本文へジャンプ はらだち日記12月 

 

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2006年12月30日(土)
最後まで、腹立たしい1年だった

 8月から始めた「腹立ち日記」。5ヶ月が経ったが、書くネタは、いっこうに減らない。 今年の日本社会。おかしい、それは違うだろー、と言うことが、後を絶たない。いちいち覚えていたら、ストレスで身が持たないほど。

 昨夜のテレビでは、何に一番怒ったかという、ランキング番組をやっていた。
 一位は何かと見ていた。結果は「いじめ」だそうだ。いじめでの自殺報道が、下半期のテレビで、途切れることなく続いていたから、さもありなんとは思う。

 しかし、「いじめ問題」を、学校での、子どもたちによるいじめだけに、矮小化してほしくない。
 今の日本では、至る所で「いじめ」がある。
 最新ニュースの「ホワイトカラー イグゼンプション」とかいう、長ったらしい、訳の分からぬ、カタカナ言葉の制度も、立派な「いじめ」ではないか。
 「NO」と言いにくい立場の労働者に、残業代を払わず、ただ働きが、させられるようになる制度としか、思えない。成果主義だからとか、勤務時間の、自由裁量が可能になり、今よりよくなる制度だ、などと言っているが、まゆつばだ。

 障害者自立支援法や、介護保険法が「改正」されたときにも、お仕着せで、あてがわれるのでなく、自己選択ができ、人権に配慮した制度だ、みたいなことを宣伝していた。
 しかし、実際には、自己選択したくても、施設が少ない、人手が足りないで、ほとんど、自己選択などできない。それなのに、金だけは、しっかり取られる制度になっていた。

 よろず、「おかみ」の考えることは、庶民に嬉しいことではなく、大企業や、「おかみ」に嬉しいことが多すぎる。今回のカタカナ言葉も怪しいものだ。
 できてしまった制度を、後から変えるのは至難の業。成立する前に、じっくり考えて、誰のための制度かを見極める目を持ちたい。

 年ごとに、目もかすんで、見えにくくなるだろうが、心の目をしっかり開けて、何とか世の動きを見守る、よく見える目を維持したい。

2006年12月30日(土)
最後まで、セクシュアリティを問われる年だった

 また、警官が「わいせつ行為」で逮捕された。
 電車内で、下半身を露出したのだとか。された女性が、後をつけて、同様の行為をしたことを確認後、車掌に通報して、捕まったとのこと。

 警察関係者の同様の行為が、最近は、ちょくちょく報道されるようになった。
 9/11に書いた「教師も人の子 ポルノの子」を「警官も人の子 ポルノの子」と変えれば、そのまま、通用する。
 警官も、ポルノ文化の中で生きているから、ポルノのシャワーを浴びる立場の、例外にはなり得ない。
 だから、最近、性的逸脱行為をする警官が、多くなったのかもしれない。

 常に、正義を体現しなければならない、聖人君子のような生活を要求される、ストレスの多い仕事だろう。だから、ストレスがたまりすぎて、前後を考えぬ行動に出てしまう。理解できぬ訳ではない。
 
 行為をする警官が、増えたのかもしれないが、報道されるようになったのでは、とも考える。
 以前ならば、警官ということで、報道されずにすんだ逸脱行為が、報道の例外を取り払って、報道されるようになった。いくらか、報道の自由が拡大した。などと喜んでいるのは、オメデタイかもしれない。

 警官の不祥事報道は、何をねらっているのか。それを考える必要があると思う。
 教師の不祥事を、これでもかというくらい報道した。その後に、教基法改悪があった。警官不祥事報道の後には、何があるのか。

 来年もまた、いろんな事件が起き、その都度、ワーッと報道陣が押しかけ、どのチャンネルを回しても、同じ事件の報道がされるだろう。
 「おかみ」が進めようとしている、日本の方向を左右するような動きは、ワーッと、報道陣が押しかけはしない。教基法改悪時に、国会前に数千人が集まっても、ほとんど報道されないことでも、明らかだ。

 「おかみ」にとっては、毒にも薬にもならぬ、庶民は喜びそうな、絵になる報道だけが、報道陣を集めて、ワーッとされるだろう。その陰で、「おかみ」にとって都合のいい動きが、秘かに、着々とされていく。
 『会議は踊る』の映画のように、「エロ・グロ・ナンセンス」の時代のように、歴史は繰り返す。
 来年も、ツッパッて、しっかり見続けて行かねば。 

