た、出先の職員を相手に、今さらどうこう言っても始まらないが、何も言わずにお説を承って、賛成だったと思われてはかなわない。黙って帰らせては「ツッパリばあさん」の名がすたる。と思い、「何かご質問は」の問いかけに、言いたいことを、オブラートに包んで発言した。班長での出席ならば、もっとズバズバ言えたが、役員だから、会長の顔をつぶしてはと、ちょっと気を遣った。

 「市の財政が厳しいので、収集日を減らすというお話でしたが、市の財政が厳しくなったのは、なぜでしょうか。ゴミの収集日が多かったから、財政が厳しくなったとは考えにくいのですが」というような質問に、副所長は「詳しいことは、出先で分からないですが、前市長の時に・・・ 現市長がかなり回復させたが・・・」と、弁解した。

 大型公共工事のつけが回ってきて、市政を圧迫していることは、我が市だけでなく、全国あちこちで、起きていること。そんなことは分かり切っているが、担当者としては言えないから、もぞもぞと弁解することになる。
 「市の職員としては、自分たちの失政のツケを、市民に払わせているという自覚を持って、失政を繰り返さない市政をやってほしい。市の財政が豊かになったら、また収集日を増やしてほしい」と言いたかったが、立場上、胸に納めておいた。
 

2006年11月11日(土
仕事辞めても、教師根性は消えない

昨日、銀行に行った。古い通帳が、本棚の引き出しから出てきたので、記載されている金額が、まだ預金されているなら解約し、生活費のたしにしようと考えたのだ。
 印鑑がないので、改印し、解約手続きをすれば、残額の返金可能と分かり、ようやく手続きが始まった。そこに到るまでに、あっちの窓口へ行ってくれ、こっちは扱わないと、たらい回しされ、待たされているうちに、閉店が迫ってしまった。

 手続きを担当した若い行員は、焦っていたのだろう。残額の振り込み手数料を、間違えたらしい。振り込み用紙に、記入させられた金額が違うからと、書き直しされ、記号が違う、ふりがなが違うと、結局4回も書かされる羽目になった。仏の顔も三度を越え「これは、そちらのミスですよ」と、声を荒げた。行員は「申し訳ありません」を繰り返すのみ。その場をやり過ごせばいいと、考えているのはまずいと思った。教師根性が、退職後も生きているらしい。「どうしてミスしたか分かります?」と聞いてしまった。「私の計算間違いです」としか言わない。「どうして計算間違いしたのか、分かります?分からないと、同じ間違いをまたしますよ」と、突っ込んだ。「はい。分かっています」と言うので、そこで納めた。私は、銀行の教育係ではないと思い直して。帰り際、「これに懲りずに精進してくださいね」と、フォローすることは忘れなかったが。

 「窓口での苦情」で、以前、伯母の住んでいた市の、市役所窓口で怒鳴っていた、おじさんのことを思い出した。
 年金の払い戻し通知が届いたので、受け取りに来たが、すでに払い戻しを受けていたから、来る必要はなかったらしい。窓口の対応が、すでに受けとっていますので、きょうは支払いはありません。くらいの、事務的な対応だったのだろう。「俺は、わざわざ来たんだ。こんな通知をよこすからだ。来なくても良いなら、通知などよこすな」という調子で、まくし立てていた。そのうち、「その対応はなんだ。役所のミスなのに、謝りもしないで」と、対応の仕方に文句をつけて、さらに声のボリュームが上がった。
 用事が終わってしまったので、結末までは見届けなかったが、役職の人が出てきて、お詫びを申しあげ、お引き取り願ったのではないだろうか。

 ただ、怒鳴りまくって、謝らせて、場合によっては「粗品」とか「寸志」をもらって帰る。それで、憂さ晴らしができて良かった、とするならば、それでも良いのかもしれない。 しかし、相手の進歩を促すような、注意の仕方をした方が、相手もやる気をそがれないし、言った方もいくらか「お役に立った」という気分になれると思うが、それは、アマチャンの教師根性だろうか。世の中、そんなに単純じゃないから、言うだけ損なのだろうか。

2006年11月10日(金)
草の根保守の、基盤は宗教?

