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人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2007年1月31日(水)
1月の「反省日記」

 1月が今日で終わってしまう。
 「きょうは、文章だけだけど、明日は写真を入れよう」と、思いながら、気がついたら、月末になっていた。今月は、中身は「はらだち日記」だが、体裁は「ズボラ日記」だ。「日記」とはいえ、読んでもらう対象者宛に書いている日記としては、失格だ。

 松の内あたりまでは、その日に合った写真が入っている。それなりに説得力のある日記になっている。
 しかし、その後は、写真が1枚もない。完全に手抜きだ。
 なぜ無いのか。理由は簡単。新聞の記事を切り取らない。カメラを持って外に出ない。からだ。日記を、読んでもらう作り方をしようとする、力を抜いていた。

 そうなったには、理由がある。弁解がましいが。
 新しい「仕事」が入ったからだ。
 いつも利用している電車の駅の、ホーム下ほどの場所にある、マンションの一室を借り、心を病んでいる人たちの「たまり場」を作る手伝いをしてほしい、という話が舞い込んだ。

 障害者に対する政治の風当たりは、厳しくなるばかり。もうけにならない、社会のお荷物と思っている人に対する手だては、後回し、先削りで、とても行政を待ってはいられない。しびれを切らして、手を挙げた者がかけづり回ることになる。
 それが分かっているから、断りにくく、ついつい手伝いを始めた。

 マンションは、2月から家賃を払うことになる。家主の好意で、特別安くしてもらったとはいえ、場所が良いから月10万もする。補助金0円だから、全部自前。家賃をひねり出すためには、何をやるか。
 集まったメンバーが、女性ばかりのこともあり、喫茶店のような場所にすることになった。アンテナショップのようにして、作業所の製品を売るのも良い。場所を貸して、展覧会や発表会に使ってもらう。若い芸人さんに来てもらい、駅前寄席を開き、参加費を取る。
 
 あれやらこれやらのアイデアを出し合う会議。実現の可能性を探るために、あちこちへ行って話を聞く。経験者、同業者に問い合わせをする。
 朝から晩まで、それにかかり切っているわけではないが、ついつい、新聞を読む暇もない状況に、なってしまっていた。

 2月になり、準備段階ではあっても、開室して、軌道に乗れば、新聞読んで、切り抜いて、実証的な「はらだち日記」が、書けるようになるはず。
 そうなることを期待して、1月を閉じる。

2007年1月31日(水)
「女性は生む機械」発言と重ねて

  厚労相柳沢大臣の、進退がどうなるかも、関心のあるところだが、2、3回報道されただけで、そのままになった「離婚後300日以内に出生した子どもの父親は、誰になるのか」の方も、気になっている。

 明治に制定されたという「300日以内は、前夫の子と見なす」法律が、なぜ今まで変更されなかったのか。
 明治時代であれば、女はいったん結婚したら、離婚など滅多にしないものであったろう。その上、DNA鑑定もなく、妊娠がいつであるかの推測も曖昧であった。確かな根拠は、出産だけ。
 その時代に、300日以内の規定を設けたのは、やむを得なかっただろう。

 今は、妊娠判定の精度も上がり、カルテの開示もできる。最終的親子識別には、DNA鑑定も可能になっている。出産だけが確実な時代ではない。
 いつ出産したかではなく、いつ妊娠したかで、判定すれば、今起こっている問題は、簡単に解決する。

 法律などというものは、所詮「約束事」にすぎない。「憲法」は、国の礎となるから、安易に変えてはならない。しかし、法律は、科学的真実がどうであるかとか、生物学的定説の問題とは違う。社会生活する上での約束事を、明文化して、権威付けに難しい言い方で表現したものと考える。
 「約束事」なのだから、実情に合わせて、さっさと変更していくのが、生活上はスムーズで良いのではないか。

 法律となると、バカに大仰に、金科玉条のごとくに考えているのが、お役人に思える。お上の意向を知らしめるために、法律をかざして何かするのは、明治憲法とともに、消え去ったはずなのに、いまだにその傾向があるように思う。