2006年12月28日(木)
あの頃は、平和で、良かった

  年末モードに入り、テレビでは「今年のニュース」番組が多くなった。
 その中に、「つま恋コンサート」が入っていた。
 団塊の世代が、青春を取り戻そうと、コンサートを楽しんだ様子が、画面から伝わる。
 その後、ほこりをかぶっていた楽器を取り出し、仲間を集めて、グループを再結成したとの話もあった。
 歌声喫茶も再開したとか。人数が多いだけに、団塊世代の動向は、マスコミに取り上げられることも多い。

 青春を懐かしむのは、年寄りになった証拠ではないか。若者は、懐かしんではいない。 30代、40代も、懐かしむ余裕など無いから、懐かしまない。
 還暦が近づき、しゃにむに走ってきた、自分の来し方を、見つめ直したくなった世代の映像だ。 
 しゃにむに走っていた間に、置いてきてしまった「青春」を、何とか取り戻そうとあがいているとも見える。

 まだ、自分は老いぼれてはいない。これからの人生を、明るく楽しくやりたい。忘れていた情熱を、、取り戻したい。
 考えることは、大いに結構。フォークやロックを歌い始める。これも結構。反対はしない。やりたくても、やれなかったことを、これから大いにやっていこう。ほんの数年先輩として、拍手を送りたい。

 しかし、どうせ思い出すなら、あの時代についても、思い出してもらいたい。
 「あの頃は、良かった」と、懐メロを歌うことだけに、埋没してもらっては、困る。
 あの頃に、なぜ歌が歌えたのかも、思い出してほしい。それは、今より、ゆとりのある社会だったからではないのか。そして、平和だったからではないのか。

 成果主義などは無かった社会。それでも、いい製品を作ろう、お客さんに喜んでもらおう、と、仲間が手を取り合ってがんばった。一人一人が、孤立している社会ではなかった。 何か問題があれば、労働組合が解決してくれた。経営者と対峙して、組合員を守ってくれた。だから、安心して働けた。希望を持って、働けた。

 「戦争が始まるかもしれない」、「戦争に関わるかもしれない」などという心配は、頭のスミを、かすめもしなかった。『戦争を知らない子どもたち』という歌まであった。
 それが「憲法9条」によるものであることを、子どもでも知っていた。

 あの頃の「良かった時代」を再現させたいならば、「良かった。良かった」と、思い出話をするだけでなく、平和で、やりがいのあった時代を、再現する活動もしてほしいもの。

2006年12月27日(水)
過剰防衛は、国を滅ぼす

  パソコンが故障した。XPソフトを入れ直したが、不具合は続いている。
 これは、素人の手には負えない、パソコン本体の故障だろうと判断し、パソコン店に、ヨッコラサと、本体を持ち込んだ。 
 本体の保証期間中だから、当然、無料で故障を直してくれると、安心しきって持ち込んだ。しかし、店側の言い分は、単なる故障ではなく、ウィスル対策ソフトを、二重に使ったための不具合だから、有料だとのこと。二重なのかどうなのか、分かっていなかったのに、個人責任か。元々ウィルス対策ソフトが入っているから、新しく、ソフトを入れるときには、切ってくださいなんて、店では、言われてなかった。それなのに、ひどいじゃないか。と思ったが、通りそうにないので、あきらめて、とにかく、本体を白紙に戻してもらうこととした。

 翌日受け取り、XPソフトから入れ直し。どういう入れ方にするか、何方式でするか、登録IDが必要だのと、画面上で聞いてくる。そのたびに、一つ、一つ、説明書や、以前のメモやらと、首っ引きでの作業となる。
 パソコンは、やりとりをしてくれないから、始末が悪い。たとえば、画面上で「アイコンを閉じてください」とか指示されて、どれか分からなかったら、それっきり。どれがアイコンですかと、聞くわけにはいかない。そこで作業はストップ。