  知人に連れられて、新興宗教の集会に行ってきた。
 「喘息がある」と言ったら、「健康法のようなものがある。医学ではないが」と言うので、「早起き健康会」のたぐいかと思って、「行ってみます」と言ってしまった。
 行くときになって、宗教だと言ったが、「まあいいか。どんな新興宗教か、見ておくのも」と、持ち前の好奇心で、ついて行った。

 会場に着くと、制服を着ているように、ピンク色の服を着た女性ばかりが、受付にならんでいた。年齢はまちまちなのに、みんながピンク色で、何だか異様な光景に写った。ピンクは、幸運を呼ぶ色だから、着ているのだとの説明があり、なるほどとは思ったが、そこまで、行動をコントロールされていることに、不気味さを感じた。

 会場に足を踏み入れたとたん、「アチャー。これはダメだ」と、すぐにも帰りたい気分になった。正面の祭壇とおぼしき所に、大きな神殿様の屋根と、扉があるのだ。「これは、神道系の新興宗教」と一目で分かった。神道系は、私のカトリックとは、相容れない面が多い。「話を聞いても、受け入れられないだろう」と感じたのだ。

 以前、別の新興宗教に連れて行かれたことがあった。その時は、全ての宗教を統括する宗教とかで、できるだけ、ひとつの宗教色を出さないようにしていた。それでも、欄干様の祭壇の飾り、御幣のような装飾など、すぐに神道系と分かってしまった。
 日本の新興宗教は、神道系が多い。日本古来の信仰を探ると、神道に行き着くということか。仏教は、大陸から伝来したものという意識が、あるのだろうか。

 とにかく、話だけは聞いてみるかと、思い返し、講話を拝聴した。
 参加者のほとんどが女性。しかも、平日の昼間。参加できるのは、専業主婦に限られる。それに合わせての講話だから当然だが、共働きで、定年まで仕事してきた者には、思いもよらない内容だった。
 一言で言えば、夫を立てて、夫が気持ちよく仕事ができるよう、夫のわがままも、包み込んで、生活していれば、必ず幸せになれる。という話だった。

 男を立てた生活をしていれば、幸せになれるという教えは、今の政治状況を批判したり、憲法改正を考えて、反対行動するなどという生き方とは、まるで反対の考えだ。
 政治についてあれこれ論ずることは、良しとせず、選挙になれば、幹部に言われた人や、政党を応援することが、幸せに通じる、ということになるのだろうか。
 以前行った、新興宗教道場には、自民党議員候補者のポスターがあり、同じ宗教の信者だから、応援しましょうと言っていた。信者も、何も異議を唱えていないようだった。

 ネット上には、まだまだ、知らない新興宗教がいくつもある。これらの教団が、草の根保守として活躍するのだろう。利用されているとは思わず、生き生きと。

2006年11月8日(水
機械は、どこまで手仕事にせまれるか

 一竹美術館パンフレット   工場併設の美術館入場券

 昨日、町内の「親睦旅行」で、河口湖方面へ行った。
 あちこち見たが、わたしのお目当ては、富士山と、辻が花の「久保田一竹美術館」。
 午前中は、雨が降ったりやんだりで、ちょっと心配だったが、昼近くから見事に晴れ上がり、雪を懐いた富士山を、間近に見ることができた。近くで見る富士は、初めてではないが、雪のある富士は、いつ見ても、新しい気持ちにさせてくれる。

 信玄餅の製造工場を見学。工場見学も色々行っているから、今さらの感はあったが、こねたり、切ったり、きな粉をまぶしたりが、全部機械化されているのに、小さなナプキンみたいな紙で、ひとつずつくるむのは、人間でないとダメだったのが、おもしろかった。結ぶという動作は、機械にはできない、複雑な作業なのだ、と改めて分かった。