 今回の法律も、子どもの利益を考えれば、妊娠時から換算して、誰の子かを判断すれば、一目瞭然なのに、出産時から換算するから、ややこしいことになる。一番迷惑を被るのは、子ども。時には、教育が受けられなかったり、留学できなかったりするようだ。
 子どもの利益ではなく、家の重視であった、明治憲法を引き継いでいることは、見え見えだと感じる。
 一日も早く、実態にあった法律に直して、子どもが戸籍なしで成長するような愚考は、止めてほしい。

2007年1月30日(火)
役者の責任はないのか

 人の噂も75日というが、それは昔の話。今は、人の噂も7日か10日になっている。世の中、スピードが速くなっているから、当然のこと。75日も噂していては、次々出てくる噂のタネで、頭がパンクしてしまう。

 というわけで、「納豆ダイエットのねつ造」問題など、すでに遠ーいムカシの話になっていると思う。
  しかし、報道もされなくなった今だから、持っていた疑問を、表に出したい。
 あの番組に出て「すばらしーい!」などと、煽っていた(と、私には見えた)役者の皆さんの責任は、ゼロなのだろうか。

 番組制作者の責任。役者は、台本通り読んでいただけ、ということで、何も責任を問われないままで、いいのだろうか。何にでも噛み付きたがるばあさんとしては、納得がいかない。
 「子どもじゃないんだから、役者が、自分の意志で、台本をどうこうできないことくらい、分かるでしょ」と言われるのは、目に見えている。芝居ならば、その通りだろう。そして、役者も、食っていかねばならぬから、出演依頼が来れば、ハイハイと受けるだろう。

 「あるある・・・・」を見ていた側の立場で言えば、出ている役者が、本当に感心しているから、番組の内容が、本当だろうと、考えたのではないか。ドラマや、バラエティーなら、半分は嘘だろうと思ってみるが、一見、科学的な構成だから、役者の話も、役としての話ではなく、役者の素の声として、受け取ってしまった。だから、反響が大きかったのだと思う。あれが、見たこともない人間が出ていたら、同じ番組でも、あんなに大きな反響は、出なかったのではないか。

 だからこそ、自分が出演する番組に、役者も何らかの責任を持つことを、考えてほしいのだ。
 「この場組は、いかがわしそうだから、出たらヤバイぞ」とか「この番組に出たら、あの番組はホサれるかも。でるのはやめよう」と、考えて出るようになってほしいのだ。
 ドラマや、バラエティー番組で、視聴者が嘘を楽しむものは、何でもかまわないが、健康や教育、経済など、生活の基盤になる、報道番組に近い場合は、出演者として、発言に責任持ってもらう方策を、講じてほしい。視聴者は、制作者を見て、行動するのではなく、出演している役者の言動に左右されて、行動するのだから。

 ついでに言えば、CMの場合も、役者の個性をウリにしている場合は、責任とれるかどうかを考えて、出演してほしい。
 以前、サラ金のCMに出ていた役者のことが、問題になったが、保険や薬のCMにも、同様の問題が起きるのではないかと、心配になる。役者なんかで、ゴマかされるのが悪い。自己責任だと、言われそうだが、有名な役者をつかうのは、ゴマかそうとする意志が働いている証拠ではないか。そうでなければ、何千万の出演料で、頼むわけがない。

 役者の皆様の、自戒と自覚を望む次第。

2007年1月27日(土)
閉店セールにつられて、衝動買い

  医者に行った帰り、駅前で、ブティックの「閉店セール」の看板を見た。
 ちょっと時間があったので、「何か良いものがあったら・・・」と立ち寄った。「商店街と言うほどの場所でないから、経営が大変だったのだろう」と、同情心も湧いて、初めての店内に入った。

 そんなに広い店ではないから、ある物はしれていた。それぞれに、こだわりのありそうな一品だったが。
 余程ほしい物があったらのつもりが、前あきのベストを買ってしまった。良い物があったら買いたい、と思っていた物ではあるが、店にあったのが、最良だったかどうかは何とも言えない。もっとよく吟味してから、買うべきだったかもしれない。完全な衝動買いだ。