 業を煮やして、サポートセンターへ電話。混んでる電話を何分も待って、時間ばかりかかる。それでも、やりとりはしてもらえるから、何とかオオスジは復旧した。
 それにしても、パソコンは、自動車より始末が悪い。
 自動車ならば、故障したら、自動車屋へ持っていって、そこで全部やってくれる。ブレーキ関係のトラブルだから、あそこへ行ってくれ。これは、アクセル関係だから、こっちへ。オイル関係はどこどこへ。などとは言わない。全部一カ所でできる。
 パソコンは、セクトが強くて、それは我が社ではないので、そのメーカーに聞いてくれ。と言って、分かっているはずなのに、教えない。こちらにとっては、一続きのことなのに。
 互いの存亡に関わることだから、分からぬ訳ではないが、利用者の便宜からしたら、迷惑でしかない。

 今回の件は、「過剰防衛は、パソコンを滅ぼす」の、パソコンを使う者の「常識」を、知らずに使っていた、こちらの責任だと、笑われても仕方ない。
 パソコンならば、笑ってすませられるが、「国の過剰防衛」となると、笑ってすまされる問題ではなくなる。
 北朝鮮は攻めてくる。中国は油断ならない。ロシアも危ない。だから「防衛省」。これが、今の日本の「常識」だろう。しかし、この常識は、「アメリカ」のメガネを通した「常識」で、「世界の常識」とは、違うかもしれない。少なくとも、「南米の常識」とは、違ってきている。「アラブの常識」とも違うのではなかろうか。
 日本の「常識」世界の「常識」と思わずに、「知らない者」の言い分にも、耳傾けてほしいものだ。

   

2006年12月25日(月)
神様も、時代によって進化する?

 クリスマス関連のニュースに、おもしろいものがあった。子ども向けでたいしたことはない、と言ってしまえばそれまでだが。
 衛生を通じて、サンタの居場所を教えるというのだ。NASAが何年か前からやっていて、ボランティアが何カ国語とやらで、対応しているとのこと。日本語もあるそうで、女性が対応している場面もでた。

 夢のお話に、科学が荷担しているのは、どうかとも思うが、今の子どもたちは、科学的知識が相当はいっているから、単に、お空を飛んでくると言っただけでは、納得しないのだろう。じゃ、今どこのお空を飛んでいるか、聞いてみようと電話で問い合わせる。今は、エジプトの上を飛んでいるから、後3時間後には到着するだろう。との返事で、はじめて納得するという訳か。
 しかし、夜9時頃には到着するという返事に、それじゃ僕は寝ないで待っているよ。と言った子どもとのやりとりがあった。あの親は困るだろうな。早く寝ないと、サンタさんが通り過ぎていってしまうとでも言って、寝かせるのだろうか。

 サンタさんは、子ども相手のお話ですむが、宗教にも、同様のことがある。
 以前、コスタリカに行ったときに、小学校の進化に関する授業を見学した。
 コスタリカは、カトリックが7、8割を占める国だから、どう教えるだろうかと、興味津々だった。
 教師が「この世のものは、神様が作られた」と言ったのには、驚いた。日本では考えられないことだから。しかし、その後の話は、ビックバンが出てきて、日本でも教えている進化論の話になった。猿から人間が進化したのではない。人間は、直接神から造られたという話はなさそうだった。最初の、ビックバンを起こしたのが、神だということで、充分納得できる話だった。すべてのことの始まりに神がある。これが聖書の教えだから。

 3年くらい前、新興宗教に誘われた。神道系だったが、そこでの教義でも、やはり、ビッグバンを起こしたのが神だ、という教え方だった。
 私が子どもの時には、聖書に書かれている「天地創造」の話を、事実のように教えられたから、その後、学校で進化論などを学んだとき、今までの教えが、単なる「お話」だと思われ、信仰が揺らいだ経験がある。
 2000年前の人間に、理解できる書き方をした聖書が、そのまま時代を超えて、真実であると、考え続けられるのは、困難に決まっている。時代に合わせての、表現を考えねばならないのは当然のこと。

 人間を超えた存在としての、神の存在を知るには、科学の力を借りることも必要だ。科学が進めば、神の存在がさらに明確になるだろう。科学と宗教の対立など、本来はあり得ないことだと思う。