 「久保田一竹美術館」は、迫力があった。見学時間が足りず、残念だった。
 テレビで見たり、話に聞いたりしていたが、やはり本物を見ないと、絞りの緻密さや、着物全体から迫ってくる迫力は、分からない。
 「時間がかかっているなー。この根気強さに脱帽!」という、感じももった。

 自分のイメージを、布の上に再現するために、膨大な時間をかける。
 企業で、効率ばかりを追求しいている者とは、対極にある存在だ。
 しかし、膨大な時間をかけるには、その間の生活費がいる。霞を食いながら、作品を創っていくことはできない。それは、どうしたのだろう。
 そして、膨大な時間を費やした対価を、一枚の着物に含めれば、数百万になってしまう。そうなると、それが買える人は限られる。いくら、好きで着たいからと言っても、金のない者には手に入らない。

 室町時代に、武士の間で、盛んに着られたそうだが、その時にも、高級品として愛されたそうだ。元々、庶民の間で着られてきた着物ではないわけだ。
 労働の対価は、時間にもあるから、膨大な時間のかかる着物は、高くなるのはやむを得ない。

 機械化すれば、価格は安くなるだろうが、あの緻密な絞りが、いつかは、機械でできるだろうか。絞ること自体は、かなり機械的な作業に見えるが、布のどこをつまんで、どれくらいの力で絞るかというのは、人間の高度な判断力を、必要とする分野だから、機械にはできそうにない。

 富士山の大沢崩れを止めることは、人間の機械力では不可能らしいし、判断力をその都度求められる、繊細な手仕事も、機械では難しい。
 まだまだ、人間の存在価値は、無くならないと言うことになりそうだ。

2006年11月8日(水)
企業の税金欧米並み、雇用形態日本独自。

          企業減税を報じる紙面

 来年度の税制改正で、企業の「減価償却制度」を見直し、減税を実施する方針を固めたと、報道された。
 減価償却だけでなく、減価償却期間を短くすることも考慮中だそうだ。
 いずれも、企業側の言い分は、欧米並みにしてほしいとのこと。
 何かというと、経済界は「欧米並に」との理由で、企業に有利な税制にしたり、制度を変更したりする。確かに、欧米との競争なのだから、不利な条件では勝負にならない。欧米並みにする必要は、あるだろう。反対はしない。
 
 しかし、企業に有利な条件に、変更したいときだけ「欧米並み」を持ち出すのは、公平だと思えず、納得できない。
 カローシという、欧米の言語に翻訳できない、労働状況をつくっている。
 偽装雇用も、翻訳が困難だろう。派遣社員、アルバイト、パートも、日本における状況を、正確に伝えるためには、単に、欧米言語に翻訳するだけでは足りないと思う。

 正社員の長男は、日本でも有数と言われる大企業に、勤めているが、毎日午前様で、最近は土曜出勤も、ちょくちょくあるそうだ。「パッパー」大好きな孫は、朝、保育園までのわずかな時間しか、父親に相手になってもらえない。休みの時は、若殿様に仕える、若侍のように、孫を大事にしているが、それだけでは足りない。せめて、平日の半分でも、一緒にいられたらと思うが、そんなことを望んだら、たちまち「リストラ要員」になってしまうから、とても言えないようだ。孫がまともに育つかと不安になる。

 正社員になれば、時間外労働が当たり前、サービス残業が当たり前。週休二日になったんだから、欧米並みだ。有り難く思え。ということなのだろう。
 長時間労働がいやならば、非正規社員という道がある。時間外の仕事はせずに帰宅できる。しかし、この道を選べば、食べていけないくらいの給料しかもらえない。
 若者の中には、休日無し、寮費、食費など取られて、小遣い程度の手取りしかもらえない「タコ部屋」まがいの労働者生活を、余儀なくされている者もいる。最賃以下の給料に甘んじながら、将来に希望の持てない若者も少なくない。