 安売りの店でなく、一般の店がセールをしていると、良い品物が、安く買えるのではないかという期待感で、ついつい店に入り、衝動買いをする悪い癖がある。
 普段、ウィンドショッピングなどしていないから、その品物が本当に安いのかどうかは分からない。店の表示を信じるしかないという、頼りなさにもかかわらず。

 良い品物を安く買いたいという、消費者心理をついた商法かと思う例もある。
 一駅向こうの駅前には、年中「閉店セール」の看板を出している寝具屋がある。はじめは、セールならと飛び込んで、枕だの、小物だのを安く買ったと、喜んでいた。
 半年たってもセールのままなので、さすがに「嘘セール」だろうと、その後は行かない。しかし、未だにやっているところを見ると、つられる客が居るのだろう。
 
 閉店でもないのに「閉店セール」などと表示して、お客を集めるのは、不当表示にならないのだろうか。「閉店セール」と看板出せるのは、実際の閉店前どれくらいなのか。予定がありますと言えば、それですむのか。

 不当表示は、こんな些細なことだけでなく、大きな問題として、各所にある。
 「格差是正」も「美しい国作り」も、それを言うことにより、何か良くなると思わせる点では、不当表示に近いのではないか。現に「改革を止めるな」の宣伝文句に踊らされ、衝動買いした衆院選がある。「予定です。成果はやってみなくては分かりません」と言えば、それですむのか。
 何事も参院選までは、よく見せてだましておこうという、魂胆がはっきりしている分、不当表示も、悪質ではないか。国民だましは、はっきりしているのではないか。

 閉店セールにつられる私だが、政府の掲げる表示には、つられないでいよう。 

2007年1月24日(水)
親は、子どもに、頼られたがっている

 振り込め詐欺で、数回にわたって、計1300万円盗られたという、78才の父親について、テレビで報道された。よくそれだけの金を持っていた、と思うとともに、一昨年の秋には、もう少しで同じ目に遭うところだったから、人ごととは思えず、見入った。
 いつも同じ手口だが、同居している子どもを装ってではなく、離れて暮らしている子どもを装ってかけてくる。しかも、決まって息子だ。娘のケースは聞かない。
 そして、これも同じだが、密に連絡を取り合っていない場合に、被害に遭っている。

 親子なんだから、普段から、互いに連絡を取り合っていればいいのに、疎遠にしているから、被害に遭うのだ。と、自己責任のように言われる場合もある。
 しかし、親の立場とすれば、おとなになっている息子に、「どうしている。大丈夫か」と、ちょくちょく連絡取ることは、子ども扱いしているようで、はばかられる。

 独身の時は、それでも「うるさい親だ」と思われるだけだからと、連絡が取りやすいが、結婚してからは、息子の妻との関係が生じるから、ますます連絡が取りずらい。
 電話などかければ、初めに出るのは、だいたい息子の妻になる場合が多いから、気を遣ってかけにくい。相手の生活に、踏み込むような気がして、ついつい遠慮してしまう。
 娘の場合は、そうでもないのだろうが、息子は、やりづらい。

 息子の方から、かけてくればいいのだが、自分の仕事と、自分たちの生活でめいっぱい。なかなか老親にまで気が回らない。特に息子は、娘のように、連れ合いの不満やら、生活の愚痴やらを、親に話すことをしない。息子の妻も、舅・姑に電話するのは気が重い。話すなら、自分の両親になるだろう。
 結果として、子どもの側から、ちょくちょく連絡を取ることはない。

 というわけで、息子からと言われる振り込め詐欺被害が、多いように思う。
 しかし、ここは考えよう。「被害に遭わないために」と言えば、連絡を取りやすいから、振り込め詐欺が消滅していない、このピンチを、チャンスに変えて、子どもたちとの連絡を、密にしてみるのも良いかもしれない。何でもないのに電話して、話すこともないのでは間が持たないが、こういう詐欺にあったと報道されている。息子はそんなことにはなっていないだろうと、念のため電話した。と言えば、近況を語らざるを得ない。時々電話しても、仕方ないと寛容に扱ってもらえるだろう。
 とりあえず、息子にメールを出してみよう。