2006年12月20日(水)
意地悪ばあさん、亡くなる

  夜のニュースでは「元都知事の青島氏」などと、報道されていたが、私にとっては、「意地悪ばあさん」の青島氏という方が、ピンとくる。
 まだ70代での死去は、惜しい。これから「意地悪ばあさん」の実年齢に近づき、ますますさえた演技を期待していたのに。
 
 といっても「意地悪ばあさん」を、ずっと見ていたわけではない。ホントのことを言えば、番組はほとんど見ていない。
 しかし、報道番組や、特集番組で見た「意地悪ばあさん」は、実に痛快で「あれぞ、私のお手本」と思えるものだった。

 腹の立つことばかりの、今日この頃の日本国ではあるが、この先どうなるかを見たいという好奇心で、長生きしたいと思っている。「憎まれっ子世にはばかる」の標本であった「意地悪ばあさん」は、私にとってのお手本だった。

 まだまだ、足元にも及ばないが、チョイチョイ「意地悪ばあさん」ぶりを発揮している。先日も、それほど混んではいない電車に乗ったとき、優先席で形態操作しているギャルを見つけた。他の席に座ればいいのに、わざわざ彼女の隣に座り、「すみません。私、ペースメーカー入れてるんです」と、言ってやった。そんなときは、白髪の効用。真実味が出せる。「あっ。すいません」と、彼女はあわてて携帯を切った。すかさず「ありがとうございます。おかげで助かります」と、お世辞もしっかり言った。

 こんなことをしていると、「嘘の奴がいるぜ」という噂が広がって、本当のペースメーカー使用者が、迷惑を被るかもしれない。かといって、黙ってやらせておくのは腹が立つ。「ここは、優先席だから、やめなさい」と言ったら、角が立つ。「何言ってるのよ。誰も迷惑してないでしょ」とか言われたら、引っ込むしかない。

 権利侵害の行為であることを、具体的に分からせるには、当事者が一番力があるとは、マイノリティの人々との活動から学んだ。
 10/2の日記に書いた、聾のKさんから学んだことのように、当事者を装うことは、当事者から見れば、許せない行為かもしれない。 
 しかし、マイノリティの方は、ほとんどが少数者であるから、当事者と遭遇することは、少ないのが現実。だから、配慮など考えずにすんでしまう。

 問題を全く知らない、無関心の者が、ただ単に、自分が有利になるために装うのは、許されることではない。が、問題は何かを知るものが、より知らせるために装うことは、許されてもよいのではないか。と考えて、第2第3のKさんに、叱られそうなことを、続けている。
 これは独りよがりだろうか。

2006年12月17日(日)
日本社会は、第4コーナーを回った

  予定通り、教育基本法「改正」案が、参議院で可決された。
 国会前の座り込みに行った友人の話では、全国からの参加者では、全教関係の方が多かったとか。日教組関係者は、数日前から来なくなったとか。動員を解いてしまったのだろう。やっても意味がないと判断したのか。
 
 日教組は、教育関係最大の団体。自分自身が所属していたからとの、身びいきがあるのかもしれないが、いくら数が減ったとはいえ、リーダーシップは失っていないはず。日教組が来なくなったと聞いて、がっかりした。教育基本法といえば、教育の憲法ともいうべきもの。それが、覆されようとしているときに、たとえ無理とは分かっていても、最後の最後まで、希望を捨てずに、闘うべきではないか。少なくとも、全教はそれを示した。
 早々と、白旗あげるような行動をとっていては、いじめられている子を、身を挺しても守り抜くという姿勢を示す、教師たり得ないのではないか。
 物わかりのよい、無駄な抵抗をしない教師ばかりになったら、いじめや、不登校は、もっと増える学校になるだろう。

 時の政府・与党によって、左右される学校で、実施される教育。それは当然、時の政府・与党に都合よい教育になる。
 権利を主張することは、身勝手となり、平等を唱えることは、独りよがりといわれる。 格差社会も当然とし、小さな幸せを見つけて、黙ってお国のために尽くす。そんな人間を作る社会になる。弱い者が弱い者同士、小さなパイの分配を巡って争うような社会。争いたくなければ、国外に出るしかない。

 かといって、国外に出ようにも、満州国はない。台湾もない。ましてや朝鮮など、考えられもしない。いったい、どこへ出よというのか。
 夢のある社会を望んでも、夢の作りようがない社会。

