人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2007年2月28日(水)
2月は逃げる。原稿も逃げる

 1月の反省で、世の動きをしっかり見定め、「ん」と思うことを書いていかねばと書いた。
 にもかかわらず、ズルズルと日が過ぎ、2月が終わってしまった。
 「ん」と思うことがなかったわけではない。次々に現れては消えていく状況に追いつかないくらいだ。「ん」「ん」と思っているうちに、次々出てきて、書いている暇がないくらいだった。
 
 とはいえ、パソコンに向かって落ち着いて書ける時間が少なかったのも事実。
 毎日のように出かけねばならぬ用事ができた。 
 なかでも困る問題は、パソコンの故障に関すること。
 パソコンは、自動車のようなもので、整備されたものを買えば、車検のように、定期的に点検して貰うことで、使う側は何もしないでいいと思っていたのだが、とんでもない話で、具合が悪くなったかどうかの点検も含めて、使う側がやるという前提で作られているらしい。
 それならば、日本語で分かりやすく説明されていればいいのに、パソコン用語で説明書きがされているから、読んでも分からない。

 今回は、CDを入れるドライブが故障した。用もないのに、突然蓋が開いてしまう。「静電気のいたずらでしょう」とパソコンショップの店員さんには言われたが、CDを入れて、インストールしている途中にもパカッと開いてしまうので、これはただごとでないと、持っていったら、故障だとのこと。
 メーカーに修理を頼めば、保証期間中だから無料でできる。しかし、2週間かかるという。パソコンショップでやって貰えば、取り付け料込みで12000円だという。
 
 今2週間パソコンが使えないのは困る。仕方ないから、2週間を12000円で買った。
自分に技術があれば、物だけ買って自分で交換して、5000円ちょっとですむのだが、それもできないから、乏しい小遣いを減らして、修理費に充てることにした。

 そんなこんなで、早3月の声を聞くことになってしまった。
 今度こそ、世の動きを見守っていこう。

2007年2月25日(日)
自立支援法が『噂の現場』で取り上げられる

 支援法で利用中止になったことを伝える紙面

 「自立支援法」が、障害者の自立支援を促すのではなく、障害者を引きこもりにしてしまう問題がある。と、法律制定の時から言われていた。
 いよいよ法律が衆議院を通過する日には、「反対」の意思表示をするために、全国から数千人の障害者と関係者が集まり、国会を取り巻いた。しかし、法律は可決された。

 今国会では、民主党が質問に立ち、矛盾点を指摘した。
 制定時に懸念されていた「施設利用中止」の現状が、数字的にはっきりしたことで、懸念が現実の問題になったからだ。
 政府もようよう重い腰を上げ、いくらかの是正を始めるらしい。ポーズかもしれないが。

 日曜日の1時からTBSテレビで放映されている「噂の東京マガジン」の『噂の現場』で、きょう取り上げられていた。
 たまたま、栃木の施設が出されたが、全国どこへ行っても同様の状況だと思う。一般就労ができないから、作業所に来る人たちが、一般就労者と同様の「応益負担」ができるわけがない。

 番組では、総理答弁の「施設によっては、努力して、成果を上げている所もある」という例を検証するために、東京の施設の状況も放映した。
 障害の程度によって、就労先を区分すれば、軽い人たちだけの施設は、確かに応益負担でもやって行かれる所が出るという例だった。そうなると、障害者も軽い人だけを集めての施設を作り、重い人は在宅にしてしまうということになる。

 重い人、軽い人が一緒に働く施設では、軽い人の家族から、「うちの子はちゃんと働けるのに、重い人たちが居るから、家の子の分を回してやることになる」との不満が出て居るとも聞く。小さなパイを取り合うような状況にするから、弱い者がいがみ合ってしまう。本当の敵は別にいるのに、目の前の味方を敵に見てしまうことになる。

 成果主義、自己責任、などの施策が、労働の本来的な意味を失わせてしまうのは、悲しい。障害のある人にとっての労働は、自己実現であり、生活のリズム作りであり、生き甲斐作りである。労働によって発達も促される。

 作業所に行き、月5、6千円の工賃を得る。それがすべて自由に使えるお金であっても、子どもの小遣いほどでしかない。それなのに、施設の利用料を月1万数千円払えという。差し引き、6、7千円、時によっては、1万円以上の赤字になる。
 これで、障害者の自立を支援するのだとは、お義理にも言えないと思うのだが、それでも良くなっているという総理と、政府の頭はどうなっているのだろう。理解できない。
 ようよう「噂の・・・」のような番組に取り上げられて、一般に関心が持たれるようになってきた。いくらか希望がもてるかも。