2007年1月22日(月)
住民自治の、美名に隠れて

 近くにある子どものための施設が、「運営協議会」方式に変わった。何が変わったのか、よく分からないまま、1年ぶりに「委員会」に出席。
 運営委員長の「年頭挨拶」があり、「住民自治の新しい形である、協議会活動が始まって1年。日本ではまだまだ珍しい、民主的活動だから・・・」と、自画自賛。
 
 しかし、予算は年にたったの6万だけ。その中から、事務費も活動費も、すべてをまかなわねばならない。
 施設の修繕、備品の調達などまで、担当するような話しぶり。たまりかねて、修繕や、備品の予算は、施設にいくらあるのかと聞いた。
 分かったことは、いくつかの施設が、何たら支援センターの下に置かれ、支援センターに、配分された予算のなかから、必要度に応じて、各施設に割り当てられるらしい。 
 話を聞けば聞くほど、行政の手抜き、予算削減に手を貸す「協議会」だという気がした。 卓球のラケット、一輪車、積み木、など、など。子どもたちが使えば、消耗してしまう遊具も、おいそれと、施設の裁量で買うわけにはいかない。
 ベビーベッド、サークル、オマル、傘立て、書棚。などは、寄贈に頼ろうという話になっている。

 自分たちの施設だから、自分たちの力で何とかする。予算は限られているから、寄付や寄贈に頼ってもやむを得ない。
 まるっきりゼロからスタートする「サークル活動」や、自分たちが始める「ボランティア活動」なら分かる。私は、現に今、精神障害者の「憩いの場」作りのために、運営委員の端くれになり、寄付や寄贈品の調達に、知恵を絞っているから。

 今まで市の施設として「公営」ということで、安心して、子どもたちが利用してきた施設が、市の都合だけで、「民営」化される。しかも「住民自治」などという言葉で、おだてられて、運営に係わる人間は「手弁当」でやらねばならない。
 こんなものは、住民自治とは思えない。税金は、住民が出したものだから、修繕費も、備品費も、消耗品費も、施設職員の人件費も、すべて任されるのならば、まだ分かる。
 しかし、そうではない。施設の運営に口を出せそうだが、予算を握っていないから、口は出せない。市の都合のままに、運営される。

 そのうち、施設の職員から、予算が足りず、消耗品も充分買えない。などと言われると、それでは「利用料」をとって、予算の足しにしよう。などと言い出しかねない。受益者負担は当然、という風潮のなかで。
 そうなったら、市の思うつぼ。住民相互に金を出し合わせ、市の予算は、とんでもない所に使いかねない。
 会議に出るのは面倒だが、行政の「お先棒担ぎ」にならぬよう、目を光らせるためには、出席せねばなるまい。

2007年1月18日(木)
医者は、バタリの鶏なみ

 1ヶ月に1回、定期検診で病院に行く。
 きょうは、息子の検診につきあって、病院に行った。
 何カ所かの病院に行っているうちに、オモシロイコトに気づいた。オモシロイなどと言っては、お医者さんには、大変失礼かもしれないが。

 新しい病院であればあるほど、個室化が図られ、プライバシーへの配慮で、番号制になり、電光掲示板への番号掲示になっている。
 病院では、同じ科でも、複数の医師が診察するから、個室がずらっと並ぶことになる。
並んだ個室に、番号を表示された患者がそれぞれ入っていく。一人の診察が終われば、次を表示する。医者は、自分のいすに座ったまま、一歩も動く必要がない。

 流れ作業のように、患者を診ていく。カルテはパソコンだから、ロクロク患者の顔も見ないで、パソコンに向かってキーボードを打つ。頼りは、検査結果の数値や、図表で、患者の話は、半分上の空。
 3分ほどで、診察を終わり、患者は、薬の処方箋をもらって、個室を出て行く。

 バタリに飼われた鶏が、流れてくる餌をついばんで、卵を産み落とす。餌の善し悪しや、卵の行く末など考えもしないで、ただ食べては、卵を産んでいる。
 鶏と一緒にされてはかなわない。何も考えないで、診察しているわけではない。そんな言い方は侮辱だと、怒られそうだが、診察を待ちながら、そんな連想をしてしまった。

