「戦争前夜」に必ず始まる、性教育への攻撃。 今の日本も同様です。
ジェンダーフリー教育、人権に基づく性教育への攻撃は、'02の『ラブ&ボディ』回収事件から、表面化しました。
厚生省の肝いりで作った、中学生への全国配布冊子の、全面回収、廃棄という、前代未聞の出来事です。
その後は、「産経新聞」事件、「週刊新潮 連載記事」事件と、マスコミ攻撃が続きます。
'03の「土屋都議 議会質問」事件から始まった東京都の性教育攻撃は、東京弁護士会への「人権救済申し立て」にまで発展し、'05には、弁護士会の「人権救済『警告』文」が出されるまでになります。
それでも止まらない攻撃に'05.12には、当事者の、七生養護学校保護者、教職員28名が、東京地裁に提訴するまでになっています。
東京から始まった、性教育への攻撃は、今や全国に及んでいます。
「人権・共生・科学」を標榜してきた性教協(人間と性 教育研究協議会)でさえ、「性教育は健康教育」だと言わざるを得ない状況に追い込まれています。
現状を憂うるひとりとして、自分の体験を公開し、「科学・人権・共生・自立」の性教育が、いかに大事であるかを、発信していきます。
便宜上、思春期以前、思春期、青年期、成人期、熟年期と、一応区分けし、それぞれの時期の、出来事を述べてみます。
読者の皆様の「ウィタ・セクスアリス」の投稿を、お待ちします。
ただし、冷やかし半分のエロ話や、暴露記事まがいの投稿は、サイトには載せかねます。あらかじめ、お断りしておきます。
体験投稿、ご質問、ご意見はこちらへ 性と生相談室
思春期以前
★ 初めての違和感
あれは、多分5才頃だったと思います。間借りしていた家で、60才くらいの大家さんと一緒に、お風呂に入りました。おじいさんの大家さんは、一見怖そうでしたが、かわいがってくれたので、本当の祖父のように思い、好きな人でした。だから、一緒にお風呂に入ることを、嬉しく思っていました。
身体を洗ってもらったかどうかの記憶は、定かではありません。5才くらいの子どもですから、当然洗ってもらったと思うのですが。
一緒に湯船に入ったときの記憶だけが、鮮明に残っているのです。頭の中の記憶ではなく、臀筋の端の記憶として。
おじいさんに抱かれて、湯船のなかで暖まったとき、母に抱かれるときとは違った感触を、臀筋の端に感じたのです。座り心地がぴったり来ないのです。母の時は、臀筋がぴったり治まるのに、なぜかぐらつくようで、収まりが悪いのです。
その時は、なぜなのか、全く分かりませんでした。気分悪い記憶というわけでもありません。それ以来、おじいさんが嫌いになった、ということもありません。
物心ついたとき、家族は、母と祖母の女ばかり3人でした。だから、男の身体についての知識は、全くありませんでした。父親が居て、0歳児から風呂で抱かれていれば、50年以上経った今でも、臀筋に感じる違和感は、なくてすんだことでしょう。
物心つく前から、両親と入浴し、抱かれて湯船に浸かったり、身体を洗ってもらったりしながら、「この桃みたいの、なあに」「これはね、陰嚢って言ってね、赤ちゃんのもとが入っている、大事な袋なんだよ」、「これはなあに」「これはね、ペニスって言ってね、赤ちゃんのもとを送り込むための管だよ」などという話ができていたら、こだわりを持たずに育っていけたことでしょう。
性教育は思春期からのことではなく、0才から始まっているのです。
★ 女の子のオシッコは どこから出るの?