2007年2月19日(月)
頑固じいさんの、ルーツ判明

 毎朝体操に行っている公園で、教育基本法についての口論をした、頑固じいさんのことを、昨年9/4の日記に書いた。
 そのときに「敗戦時は20才くらい。小学校以来の『教育勅語』を体現しているのだろう」と書いた。
 
 研究会で、スミ塗り教科書の話になって、私の予想が当たっていたことが判明した。
 現在75歳前後の方は、高校生の年齢で、教科書のスミ塗りをした。思春期に入っている多感な年齢だったから、昨日まで正しいとされていたことが、がらりと変わってしまったことで、強烈なショックを受けた。教師やおとなが「これが正しい」と言うことに、常に懐疑的になる世代を形成している。自分で納得できなければ、動かないという世代になった、といえるかもしれない。

 75才から80才までくらいの人は、教科書で授業もせずに、工場などに行かされていたから、スミ塗る教科書を持たず、戦前の教科書の影響も、あまり受けていない。そのため、戦後の民主主義教育が、すっと入ってしまった世代となった。

 80歳以上になると、すでに学校教育を終わっているので、戦前の教育が訂正されないまま、身体にしみこんでしまっている世代だとのこと。
 社会人になり、企業のなかで、労働組合に関わった人は、組合が「民主主義の学校」となり、戦前教育を訂正する場となったが、そうでない人は、戦前の教育勅語が生きていても、不思議ではないとのこと。
 今の労働組合は、企業と一体化している感があるが、戦後できたばかりの頃の労働組合は、戦前の体制を作り直すための、大きな役割を果たしたのだ。

 これを聞いて、頑固じいさんの精神構造が理解できた。
 退職までは、黒塗り自動車のお迎えがあったということは、役職者だったことを証明している。そうなるには、労働組合で、熱心に活動していた人間ではないと想像できる。天皇陛下への忠誠を、会社への忠誠に置き換えて、役職への道を上ったのだろう。

 教育基本法は、改正された。じいさんの理想とする、戦前の日本に造り替えられる道は、踏み出されようとしている。
 どこまでを望んでいるのかは分からないが、ゴミを散らかさない、礼儀正しい日本人になるという見通しは、かなり暗いと思う。
 お国のために兵隊に行く若者も、期待は薄い。こちらは、ワーキングプアーの若者が、安定した公務員ということで、応募せざるを得ない状況を作れば、人は集まるだろうが。
 お上から言われて、意味も分からず、その気にもならずに、強制的に押しつけられていた反動が、今の日本だと思う。本人の自覚を促すように、意味を教え、理解を求めることが、国民の民度を高める道だと思うが、どうなのだろうか。
 

2007年2月15日(木)
犬も老いる。人も老いる

  暖冬とは言いながら、朝夕は結構厳しい寒さの日もある。
 夕方の薄暗いなかを、「寒いから、散歩なんかしたくないなー」という顔つきで、トボトボ歩いている犬に出会うことがある。朝日新聞の連載漫画「ののちゃん」の家のポチを連想する。
 犬の顔つきなんか、分かるわけないと言うかもしれない。確かに、以前は分からなかった。犬は種類の違いだけで、同種の犬は、全部同じ顔に見えていた。
 しかし、公園で毎日体操しながら、いろんな犬を連れた人に出会って、話すうちに、犬の顔つきが、何となく分かるようになった。

 寒空に、トボトボ歩いている犬というより、ヨタヨタ歩いている、と言った方が適切な犬もいる。そして、なぜか、ヨタヨタ歩く犬を連れている人も、ヨタヨタ歩いている。
 若いときに飼った愛犬が、年を取ってきて、ヨタヨタ歩くようになった。飼い主の方も、リタイヤして何年もたち、犬の散歩くらいしか出歩かなくなって、足腰が弱り、歩き方もシャキシャキとは、いかなくなっているのだろう。
 
 人間として、当たり前の光景なのだろうが、そこにも「ん?!」と、思わせられることがある。
 たまたまかもしれないが、ヨタヨタ歩くようになったと思われる方が、たばこを吸いながら散歩しているのだ。そして、近づいて顔を見ると、80才を超えているような顔ではない。遠目には、80過ぎの方かと思うような足取りなのだが。

 「たばこは、若さを奪う」「たばこは人を老けさせる」とは聞いていた。
 しかし、現役時代には、リタイヤした方に会うチャンスがほとんど無いので、70代、80代になったとき、どう老けさせるのかは、よく分からなかった。
 「なるほど。たばこは若さを奪う」と、納得できた。個人差はあるだろうが、5才から10才は年寄りに見える、と思われる。