 そこへ「公務員」としての、安定した職業だという「勧誘チラシ」を見せられたら、「自衛官」への道を進む子どもたちも、増えるだろう。「お国のために尽くせる仕事」という宣伝も、今より数段強くなるだろうから。何しろ「防衛省」としての活動になるのだから。予算も、数倍増えるだろうし、人手も増やせる。やれることは、ぐーんと増す。

 日本社会は、戦争への道の、第4コーナーを回った。後は、ラストスパートをかけて、ゴールに突き進むのみ。5年以内の改憲を、展望しているらしいが、来年の参院選、次の衆院選を経て、自・公の過半数が続けば、もっと早く、改憲できるかもしれない。
 
 ニュースでも、騒がないし、人の口にも上っている様子のない現状では、できそうだとの予感がする。
 この静けさが、不気味で、恐ろしさを感ずる。

2006年12月14日(木)
国の方向より、松坂投手が重要か

  松坂投手が、レッドソックスに行くかどうかで、テレビは大騒ぎしている。ニュース番組の途中にも「ただ今入ってきました」と、速報を伝える力の入れよう。

 昨夜は、友人から電話があった。教基法の大詰めだから、きょうの国会前座り込みに、行かないかとの誘いだった。
 あいにく、体調を崩し、雨の予報が出ているきょう、国会前の半日座り込みはできないと、断った。行きたい気持ちは山々だが、さらに体調を悪くすると、子どもたちに迷惑をかけるからと、我慢した。

 テレビのニュースでは、相変わらず、松坂、松坂で、明日にも決着が付くだろう教基法については、ほとんど報道されていない。かろうじて、NHKだけが、国会中継をやっているのみ。国会前の座り込みが、どれくらいの規模なのかは、行ってみなければ分からないという状況。

 日本の、今後の教育のあり方を決める「教育基本法」。第2次大戦の犠牲の上に作られた、平和国家の礎となる法律。それを変えることは、日本の今後のあり方を変えること。 それが、松坂投手の、大リーグ入りの陰に隠されて、良いのか。
 日本の今後の教育のあり方より、松坂投手の動向が、大事なのか。
 「大衆はそうなんだよ。教基法なんて、訳の分からないことより、松坂投手の、大リーグ入りの方が、関心あるんだよ」と、言うのだとしたら、随分国民をなめているのではないか。 国会前には、数百人しかいないとしても、全国各地で、座り込みしたいと思っている、何百万の人がいるはずだ。
 座り込みや、デモを報道することで、関心を持つ人が増える。増やすために報道するのも、マスコミの使命だろう。教基法が、日本の今後を決定することは、事実だから。

 何としても、教基法を通したい政府・与党が、報道規制をかけているのではないか。
 寄らしむべし、知らしむべからずで、知らないうちに通してしまえば、後はこっちのものと、指示を出しているのではないか。
 タウンミーティングで「やらせ」をしていた政府のことだから、報道操作など、造作もないことだろう。局へ直接言わなくても、通ることを願っている財界と組んで、番組のスポンサーの要望という形で、規制できるだろう。

 そうとでも考えねば、ここ数日のニュース報道について、納得できない。権力を持っている者が、それの維持のためには何でもする。
 知事の談合関与もそれだし、裏金問題も根は同じだろう。
 ただ、知事くらいでは、最高権力でないから、バレてしまっただけ。政府となれば、ほとんどバレずに、何でもできてしまう。今回のTMは、まれな例だろう。

 一矢報いたいが、ごまめの歯ぎしりで、どうにもならぬ。ならぬから余計腹が立つ。

2006年12月14日(木)
20人は、260万人に勝る?!