 3時間待ちの3分診療、と言われないため、予約制をとって、待ち時間の短縮には努めているようだ。予約時間に行けば、長くても1時間待ちくらいで、10分くらいは、診察してもらえる。
 しかし、そのシステムを維持するために、医者も流れ作業のような診察を、受け入れて行かねばならないのだろう。

 なんだか、医者が気の毒になってしまう。
 医療の効率化が、本当に、患者や医者のために、なっているのだろうか。ドラマに出てくる、僻地の診療所で、1日10人とか、15人の患者を相手にしている医療を、都会でやるのは無理にしても、もう少し、人間らしい医療のあり方が、あるのではないか。近未来の病院で、ロボットに見てもらうような錯覚を覚える、病院の診療体制に、疑問を感じた。

2007年1月16日(火)
今後は、転送が有料になる?!

 正月以来、郵便のことばかりになるが、また日記のタネができてしまった。
 昨秋から一人暮らしを始めた息子宛に、こちらの住所で賀状が届いた。
 10枚近くになるので、1枚ずつ転送依頼を添付するのは面倒だから、まとめてできないかと、わざわざ本局まで聞きに行った。
 
  まとめて封筒に入れて出せばできる、と言うので、それでは切手が必要だから、添付での転送を希望しているのだと言うと、とんでもない答えが返ってきた。
 こちらとしては、宛先への郵送はすんでいるのだから、再郵送となり、本来ならば、1枚ごとに50円が必要になる。封筒に入れれば、90円ですむのだから、それでいいだろう。みたいな言い分なのだ。

 私は、40年来、転送先添付で、転送してもらっていた。と申し立てた。すると、それは、便宜的にやっていただけで、転居通知を出せば、1年間は転送するが、それ以降は、切手を貼ってもらうのがスジ。たまたま、配達の人間が分かっているから、気を利かせてやっていただけだ。と答える。

 ツッパるのはここと、声を大きくして、集配の人と、配達の人は違うのだから、住所を知っている配達人が、気を利かせて転送したなどはあり得ない。今まで、添付転送ができていたのに、いつから方式が変わったのだ。と、申し立てた。窓口担当は、閉口したらしく、上の人間を呼んできた。

 上の人間も、同様のことを言っている。1枚ずつ添付すれば、転送されている。しかし、それは面倒だし、局の方も、まとめれば面倒が減るだろうから、まとめて送りたいのだと、説明を繰り返すが、封筒に入れて切手をはれの一点張り。
 温暖地育ちで、粘りのない当方は、だんだん面倒になってきて、分かりました。面倒でも1枚ずつ張ります。と言って帰ってきた。

 以前ならば、皆様のためだったが、今後は会社のためだから、転送などという、儲からないことは、止めようとしているに違いないと、思えた。
 今までの経緯から、転送通知を出せば、1年間だけは転送します。しかし、通知の出してない、または1年以上になって、転送先添付が必要になる郵便は、再投函として、有料にします。そのうち、言い出すに違いない。

 庶民は、おちおち賀状のやりとりもできなくなる。どうでもいいDMなら、転送できなければ、処分するからいいけれど、転送が必要な場合に、いちいち郵送料を払わねば、やってもらえないのでは、不便この上ない。
 郵政民営化では、いいことが一つもないと、よーく分かった。

2007年1月15日(月)
来年以降も、賀状は遅れる

    賀状の遅配への苦情を報ずる紙面

 「今年の賀状は、おかしいぞ」と、10日の日記に書いた。しかし、マスコミの報道はなかった。
 やっと、昨日の新聞に「苦情が多く寄せられた」と、報道された。公社の正式発表を記事にしたようだ。苦情の力で、発表せざるを得なくなったのだろう。

 しかし、内容は不十分。25日までに出した人が少ないから、処理が間に合わず、遅れている。と、まるで、出す側の責任のような言い方。
 昨年よりも、賀状数は減ったという。だとしたら、昨年の方が、もっと遅れたはず。昨年より、今年の方が、遅く出す人がグーンと増えたとは思えない。公社は増えたと言っているが、毎年、出す時期は、だいたい決まっているのではないか。
 しかるに、昨年は、遅くとも5日頃までには、届いていた。返礼の賀状も、七草くらいには届いていた。