 労働者を、使い捨て雑巾のように扱うことは、欧米では許されていないはずだ。
 人間を減価償却しているような、今の企業のやり方は、「赤紙一枚で、兵隊はいくらでも来るんだ」と、人間より、銃や馬の方を大事にした、日本の軍隊の体質に似ている、と思えてならない。

 欧米並みの税制を望むのならば、欧米並みの労働条件を、確立してもらいたいものだ。労働条件を欧米並みにしてから、税制の変更を言ってもらいたい。 

2006年11月6日(月)
今年の紅葉は、おかしい?

落ち葉のために、歯抜けになった枝。 黄葉がきれいに見られない。

 毎朝体操をしている、公園の桜やコナラが、黄葉を始めてしばらく経つ。
 「今年も、秋になったな」と思いながら、何となく見ていたが、何だか変だ。
 例年ならば、桜の樹全体が、緑から黄色や茶色に変わり、そのうち、ハラハラと散り始めて、全体の葉が散ってしまう。
 ところが今年は、全体に色が変わるのでなく、緑の葉が随分多い。その反面、色の変わった葉は、すぐに落ちてしまう。全体を待つことなく、個々がバラバラに散ってしまう。このまま行くと、きれいな黄葉になったというときが無くて、バラバラ、バラバラ散っておしまいということになりそうだ。
 気温が高く温かい時が長いため、きれいな黄葉にならないとは聞いているが、勝手気ままに、バラバラ落ちていくとは聞いたことがなかった。

 地球温暖化を持ち出すのも、大げさかもしれないが、そのうち、関東地方まで亜熱帯になって、黄葉もなくなるのではないか、と危惧する。
 10月までの気温では、関西地方までは、亜熱帯に近くなったようだった。海の生物とか、昆虫、ネズミなど、生物の世界では、亜熱帯に近づいていることが事実らしい。あまり、大きな声で言うと、人心を惑わすことになるからと、言わないだけではないか。

 紅葉の始まりが遅れるのは、地球温暖化で説明がつくが、同じ木の葉が、勝手気ままに散り急ぐのは、どう説明つけるのだろう。
 今までは、横並びで、周りに合わせることばかりしてきた日本人が、規制緩和だの、改革だのといわれて、横並びから脱しようと、キューキューとしている。周りに合わせないことが良いことだとばかり、自分勝手な自己中心の行動をし始めて、結局、調和を欠いた不様な状況になっている。
 そんな、今の日本の状況を、表しているように、紅葉が見える。

 横並びを脱して、個性豊かな日本人が増え活気ある日本社会に変革できれば、今の混沌状態も、意味があるだろう。意味のある変化を期待したい。
 しかし、紅葉の方は、そうはいかない。これから毎年、調和を欠いた、勝手気ままな落葉が続くのでは、せっかく地域の宝と考えている、公園の景観が台無しになる。
 お天気頼みでなく、何か方法はないものだろうか。

2006年11月3日(金)
必修未履修は 私学校では当たり前?!

 必修教科が未履修で、卒業できない。補修を70時間やれ。いや、50時間にまけてやれ。論議が続いていたが、50時間で決着するらしい。
 受験が迫った今の時期に、補習を受けさせられる生徒の身になれば、「自分たちに責任無いのに、何で今さら」という気持ちだろう。

 今回の問題が発覚するきっかけになった、生徒の発言は、あの生徒だけのものではなく、多くの生徒が感じていたものではないのか。
 単位についての説明は、入学してすぐあるはず。進学校に行くくらいの生徒なら、説明内容が、理解できないはずはない。必修教科の未履修は、分かっていたはずだ。ただ、必修になっていても、自分たちはやらないで通る、と思っていたのではないか。先輩はそれで通っているし、この学校は(または、我々のコースは)特別だから、他の学校(または、一般の生徒)とは違う。などと、考えていた生徒もいるのではないか。
 とにかく、まるっきり知らなかったことを、一方的に言われている。という受け止め方をする生徒は、多くないと思う。