 応益負担は希望をつぶすとの見出しで、国会質問を伝える紙面と、障害者自立支援法についての「主張」紙面

 12月9日は、何の日かとの質問に、正確に答えられる人が、何人いるだろう。国民の、654万人強の人々に関わる問題を、考える日なのだが。
 
 「拉致問題って知ってますか」と聞いたら、今では8〜9割の国民が、「知っています」「応援しています」「写真展を見ました」と、答えるだろう。
 今週は、拉致問題を考える週間だとか。テレビでの報道も増えている。

 「自立支援法って知ってますか」と聞いたら、何人の人が「知ってます」と答えるだろうか。「名前は聞いたことあります。障害のある人が自立するために、政府が応援してあげるんでしょ」と答える人も、いるかもしれない。

 12月9日は、「障害者の日」で、654万人強は、日本の全障害者の概数。

 654万人強のうち、日常的に介護が必要だったり、一般就労が困難な「重度、重複」と言われる障害者は、261万人強にのぼる。
 この中には、作業所に通うことで、生活のリズムを整え、仕事をすることで、張りのある生活をしている人たちも多い。今までは、「応能」負担の制度で、作業所での賃金、月額数千円は、自分の「給料」として、受け取れていた。
 それが「応益」負担に変えられた。政府の言い分は、障害者といえども、自己選択・自己決定すべき。「応益」負担により、やってもらう存在でなく、やる存在であることを示せる、ということらしい。

 しかし、現実は、施設への支払いができず、退所する。そのあおりで、施設自体が存続の危機に陥る。全国的に、さんざんな状況になっている。
 10月31日には、1万5千人規模の集会を、東京で開いた。しかし、そのニュースは、ほとんど報道されなかった。

 北朝鮮拉致被害者問題は、国家の犯罪という、とてつもない極悪の犯罪だ。見過ごしてはいけない。やっと気運が盛り上がってきたから、ここで解決へと一気に進むことを願っている。
 しかし、拉致被害者は、政府認定が17人、特定失踪者でも500人弱。
 障害者は、重度者だけで261万人強。そして、この数は増え続け、いつ、誰が、増加分に入るかは、神のみぞ知るという状況がある。つまり、誰でもが、障害者になりうるのが、現実問題。なったときに慌てるのが、通例のようだが。

 数が少ないから、後回しで良いとか、その人達だけの問題だから、その人達で何とかしてよ。などという気持ちはまるでないが、拉致問題への関心と、同程度の関心を持って、障害者問題を見てほしいと、願っている。 

2006年12月13日(水)
ツッパリ続けると、言い分の通ることもある

  テレビニュースの特集番組で、飲酒運転と、スピード違反の検問番組をやっていた。暮れで増える、飲酒運転を無くそうと、奮闘している警邏隊の方々を、追っている番組だった。捕まった違反者に対しても、丁寧な物言いで、「ご苦労様です。警察の皆様のおかげです」と言いたくなる番組だった。

 しかし、ちまたの噂では、違反検挙件数が成績に関わる。反則金の額が成績に関わる。だから、反則金が少なくなると、取り締まりを増やす。と言われている。
 これが事実なのかどうか分からないが、「火のない所に煙は立たない」の諺からすると、根も葉もないデマとは思えない。そんなことを思い出させる事件があった。

 3年くらい前の夏。大急ぎで買い物をしようと、焦っていた。幹線道路を右折して、店の前で車を止めた。すると、お巡りさんが、すぐ後からやってきて、右折禁止違反だと、反則金切符を切られた。慌てていたから、標識を見落としたのだ。
 7000円という金額に仰天して、警察に行った。ゴールド免許を取るときに、違反したときに、特典があるから申請しろ、と書いてあったから、申請した。ゴールド免許取ってから、今回初めての違反なのに、7000円はひどい。しかも、後から付いてきているのなら、マイクで「右折禁止ですよ」と言ってくれれば違反しないですんだのに、違反させておいて、とっ捕まえるなど、やり方が汚い。と、不満をぶちまけた。

 結局、ゴールド免許だから、違反点数が、短期間で消えるということだけで、反則金は支払う羽目になった。
 闇討ちをかけたような、取り締まり方法に、納得がいかなかったから、払い込みをしないで、ほっておいた。督促状が来たが、それもほっておいた。

 1年以上経った頃、交通裁判所とかいう所から、呼び出しが来た。言いたいことを言ってから、支払おうと出かけていった。
 違反を認めるかというから、右折違反したのは事実だから、認めると答えた。では、ここに印鑑を押せと来たから、違反は認めるが、取り締まり方法に納得いかないから、押さないと言ってやった。すると、裁判所から呼び出しがあるから、そこで言ってくれと言う。

 分かりましたと帰ってきてから、かれこれ1年が経っても、何も言ってこない。知り合いの弁護士さんに聞くと、事実が発生してから、2年経ったら時効になるのだとのこと。
何のことはない。すでに時効になってしまったのだ。
 裁判所も、いろんな交通違反を処理しているのだろう。もっとずっと悪質な事件が何件もあって、優先順位が低かったのだろう。そのうちそのうちと、延ばしているうちに、時効になってしまったのだと推察すると、状況が見えてくる。

 ツッパリ続けていると、言い分の通ることがある。今回は結果としてたまたまだったが。

2006年12月8日(金)
老人と、言われるほどの、歳でない?!