 遅く出す人が増えたというのは、言い訳にすぎないと思う。記事をよく読むと分かる。 機械の処理能力が間に合わない。賀状のためだけに、設備投資はできない。との言い分。 つまり、以前の公営郵便局の場合ならば、多少の損失が出ても、国民のために、正月に合わせて賀状を届ける。という「役所の使命感」で、人手もかけて、採算度外視で、配達した。現場の方々も「使命感」で、残業をいとわず配達を担当した。

 しかし、民営化されれば「商売」だから、採算の方が優先する。下手に「使命感」など持ってはいけない。会社のもうけに協力しなくては。だから、人手不足のまま、機械の新たな購入もなしで、通常の郵便業務の態勢で、仕事をする。郵便が送れたと、苦情くらいはくるが、それで訴訟になることはないだろう。罰金を払うこともない。設備投資はしないで、遅れても、頭を下げて終わりにしよう。

 民営化とは、そういうことではないのか。
 国鉄の場合は、事故になり、裁判だの、賠償だのとなる。私鉄との競争もある。それなりには、安全対策をしなくてはならない。
 しかし、郵便の場合は、特に賀状は、遅れたからと、死者が出ることはないだろう。裁判も起きない。抑止力はまるでない。我々は、ただ我慢するのみとなる。

 何かするならば、法律の作成か。
 賀状が、25日までの投函で、元旦に届かない場合。
     30日までの投函で、5日までに届かない場合。
      2日までの投函で、7日までに届かない場合。
 以上の3ケースでは、会社は1通につき、いくらの賠償金を払う。
 というような法律を作れば、あわてて、人手をかけても、元日配達、返送配達は7日をめどにと、頑張るのではないか。
 障害者の雇用促進でも、罰金制度になったら、かなり雇用率が上がった。とにかく、企業は、罰がないと、やりたくないことはしない、体質を持っている。動かすのは、罰しかない。いやなやり方だが、相手が相手だから、やむを得ないと思う。

2007年1月10日(水)
今年の賀状は、おかしいぞ

       賀状に使った最初の作品

 賀状書きは、例年のことだが、仕事のつきあいとか、義理とかがなくなった今、賀状のやりとりが、楽しくなった。「あの人は、まだ元気かな」と、思いつつ書く。ついついご無沙汰で、手紙も出しにくいけれど、賀状だと自然に出せるから、いい。

 昨年までは、安物の賀状ソフトにある、イラストを使っていたが、今年は、厚かましくも、習いたての「絵手紙」作品を使って、賀状を作成した。
 そのため、25日までにという期限は、過ぎてしまい、28日に投函した。

 元旦の賀状が、思ったより少なかった。2日の配達でも、たいして来なかった。「現役を遠ざかると、徐々に減っていくのだろう」と、受け止めていた。
 それにしても、毎年くれる人から来ないことは、気になっていた。

 七草も終わる頃から、返事の賀状が、舞い込んで来だした。
 現役の人が多いから、すでに仕事は始まっている。のんびり賀状書きなど、しているはずがない。
 すると、新年会であった、郵便局勤務の知人から、とんでもない話を聞いた。「なるほど。だから遅いんだ」と、納得できる話だった。

 確かに賀状は遅配されている。その元凶は、「郵政民営化」にあるのだとのこと。
 完全民営化に向けての、内部機構改変で、現場はグチャグチャになっている。賀状配達だけでなく、一般郵便もひどい遅れがでている。 
 改変期の、一時的な混乱かどうかは、分からない。地方の局は、すでに廃止に追い込まれているし、今後どうなるかの見通しは、明るくない。今までの「民営化」路線と同じで、消費者が便利になるなんてのは、ごまかしだ。

 JR民営化に始まる、今までの「民営化」が、決して利用者、消費者のためにはなっていないことは、明々白々たる事実だ。
 JR福知山線の脱線事故が、最も象徴的に表しているが、国鉄がJRに変わってから、小さな事故は、数々起きている。能率一辺倒の、もうけ主義から来ていることは、はっきりしている。
 NTTも、同じような問題を抱えている。
 
