ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年10月30日(土)
「親切」という名のお節介かな?

  人間高齢になれば、多かれ少なかれ「認知症」になってくることは、今や「常識」。マスコミでもしょっちゅう取り上げるようになった。つい数日前の「クロ現」では、認知症の高齢者の「かもリスト」が出回り、同じ高齢者が何回も「だまし」の被害者になっている事実が報道された。

 どうやってリストを作成したのか分からないが、数百人という規模ではなく、数千人とか数万人とかの規模のリストが出まわっているというから恐ろしい。
 しかも、それを利用して「だまし」を実行した本人の弁では「良心の呵責など無い」というのだから、今の世の中、どうなっているのかと「開いた口がふさがらない」どころではなく「あごが外れてしまう」状況。

 そこまでの例を、まだ身近に聞かないのは幸いなことだが、早晩聞くのではないかと思われる人は身近にいる。
 「まだらボケ」から始まるのが認知症の特徴と聞いているが、それに当たるのではないかと思われるのだ。

 共働きで、いろんな活動もしていたし、著作も何冊かある。まだ高貴高齢者の年令ではない。数年ぶりに会ったそんな彼女が、なんだか様子が変わっていた。
 表情が豊かでなくなっている。歩き方が高齢者特有の尖足気味になっている。なにより心配なのは、会議などの予定を忘れてしまうこと。

 市民活動の役員などをしているのだが、役員会を忘れて欠席してしまう。待ち合わせをすると、時間通り来ない。などなど。
 人のことは言えない状況が自分にもあるから、年のせいで忘れることがあるのは仕方がない。大目に見ていこう。と考えていたが、ことはそんなに軽い状況ではないようだ。

 ずっと彼女と関わってきた方の言葉によれば、予定表に書き込んであっても、それを見ていても、直前に連絡をしないと忘れるのだとのこと。
 集会の受付を頼んでいて、忘れられたことがあったが、直前に言わないと忘れるとは知らなかったので、前日の連絡をしなかったことを思い出した。

 活動を共にしている「仲間」ではあるが、ずっと付き合ってきた仲間ではないし、家族や親戚でもない。早く専門医の診察を受けて、投薬やリハビリをすれば、今より進行せずに済むかもしれないとは思うが、親密なつきあいのない彼女に、何と言って診察につなげたらいいのか、戸惑うところ。

 周りは彼女の状況を充分知っているようだが、診察につなげる働きかけはしていないようだ。本人の自覚に待つということかもしれないが、本人の自覚に待てない病気であるのだから、気が付いた者が動くべきではないかと思う。とはいえ、子どもさん達も分かって
いるようだと聞かされると、それを押しのけては行動できかねる。どうしたものか・・・

 お節介ばあさんとしては悩むところ。「親切という名のお節介 そっとしておく思いやり」で良いとは思えないが・・・

2010年10月26日(火)
批判とは人格の否定ではない

  役員をしている福祉関係の市民グループから、福祉法人機関紙に載せる原稿を頼まれた。
 「何でも良いのか」と聞くと「何でも構わないと言っている」というので、日頃法人の運営する「公的施設」に感じている「役所臭さ」と、働いている職員の「専門家」としてのプライドから来ると思われる「上から目線」に対する「苦情」を書いた。

 案の定と言うべきか、期待はずれというべきか、機関紙編集委員から「施設と職員に対する『批判』と取られるので、書き直してもらえないか」と言ってきたと連絡が入った。
 「何でも良いというから書いたんだ。「批判」は困るなら、最初から『批判は遠慮願います』と言うべきではないか」と思って、ムカッと来た。

 しかし、我々のグループの代表が、間に入って困っているらしいので、いくらかの妥協をして、言葉を柔らかく換えたり、5つくらい言いたいところを2つに留めたりして、何とか書き直し「これ以上の変更はできないので、もしダメならばボツにしてもらってかまわない。これ以外は書けないので、他の人に書いてもらってくれ」と、原稿を渡した。
 どんな返事が来るかがこれからの「お楽しみ」になった。

 日本人の「和をもって尊しとなす」精神の結果だろうと思うが、その人の行動や考え方について「批判」をすると、その人の「人格」を否定したとか、その人自身を否定したと取って、怒り出す人が多い。
 福祉関係の仕事に就いていたり、ボランティア活動をしている人のなかにも「私はこんなに良いことをしている」との思いが強く、自分のやり方に異を唱えられたり、批判されたりすると「そんなことを言われるなら、やっていられない」と怒り出したり、ボラ活動を辞めてしまう人がいる。

 福祉関係の「当事者」は、ほとんどの場合「弱い立場」にいるから、手助けをしてくれたり、力になってくれる人がいると「ありがとう」と感謝を表す。そして、少しくらい本人の意と異なる手助けであっても「ありがとう。ありがとう」と言って、援助者を立てるような行動に出る。そのため、援助者は自分の判断で援助をし、本人の意向に添うという姿勢に欠けることになりやすい。

 援助を「仕事」にしている福祉関係職員の中には「当事者は、私の意のままに動いていれば間違いない。私は専門家なんだから」という「上から目線」で対応するようになる人もいる。

 当事者も人間だから「自分の意志」を持っている。職員やボランティアの意志とは異なる場合もある。そうなると悲劇の始まりで、当事者は我慢するか、他の場を見つけるしかない。
 当事者を「王様」にする必要はないが、当事者が主人公で、援助者は「黒子」であることを肝に銘じて、せめて「対等」の関係で接してもらいたいと思っての原稿だったのだが・・・