  老人とは何歳からを言うのか。映画館入場料は、60才からだ。シルバーパスとかいって、割引される。
 役所的には、65才らしい。検診などが無料になったり、割安になったりする。

 しかし、何歳からというのも、役所の都合で変わるらしい。政府の都合というべきか。バスの割引はや、無料化は、70才からに変更されたようだ。以前は65才だったのに。
 高齢者世帯とか、一人暮らしの高齢者という場合も、70才らしい。
 要するに、それぞれのご都合で、何歳だと決めているだけで、これという根拠はないのだろう。

 そうなれば、本人が老人と思うかどうかで、決めても良いことになりそうだ。
 だから、いくつになっても、自分は老人だと思わなければ、それで良いとも言える。
 しかし、日常生活や、行動に支障を来すようになったら、いくら「老人ではない」と思いたくても、思わざるを得ないのではないか。それを「思わない」と頑張られると、周囲の人間が、迷惑を被ることになる。

 今朝は、隣町まで、「老人会」の、体操の指導に行ってきた。
 「老人会」の会員だから、皆「老人」だという自覚はあるのだろう。しかし、行動に支障を来したくないから、体操をしようと、集まってきたようだ。集まった方々の、平均年齢は、75才くらいだとのこと。それでも、新しく体操を始める。「ご立派」と言いたい。

 それに引き替え、我が町内の老人達は、中途半端に思われる。
 「老人会」と言うのが嫌で、愛称を付け、「サロン」的な集まりに、してきたようだ。それでも、会員がいっこうに増えないのだと聞く。
 チラホラ聞こえてくる声によれば、退職後も、仕事関係の仲間と、つきあっている人もいるらしい。遊びに行くのも、その人達で、家は、以前と同じ、寝る所になっている。
 しかし、これは危ない。車や電車で移動しなければ、会えない仲間は、そのうち疎遠にならざるを得ない。この先、まだまだ10年、15年の付き合いが必要なのに。
 現に、カーテンの隙間から外を見て、寂しげに、室内に入ってしまう人が、何人もいると、聞いている。

 家の中で、趣味三昧をしている人も、結構いるらしい。若いときできなかった、趣味の世界に、没頭できる時を得たのだから、「おめでとう」と言って、良しとすべきか。
 しかし、これも危ない。室内にこもっていると、運動不足になり、腰やら、膝やらがダメになって、寝たきりになる可能性が高い。

 老人会の体操などと、バカにしないで、まずは集まって、やってみることが大事だと思う。男のメンツなどは脇に置いて、出てみることだ。


2006年12月7日(木)
救急車は、無料で速いタクシー?!

 以前、新聞の統計がらみで、「今年度の、救急車出動回数と、利用の理由」を読んだ。そのなかに、病院に行くときの、タクシー代わりに利用する人がある、と書かれていた。「そんなことしていたら、本当に救急で必要な人が、間に合わなくなる。とんでもない話」と腹を立てた記憶がある。

 その「とんでもない話」が、自宅と同じ通りの、数件離れた家にあった。
 夏頃から、夜遅くに3、4回、救急車が来ていることに気づいた。「具合の悪い方がいるのだ。大丈夫かな」と思って、自宅の庭に出て、見ていることもあった。
 数件しか離れていないが、別の班に属していて、挨拶もしたことがないから「大丈夫ですか」と、駆けつけることは、いかにお節介ばあさんとはいえ、はばかられて、遠くから見ているだけだった。