 すでに、問題の起きることが、分かっていながら、性懲りもなく、進めていく、政府与党を、マスコミは、充分批判しない。「他の内閣よりは良さそうだから」などと言う、いたって根拠の薄い、理由にもならぬ理由で、選び続けている国民は、どういう神経なのだろう。宣伝に踊らされている、デクノボウなのか。
 目を大きく開けて、事実を、もっとよく見てほしい。

 



2007年1月7日(日)
ツッパリばあさん、ひいばあさんになる

20年ぶりの再会に、サークルの方々と記念撮影

 新年最初の日曜日。ルーティンワークのように、教会に行きミサに参加。
 しかし、正月だから、神からの思いもかけない「お年玉」があった。
 なんと、新卒時代の教え子の、長女である、お嬢さんに出会えたのだ。

 教え子の彼女は、卒業後、「よくまあ遠くの人と」と感心したほど、遠方の男性と結婚した。以来、20年。一度も会うことはなかった。賀状のやりとりもなかった。
 たまたま、かの地で開かれた、研究会に参加した帰り、現地の教会に知人を訪ね、信者になっていた彼女と、20年ぶりの再会をした。すでに彼女は、3児の母だった。

 賀状のやりとりが途絶え、かの地の知人からは「転居先が分からない」と連絡が来て、それっきりになっていた。
 15年ぶりくらいに、全く偶然に再会できた。しかも、我が家からは、電車で3駅しか離れていない場所に、転居していたのだ。

 「今から家においで」という、長女のお誘いに、懐かしさがこみ上げて、厚かましくも、お邪魔した。
 決して裕福な暮らしではなさそうだったが、肩寄せ合って暮らしている、幸せな家族の雰囲気が、室内にあふれていた。
 初対面のお連れ合いと、ご挨拶などしているうちに、次女が、8ヶ月くらいの、赤ちゃん連れで現れた。「お母さんの高等部時代の先生が・・・」と、携帯の連絡をうけ、車で駆けつけてきたらしい。
 教え子の孫、ということは、私のひ孫だ。私はひいばあちゃんか。ちょっと感慨深い。

 妹さんから、「高等部時代の母は、どんなでした」と聞かれた。「とにかく、すごく頭が良かった。言い方は変だけど、『聞こえていたら、東大行きよね』と、仲間でよく話していた」と答えた。彼女は、指導力もあった。リーダーとしてやっていくだろうと、期待していた。家族の中に埋もれて、生活に精力を削がれてしまったのは、残念に思う。

 私が、いつも「自分で考えよ」と言い続けていたことを、彼女に評価された。「障害者運動に、関わらなかったかも」と言われた。影響力を与えられて、嬉しかった。
 理由や、原因を自分で考える。私にとっては至極当たり前のことだった。
 しかし、いつも、こうしなさい、あれはだめ。考えないで覚えればいい。みたいな指導を受けていた彼女たちには、新鮮で、何か違う世界が広がったのだろう。

 「かわいがられる障害者」を育てるのが、いい教育とされ、文句を言わず、いつもニコニコしているようにと、教えられたのだろう。まだまだ、そういう時代だった。
 いかにそれが間違っていたか。今ならはっきり分かる。しかし、今では、健常児の教育が、考えず、言われるままになる人間を、育てていこうとしている。何とかしなくては。
  

2007年1月5日(金)
個人情報保護のお役所に、右往左往する住民

 自宅のある地域は、30年くらい前、不動産会社が、大規模開発して売り出した所。
 そのときに、戸建て住宅を買えた、住民の年齢構成は、だいたい似通っている。30代後半から、40代の、いわゆる働き盛り。
 それらの住人が、そのまま30年住み続けている今。当然ながら、高齢者の仲間入りをすることになってきている。60代から80代くらいの住人が、多くを占めてきた。

 町内をいくつかの班に区切り、日常の連絡網とし、災害時の備えにもと考えている。
 災害時の備えを想定すると、避難が最も困難な、独居老人の問題を、何とか解決しておかねばと、役員会で提起があった。
 初歩的な問題として、どこに独居老人が居るのかが、分かっていない。それが分からないことには、話が始まらない。しかし、今は、それを調べることができない。
 区役所に行ってもだめ。警察もだめ。民生委員もつかんでいない。お手上げ状態。