 今回は、教科丸ごとだから、はっきり表に出たが、必修なのに学習していない教科が、20年くらい前にもある。私立校では、今も同じかもしれない。
 息子の通っていた私立男子校では、「保健」の教科が、教えられていなかった。
 あの頃は、週に2時間の「体育」と1時間弱の「保健」が必修だった。ほとんどの学校は「保健体育」として、週3時間を、当てていたはず。
 息子の学校の場合は、「保健体育」と時間割にはあるが、内容は、3時間とも「体育」だけだった。つまり、受験体力は必要だから、体育はやる。しかし、受験に必要でもないし、大して役にも立たないからと、保健はなかった。設備が整っていたから「雨降り保健」すらなかった。

 私の知人は、私立女子校に勤務していたが、彼女の学校では「雨降り保健」があり、その時間には「読み切り連載」の授業で、性教育もやっていると、言っていた。
 「スーフリ事件」や「アメフト事件」の男子学生達は、保健の授業のない男子高校出ではなかったかと、考えてしまう。
 保健は、性教育の授業ではない。しかし、身体の生理、病理の基本を習い、人間の欲求、家族計画、労働衛生などを学ぶなかで、一般的な性の生理、性の病理、人としての性のあり方などを、身につける。少なくとも、ポルノ情報に汚染されている思考を、見直すきっかけにはなる。

 実際には、高校の保健体育担当教師に、スポーツインストラクター的な人材が多く、子どもたちの健康や、生涯体育の視点を持って、指導する人が少ない。そのため、保健の未履修についても、中から声が上がり難い。教える側が面倒に思っている例もある。
 履修を徹底させるには、時間割表だけでなく、生徒からの聞き取りが必要だろう。
 

2006年11月3日(金
政府が「やらせ」質問させて、良いのか

         「やらせ」質問を報じる紙面

 教育基本法を、今国会で成立させるために、全力を尽くしている政府与党。
 衆院の特別委員会で、裏付け文書を示された、内閣府の総括審議官は、内閣府が作成した文書だと認めたとのこと。「とんでもない」「大問題だ」と、委員会が一時紛糾したと報じられている。
 その文書とは、青森県八戸市で開催された「タウンミーティング」での質問に「教基法改正案に共感している。改正をきっかけに、思いやりのある社会の実現を目指すべきだ」という主旨の発言をしてほしいと、依頼している文書。

 私は、国会中継や、委員会中継は、見ないようにしている。見るとカッカしてきて、脳神経に良くないので。この特別委員会も、中継されたかもしれないが、見なかった。残念なことをした。
 そのため、この問題は「しんぶん赤旗」の記事で知った。一般紙には、載らなかったようだ。夜のニュースでは、ちょっとやっていたようだが、詳しいことは分からなかった。

 政府・与党が、自分たちの出した法案成立を、有利に進めるために、「質問」の内容を指定し、誘導するなどは、民主国家としては、許されない行為だと思う。
 公聴会だの、タウンミーティングだのと、聞こえのいい言葉で、さも民主的な手続きを踏んだかのように装いながら、思い通りの方向に進めているなどは、断固として許せない。
 
 しかも、マスコミが、それを報じないことも、許せない。前にも書いたが、ジャーナリズムは、時の権力に対峙して、それを監視し、偏向を正す役割があるはずだ。それをするからこそ、社会的に認知され、市民の支持を受けることができるはず。
 そのマスコミが、政府のご用機関になってしまったら、市民は何をよりどころにすればいいのか。民主主義は死んでしまう。