 昨日は、同じ班の人と、たまたま話をする機会があった。
 「毎朝、黒塗りのお迎えの車が来る」という話になり、その家の主は、以前は「何とか局長」で、現在は「何とか会社の副社長」だと知った。
 「時々救急車が来るようだけど」と、聞いてみた。94才とかになる母親が、心臓の持病があり、具合が悪くなるときに、救急車をよぶのだと分かった。
 主は、毎朝「お迎え」だから、車がないのだそうだ。そのため、具合が悪くなると、救急車にするらしい。

 急病の時には、誰でも無料で使えるのが、救急車の使命ではある。
 10月には、我が家の三男も、突然意識を失って倒れたので、救急車のお世話になった。結果としては、大事にならずにすんだので、救急車をよぶほどではなかった、と言われるかもしれない。しかし、それは、適切な処置を早くしてもらえたからで、ほっておいて、一晩経ってしまったら、大事になっていたかもしれない。救急車をよんだのは、適切な判断だったと思う。

 高齢の母親が、具合が悪くなれば、救急車で病院に行くのが、もっとも安心だろう。
 しかし、「お迎え」が来るから、車を持たず、タクシー代わりに、救急車で運ぶということは、何となく納得いかない。かかりつけ医があるだろうし、タクシーは夜中でも来てくれる。
 主は、通勤には車が不要だが、休日はどうするのだ。タクシーを利用するのか?!
 妻の買い物はどうするのだ。3分とかからぬ所に、スーパーがあるから、車は不要か?!
重い荷物はどうするのだ。宅配だの、デリバリーサービスですむのか?! 
 姑の外出はどうするのだ。デイサービスを利用するから、必要ないのか?!

 何とか副社長で、黒塗りのお迎えであれば、救急車など使わず、自助努力で何とかしてもらいたいと思うのは、持たざる者のひがみか。

2006年12月2日(土)
山火事は、防がねばならぬが・・・

たき火に使われた新聞紙や雑誌 使えるライターが捨てられていた

 近くの公園の斜面緑地。毎月1回とはいえ、2年以上も手を入れていると、それなりに、形が整って来つつある。今まで、赤裸だった斜面に、産毛のように草が芽を出し、緑に変わってきている。

 その変化を拒否するように、人の目につきにくい窪地で、火遊びをした痕跡を、メンバーのひとりが見つけた。

 整備を始めた頃には、縄文時代のいろり後のような状況があり、「なるほど。上手い場所を見つけたものだ」と、半ば感心した。しかし、そのままにしておいては、火事の危険もあるからと、周囲を封鎖して、出入りできぬようにした。
 手だてが功を奏したのか、その後、「いろり」を使われることはなかったのだが、最近になって、また使い始めたらしい。

 100円ライターとはいえ、ライターを買って、新聞紙や雑誌などに火をつける。小学生には無理だろう。中・高校生の仕業だと思われる。
 どんな子どもなのだろうか。全くの自分勝手な、人の迷惑など、何とも思わないような子どもなのだろうか。それとも、気が弱く、学校や家庭での、ストレスを発散する場を持たず、陰湿に友達数人でたき火などしているのだろうか。

 公園の周りの住民は、教育レベルの高い人が多い。母親が、7、8割大学出だという。当然、子どもにたいする要求水準も高い。成績も、良くて当たり前のような状況のなかで、少しでも成績のふるわない子どもは、疎外感を持つのではあるまいか。 しつけもそれ相応にされているから、やたらに暴力をふるうようなことはできない。自分は自分だと、開き直ることもできない。だから、よけいにストレスがたまる。
 同じような子どもが2、3人集まって、たき火などして、一時の不満解消を図っている。などと考えると、とっつかまえて、ギュウギュウの目に遭わせればいい、とは思えない。

 かといって、火事になったら、取り返しはつかない。紙くずを散乱させたままにしてある。その行為自体は、決して良いとは言えない。
 次の例会では、再度「いろり」は埋めるし、その場所に来る「けもの道」もふさぐ。「たき火をするのは危険です。止めてください」の看板も立てる。

 できれば、やった子どもたちと、一緒に作業をしたい。シルバーの面々が、緑地の再生に、汗して頑張っているのは、なぜか。どんな思いを込めているのか。メンバーの息づかいを聞きながら、「おれも、自然保護の一端を担えるんだ。おれだって捨てたもんじゃない」と、思ってほしい。自分が必要とされていることを知った人間は、きっと前に進んで行かれる。そう信じている。

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