あれは、小学校4年生くらいの時だったと思います。
その頃の私には、大きな疑問がありました。寝ても覚めてもとは言わないまでも、しょっちゅう、頭をもたげてくる疑問でした。その疑問は、母に聞いても、教えてもらえそうにない疑問であり、クラスの友達にも聞けない疑問でした。その頃の私は、クラスでは「いじめられっ子」でした。その私が聞いたら、「そんなことも知らないの」とバカにされ、もっといじめられそうで、とても聞けない疑問だったのです。
その疑問とは「女の子のオシッコは、どこから出るの?」だったのです。
当時は、銭湯に行っていたから、男の子の「オチンチン」は見たことがありました。男の子は、あそこからオシッコをするらしいと、分かっていたのでしょう。男の子についての疑問はありませんでした。
しかし、筒のようなものがない私たち女は、どこからどうやって、出しているのだろう。どうしても分かりませんでした。分からないからこそ、解決せずにはいられない疑問だったのです。
その疑問を解決するために、絶好の時が来ました。私は、ついに決行したのです。
祖母も母も外出して、家には私一人でした。服を脱いでも寒くない時期だから、秋の頃だったかもしれません。
鏡とぼろ布を持ち出して、おもむろにパンツを脱ぎました。疑問の解決に大きな期待を持って。大きなぼろ布を、細長い座布団のように、床に広げ、その上に、足を開いて座りました。尻から腿のあたりには、小さめのぼろ布をあてがいました。
壁に立てかけて、前に置いた鏡を見つめながら、そーっと蛇口をひねるように、尿を出してみました。勢いが弱すぎたのか、ぼろ布は濡れたが、どこから出てくるのかは、分かりませんでした。
2度目は、少し強く出してみました。やはり、分からなかったのです。
3度目は、強すぎて、前に置いた鏡にかかってしまいました。それでも、分かりませんでした。
なおも、続けましたが、ついに、わからぬまま、出すものが無くなって、諦めました。
女性の外性器は、大陰唇に隠されているのだから、大陰唇を開かなければ、見えないことなど、知りませんでした。どこから出るのか知りたさに、何回も試みたのですが、開いて見ることをしませんでした。今考えれば、分からなくて当然です。
入浴時に、洗うことは親から指導されましたが、大陰唇を開けて、中を洗うように指導された記憶はありません。性器を見たことがないから、大陰唇が開くことを、はっきり意識できていなかったのだと、思います。
「男の子は、穴が2つですが、女の子には、穴が3つあります。オシッコの出る穴と、赤ちゃんの出る穴と、ウンチが出る穴です。」「3つの穴は大事だから、必要無いときに、見たり、触ったりしないでくださいね」という指導が、小学校であったら、親に隠れて、悪いことでもするような、後ろめたい、秘密の行動など、しないですんだと思います。
こんな可愛いイラスト入りで、説明を受けたら、小学生でもよく分かるでしょう。現在の指導要領では、見せられなくなりました。私のような子どもを、また作るかと思うと、残念です。
 
★ ゴレンジャーガールは、最後に笑う?
3年ほど前の『プレジデント』誌だったと思いますが、桐島洋子さんの対談記事で、熟年の恋愛を取り上げていました。お堅い雑誌が珍しいことと、興味を持って読みました。
そのなかで、「ゴレンジャーガール」と「おままごとボーイ」という言葉が、出ていました。語源を知り、「私って『ゴレンジャーガール』だったんだ」と、今までの疑問がすっきり解ける、爽快感を持ちました。
小学校4年生頃の私は、「ガキンチョ集団」の、ただ一人の女の子でした。
6年生の時には、市内の体操大会に、大会史上初めての女子選手として、ただひとり、参加させられた経験を、もっていました。
女ターザンという、あだ名をつれられたくらいですから、男の子と遊んでも、全く足手まといにはならない存在でした。
秘密基地を作ったり、木登りをしたりと、日の暮れるまで、遊びほうけていました。そのため、お勉強はさっぱりで、宿題をやってないといっては、立たされている毎日でした。
中学時代には、初恋もし、高校時代には、次々、恋をしました。しかし、ゴレンジャーガールのままでしたから、恋は、おおむね片思いに終わりました。
中学・高校生くらいの年齢では、それまで、ゴレンジャーガールが好きだった男達も、「ウッフンガール」が好きになるので、ゴレンジャーガールは、見捨てられることが多いのだそうです。
特に、日本の男達は、壁の花的な「ウッフンガール」を好むので、ゴレンジャーガールは、分が悪いとの記事に「なるほど。私はこれだった」と、合点がいきました。
自分がなぜ、もてなかったのかが、解明されて、納得できました。
ゴレンジャーガールからウッフンガールに、転身できなかったことは、身の不幸だとは思いました。しかし、対談の終わりに、熟年以降は、再度、ゴレンジャーガールに魅力を感ずるようになると、言われているのが、救いでした。いくら、セクシーなウッフンガールも、寄る年波には勝てません。その時は、中身で勝負になります。
これからは、私の出番。ゴレンジャーガール時代に磨いた話術と、行動力で、魅力あふれる女になろう。そうすれば、最終的な恋の勝利者になれる。
とにかく、終わりよければ全て良し。なのですから、若いときもてなかったと言えども、それで終わりではない。終盤が大事です。終盤を楽しく生きるには、ウッフンガールより、ゴレンジャーガールが有利との言葉に、勇気づけられました。
子どもの時に、ウッフンガールだけが、もて女ではないと、言ってくれる人がいたら、あまりひがまずにすんだと、残念に思います。日本の男達が、もう少し、ゴレンジャーガールを尊重してくれたら、救われる女は多いことでしょう。ダイエット、ダイエットと、騒ぐ女も減って、もっと健康的な、自然美の女が、増えるのではないでしょうか。
トップページに戻る ウィタ・セクスアリス トップに戻る
|