 体つきが年寄りくさいだけでなく、歩き方などの動きが年寄りくさい。
 年寄りくさいという、見かけの問題だけでなく、身体能力が落ちているのだと思う。
 ああいう夫を持つ妻は大変だろう。新聞に載っていた「夫の居る妻の死亡率が高い」が頷ける。犬の散歩以外は、家に閉じこもって、飯、風呂、新聞、テレビと、何もかも妻に任せているような雰囲気だ。そのうち、老いて動けなくなった犬の世話も、妻に任せられるのではないか。

 禁煙して、老いた犬はヨタヨタでも、連れてる人間は、しゃきしゃきと歩いてほしい。別に、政府の医療費削減の、お先棒担ぐ気はないが、その方が楽しいと思う。

 
 

2007年2月12日(月)
建国記念の日は、海の日並みになったのか

 昨日は「建国記念の日」だった。
 夜のテレビニュースでは、毎年恒例の「賛成派」「反対派」集会の模様を放送していた。しかし、今朝の新聞を見ると、写真入りの掲載はゼロ。紙面の切り取りができない。
 そういえば、昨夜のニュースも、「勤労感謝の日特集ニュース」といった、いろんな祭日の風物を扱うような扱いに、近かった。

 昨年の扱いがどうだったのか、記憶にない。体調優れず、ボーっと過ごしていたときだったから、記憶力も下がっていたのだろう。
 数年前までは、それなりに大きな扱いだった、ように記憶している。
 賛成、反対の声がある問題を、ニュースで取り上げ、国民の喚起を促す。そんな意味がニュースにはあるはず。

 新聞でも取り上げなくなったというのは、すっかり定着してしまったということか。テレビ報道によれば、賛成の集会には、会場満席になるくらいの参加者があり、反対集会は会場に空席が目立っていたとのこと。
 実際の集会に行ってないから、どういう状況かは分からない。たまたま、空席のあるアングルで撮影する。参加者が喜んでいるカットを放映する。等々。わずか3分くらいの番組だから、どうにでも状況は作れる。方向付けようと、意図的にカットを組み立てられる。

 参加者数にしても、呼び込みをして集めたか、自覚的に集まったか。「やらせ」の動員なのか、内容理解しての参加なのか。
 参加すれば、自分の仕事がうまくいく。仕事がもらえる。こちらの言うことを聞いておいたほうが、生活がうまく運ぶ。など、など。利益につながる。寄らば大樹の陰的な、安心感につながる。といった理由での、参加者は居ないのか。

 誰もが、何となく感じている閉塞感。このままでは良いことがない。何か変化がほしいという単純な願い。
 それにうまく付け入って、新しいことが始まるような話を語り、庶民の目をごまかす。国の有り様を「変える」のではなく、昔に「戻そう」としているだけなのに。
 
 片方は、「守る」という。「守る」は、現状維持の響きがあり、変化を求める庶民の夢に、フィットしない感がある。「守る」ではなく、「発展させる」の方がピッタリ来るように思う。今のままで良いのではなく、さらによくする必要があるのだから。

 建国記念の日を祝うことが、日本人としての誇りにつながるような、歴史を持つ国民という、誇りを持てるような、そんな錯覚を持たせて、昔に戻そうとする。
 定着してしまったのだと、無視するのではなく、誇りを持てるような変革をしていかねば。押されっぱなしの、守り一辺倒に終わってしまう。

 

2007年2月5日(月)
「トイレばあさん」、仕切屋を始める

 夜、1時間半もかけて、演奏会に行った。息子が買った、7000円近くもするチケットを、無駄にするのはもったいないと、病気の息子の代理で行ったのだが。
 なかなかすばらしい演奏で、1時間半かけて参加した価値はあった。全国ツアーの最終日前日の舞台だそうで、会場は満員だった。

 途中の休憩で、トイレに行った。
 毎度のことだが、女性トイレは長蛇の列になる。樋口恵子さんによれば、男性トイレの3倍の容量がなければ、男女平等にはならぬそうだ。会場は最近作られた建物の中にあったが、男性の3倍はないようで、旧態依然としての、長蛇の列だった。