 今回は、たまたま失策があって、証拠書類が表に出てしまった。ということだと思う。青森県の三八教育事務所の担当者は、今頃、謹慎処分にでもされているのではないか。
 今までも、同様のことは、数多くあったにちがいない。
 郵政民営化の時にも、あちこちで、民営化賛成の発言を、誘導する働きかけが、あったのではないか。
 その前のあれも、その前のあれも。疑いだしたら、きりがない。政府与党が通したいと考えていた法案は、全てこの手のやり方で通した。と、思ってしまう。

 民主主義で、事を運ぶには、時間がかかる。賛成、反対の意見をつきあわせ、論議して妥協点を探るには、膨大な時間がかかる。面倒だから、誰かの一喝で決める方がずっと楽で早い。しかし、神でない人間のやることが、一喝で決まって上手くいくだろうか。最大多数の人々が、満足できる道を進んで行かれるだろうか。それを考えたら、一方向に、強引に梶を切るのでなく、まだるこしい方法でも、公平に論議を尽くしてもらいたい。

2006年11月1日(水)
プロが知識を悪用すれば、アマは手足が出せない

 2階の窓から見た3階建ての家     工事中の3階建ての家

 我が家の裏手に、新築の家がある。2階の窓から見ると、隣家の屋根の上に窓がある。我が家の辺りは、斜面地なので、裏手の家は多少高くなって当たり前の所。それにしても、ちょっと高すぎると不思議に思っていた。
 30年近く前、建て売り住宅を買うときに、この周辺は、建築協定があって、市の基準より厳しい制限がある、と言われていた。3階建てはダメ、外階段はダメ、柵かフェンスで植木の囲いでなくてはいけない。など、など。要するに、資産価値を落とさぬための方策を、不動産屋が考えたらしいが、市にも協定を認めさせていた。
 それを知っていたので、高すぎる家は、ひょっとしたら3階建てではないかと、思ったのだ。

 こういうときには、情報通のおばさんに聞くのがいちばんと、ゴミを出しに来たおばさんに聞いてみた。
 おばさんの話によると、建築家の息子が設計して建てた、息子の作品で、2世帯住宅用に、地下を利用して建てた2階建ての家とのこと。
 「ウッソーッ!」と、すぐに見に行った。2階建てには納得できなかったので。
 なるほど。玄関は、道路から5、6段上がった所にあるが、確かに、正面から見る限りは2階建てだ。斜面地を上手く利用しているから、我が家の方から見ると、完全に3階でも、正面からは2階なんだ。南側斜面だから、「地下」にも、お日様サンサンという状況になっているだろう。近頃はやりの、地下室マンション戸建て版といったことか。

 その後知ったが、地下とは、地面から2/3隠れていればいいそうで、全部入っている必要はないらしい。高さ制限さえクリアすれば、建築法違反ではないとのこと。
 もっと驚いたことに、「建築協定」は、拘束力のない「紳士協定」で、指定された地域に住んでいても、入らなくても良いのだとのこと。「シラナンダーッ!」。30年近く、何していたのだろう。ノーテンキに、良い環境で良かったと暮らしていた。
 3階建ての住人は、建築協定から抜けたのだそうだ。そう言えば、一軒おいた隣の家は、2世帯で、外階段がついている。あの家も協定から抜けたんだ。

 「これから、どうなっていくんだろう」と、いささか心配になった。立て替えの家を、注意して見て歩くようになった。こちらには、とても立て替えの資力はないから。
 すると、もっとすごい家を見つけた。完全に3階建てだ。正面から見ても、はっきり3階建てになっている。しかし、聞いてみると、その家も、2階に地下を加えた家だという。いくら、2/3入っていればという、抜け道みたいな条文があるにしても、正面から見て3階の家を、どうして許可してしまうのか。お役所のやることは分からない。
 今後は、立て替えや、売却での新築が増える時期になっている。協定を知らない人、入らない人が増えていったら、前から建っている家は、穴に入ったようになってしまうかもしれない。老いていく者は、じっと我慢で見ているしかないのか。

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