 プライバシーは、尊重されねばならぬが、お役所では手の回らぬ、きめ細かい活動を、住民自身がしようというときに、それができない。
 自己責任だの、自主性の尊重だのと、お役所は、住民を動かそうとしている。予算の節約のため、住民に、役所の下請けをさせようとしている。
 しかし、活動するための基礎的情報がなければ、動きようがない。

 空き家や、空き地も、防犯上の問題があるから、不動産屋任せ、交番任せにしないで、何とか自主的に動こうと思っても、動けない。
 誰の所有なのかを、教えてもらえない。警察などはひどいもので、不動産屋に聞いてみろという。
 突然、一家皆殺しという犯罪でも起きない限りは、たとえ夜逃げをした人の家であっても、所有権は誰と、はっきりしているはず。しかし、住民がそれを知ることはできない。

 やたらに、プライバシーを侵害したり、悪質商法に利用したりするのではなく、町内会の活動として、自主的に動こうという場合でも、一律にプライバシーを理由に、開示を拒否するお役所に、疑問を感じる。
 手足を縛っておいて、それ動け、やれ自分たちで何とかしろ、と言われても、こちらとしては、やりようがない。せいぜい、隣家の人に、よろしくお願いしますと、言って歩くくらいだ。
 住民の自治を掲げるならば、それができる環境作りを願いたいものだ。

2007年1月1日(月)
元旦早々、黙っておれぬこと

 元旦早々 黙っておれぬこと

 いかにツッパリばあさんでも、元旦くらい、ニコニコして、はらだち日記は閉じたままにしようと決めていた。
 しかし、早々と、書きたいことが、できてしまった。

 年賀はがきを出すために、スーパーの前を通りかかり、見るともなく、中を見ると、かごから買い物を出して、袋に入れている人が何人もいた。「元旦から、営業?!」。
 昨日行った、すぐ近くの、別のスーパーでは「新年は、2日から営業いたします」と放送されていた。それで、スーパーは、どこも元旦は休みだと、思いこんでいた。
 このスーパーが大手で、休んだスーパーが中小だから、余計納得できないものを感じる。

 中小のスーパーが、経営が厳しいから、元旦から開けるというなら、それは仕方がないだろうなと、賛成はできないが、納得はできる。
 しかし、元旦から開けないと、経営が厳しいとは思えない大手が、元旦から開けるのには、賛成もできないし、納得もできない。以前は開けていなかったはず。

 昔の正月ではないのよ。単なる祝日と同じ。ゴールデンウィークみたいなものよ。元旦、元旦と、言うことはない。との声が聞こえてくる。
 確かに、感覚は違っている。正月がとびきり待ち遠しい、ワクワクするときだったのは、ずいぶん昔のことになってしまった。
 店が全部閉まるからと、いろんなものを買いだめして、家の中に、あれこれの物が、あふれるときだったのは、我々が子どもの時代で、終わったのかもしれない。いちいち、腹を立てることではないかもしれない。

 しかし、店を開ければ、店員さんが必要になる。その人たちは休めなくなる。その人たちの子どもは、どうなるのだ。元旦に、家族そろって出かけることもできない。母子家庭で、一人家に取り残される子どもが、いるかもしれない。

 元旦から仕事をしている人たちは、かなりの数に上ることも分かっている。救急医療関係者、消防、警察、交通関係、郵便配達。など、など。みんなが楽しく正月を過ごすために、支えてくれる人がいる。

 そういう仲間と考えれば、店員さんもどうということはない。ということになるだろうか。ならないと思えて仕方ない。
 どうしても、必要な、意味のある仕事ならば、納得がいく。子どもだって、理解できるだろう。しかし、お客さんのわがままに、つきあわされているような、店の売り上げのために、やらされているような、そんな働き方は、子どもには理解できない、と思う。
 必要最小限の人は、正月返上もやむを得ないが、そうでない人は、家族と、静かに正月を過ごしてほしい。過ごさせるように計らってほしい。売り上げばかり考えないで。

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