 だんだん自分の番が近づいてきたが、洋式・和式の別があり、洋式でないと使えないので、後ろの人に「どうぞお先に」と言うことになった。
 その後も、和式ばかりが次々と空いていくので、「和式でいい方はどうぞ」と、呼び込を始めてしまった。
 「トイレばあさん」になって、仕切っているなと、自分のお節介ぶりに苦笑い。しかし、私の呼び込みがきっかけになって、「空きましたよ」「こっちが空いていますよ」と、互いに声を掛け合うようになり、長蛇の列が、急速に短くなっていった。

 いよいよ、洋式が空き、座って用を足しながら、「しかし、待てよ」と思いついた。
 人が集まって何かをするときには、必ず仕切やが必要になるだろう。
 災害時にも、仕切やが居なければ、烏合の衆がワーワーなっているだけで、ことが進んでいかない。被害がさらに広がってしまうこともあるだろう。

 仕切ることは、必要だと思う。そのうえ、どういう立場で仕切るのかが、重要になってくる、とも考えた。
 誰のために、何のために、仕切るのか。弱者への目配りをして、仕切れているか。それとも、自分たちだけを有利にするような、仕切方をしているか。災害時の仕切屋には、資質が求められる。ただ、声が大きいとか、力が強いとかで、仕切屋になられてはたまらない。

 「トイレばあさん」は居たが、「トイレじいさん」は居るのか。
 男性のトイレは、長蛇の列にはならないから、「トイレじいさん」は必要ないかもしれないが、災害時など、いざ必要なときには、すぐに出現するのだろうか。
 女性は、互助精神が強く、すぐに互いが協力しあえる。しかし、男性は、「オレが、オレが」が強くて、仕切屋が何人も出てしまうとか。あいつに仕切らせるのは、どうとか言って、協力しないとか。何だ、かんだの理屈ばかりが先に立って、ことが進んでいかないのではないか。

 町内会での、災害対策が進められているが、どうなっていくことか。
 

2007年2月3日(土)
自然科学にも、主観は入る

  近くの公園にある、斜面緑地の保全活動の進め方への、地域の理解を得るため、地域の代表と、話し合いの会を持った。町内会長、子ども会長、老人会長などが参加して、我々の会のメンバーと、意見交換した。
 そこには、樹木医の資格を持つ、森林生態研究の専門家も参加してくれた。

 斜面緑地が、現在どういう状況にあるかを、現地観察してもらいながら、手入れする前と、現在との違いは、写真で説明を加えた。
 公園を取り囲む町内に住んでいる方ばかりが、参加されたが、改めて、斜面の状況を見る方も多かった。

 観察後の話し合いでは、当然、斜面の崩壊が進んでいる状況に驚き、これ以上崩壊させないための、方策をとることに、賛成する意見が、次々出された。
 しかし、一人だけ、反対意見を出された方がいた。その方の意見を聞くうち、「自然」のとらえ方に、大きな違いがあり、きわめて客観的、と信じられている「科学的根拠」も、実は「主観」に基づいていることを、実感した。

 反対の方は「森林インストラクター」という、一見新しくて、学問的権威のありそうな肩書きの方の意見として、文書を配布した。その文書には、驚くべきことが書かれていた。

 我々が守ろうとしているような斜面は、力を入れて守るような広さのある、本来的な「里山」ではないから、子どもたちが入って、崩落が進んだとしても、それは「公園」の機能上、やむを得ないことだ。木に登ったり、さわったり、斜面をかけずり回ったりすることで、子どもたちは自然を感じ、成長するのだから、それを止めるような行為はすべきではない。崩落が進んで、生活上危険な状況になったら、そのとき考えればいい。

 少々の主観を交えて要約すると、以上のようになる。
 我々自身も、仰々しく「里山」などと呼んでいるが、本来の里山でないことは、重々承知している。しかし、航空写真で見れば、茶色の砂漠の中に、ぽっかり浮かんだ緑のオアシスのような場所であることは、確かだ。何へーベ以上ではなくても、立派に地域の緑としてある。むしろ、最後に残った貴重な緑だからこそ、大事にすべき場だと考える。

 彼女が、強行に持論を主張できた理由が、文章を読んで分かった。
 彼らにとっての「自然」とは、子どもにとっての「教材」の一つなのだ。人間が中心であり、自然は人間が操作する対象物でしかないのだ。
 我々の考える、自分たちもその一員であるから「共生」「共存」していくべき「自然」ではないのだ。
 科学的根拠をもとに、主張しているように見えながら、実は主観に基づく「科学性」であること。根本の理念、哲学をどこに置いての「科学」かによって、全く違う結論になるという、世の中の多くの問題が、ついに我々の前にも現れた。
 根本の一致ができるかどうか。今後の話し合いは、エネルギーが必要だ。

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