2010年10月25日(月)
草食系男子とは、虫も怖がる男のことか

  地域の中学校で「文化祭」があり、メンバーとして加わっている緑地保全の会も「地域展示」ということで参加したので「店番」をしに出かけた。
 「優秀な生徒が集まっている」と言われている中学だから、展示の説明や運営は生徒がやってくれる。こちらは「サクラ」になって展示を見ている「フリ」をしたり、時々クイズのヒントを出してやればいいので、基本的には「ヒマー」な3時間だった。

 見学者を増やすために、昨年同様「賞品付き」の「クイズ」を出した。昨年は思いつきの「泥縄」のため不充分だった準備も、今年はそれなりに時間をかけたので、「正解者」100名くらいには「記念品」を出すことができた。クヌギ、マテバシイなどの「木の実」を小さなポリ袋に入れ、名前を貼って可愛いリボンで結んだだけの、材料費は10円足らずのシロモノだが、手間は随分かかっているから、値打ち物にはなった。
 今の子どもはクイズが好きで、何でももらうことは好きだというので考えた「記念品」だったが「木の実」が珍しいようで、なかなか好評だった。

 当番に当たっている生徒達は、なぜか男子が多かった。
 木の実に幼虫が入っているのは「常識」だが、特にクヌギには多いとのことで、持ち込んだクヌギからも幼虫が出てきた。ポリ袋を食い破って外に出たのもいた。
 それを見た生徒が「ワー虫がいる。どうしよう。どうしよう」と騒ぐのにはびっくり仰天。私の「常識」からすれば、虫を捕ってきて「キャー捨てなさい」と母親から言われるのが男の子の「普通」だから。
 
 特別怖い顔をしているとか、いかにも気味悪い色をしているとかいうのではない、肌色の2pもないようなごく「可愛い」幼虫を怖がる男子。それが一人だけではない現実。
 都会には自然が無くなり、虫などテレビで見るだけの存在になっていると、男子といえども、虫を怖がるようになるらしい。つまり、男だから怖がらない。女だから怖がるという「性別」の問題ではなく、子どもの時にどれだけ実物に触れたかという「経験」の問題によることがよく分かった。

 外へ出て野原を駆け回る機会が少なかったから、女子の方が虫に接する機会が少ないことが多く、そのため気味悪がったり、怖がったりする例が多いということだろう。
 野原が充分ある時代には、外で駆け回ることに制限を加えられにくい男子の方が接する機会が多く、制限を加えられやすい女子は接する機会が少なかっただけの差で、遺伝的とか、ホルモンとか、性格的という指摘は当たらないのではないか。

 虫も怖がる草食系男子は、自然環境に恵まれない「都会っ子」の現象ではないのか。地方で、自然がまだ豊かな所ではどうなっているだろうか。ついでに、駆け回ることの制限がゆるんでいる女子の状況についても知りたいところだ。以前に比べれば、怖がる女子が減っているのではないかと思うのだが。

 肉食系女子などと言われるくらいだから、怖がらない女子は必ずや増えていると信ずる。

2010年10月23日(土)
優先されるべき順番は?!
  研究会に参加して、帰宅時間が5時半過ぎになってしまった。「ラッシュにかかるから、座れないかも・・・」とある程度覚悟したが、優先席横の乗車口から乗れたので「もしかしたら・・・」と期待した。

 残念ながら予想が当たり、優先席には先着がいた。優先席は3人掛けなのか、4人掛けなのか戸惑うところだが、40代とおぼしきオジサン、30代後半くらいのオバサン、高校生くらいのお嬢さんが座っていて、詰めればもう一人入らないことはないという状況。 お嬢さんの前に立ってみたが、いっこうに立ってくれる気配がない。「しまった!帽子をかぶったままだった」と気づいたが、すでに遅し。目の前で、これ見よがしにごま塩頭を見せるのも何だからと、鞄だけ網棚に乗せて吊革につかまった。

 次の駅で、どう見ても一回り以上は上とおぼしき高齢の女性が乗車してきた。それでも3人は座ったまま。「細身の方だからあのすきまに4人目で入れそうだが・・・」と思ったが、あまりにいやみったらしいかと考え、我慢していた。本人が「ちょっと失礼」と言ったらいいのだが、余程遠慮深い方らしく、じっと外を見てポールにつかまっていた。

 次の駅で30代オバサンが降りたが、前に座っていた「ホームレスモドキ」の方が、高齢者には目もくれず座ってしまった。「ちょっと・・・」と言いたかったが、ホームレスでお疲れかと思い、またまた言い出せずに終わった。やおらケイタイを取りだしたので「しまった。ホームレスではなかったんだ。言えば良かった」と思ったが、後の祭り。

 次の駅で40代氏が降り際に「前が空きましたよ」と言ってくれた。見ると、反対側の席が空いていて、誰も座っていなかった。「ありがとう」と座りたかったが、かの高齢者がまだ立ったままだったので、座ることには気が引け「空きましたからどうぞ」と声をかけた。「ご親切にどうも」と言いながら座ったので「私も資格がありますが、そちら様の方が私よりは年配のようですから、どうぞ」「優先席も相対的なものですから、私に比べれば・・・」と、隣に座っている40代と見えるオバサンに聞こえる声でアピールしたが、効果無しで彼女は代わってくれないので、立っているままになった。

 後2駅くらいになるまで、高齢者の前で立つことになり「私は3年生まれです」「そうですか。今参加した研究会では、同じ年の方が居ました。名前が『昭三』と言われるのですが、昭和3年だから昭三だと言っておられます」「私の息子は『しょうじ』です」「昭和2年ではないですよね。息子さんですもの」などと、問わず語りが始まり、それなりに楽しいひとときとなったから、立っていることでイライラせずに済んだ。

 ラッシュアワーだからやむを得ないのかもしれないが、30代、40代がしっかり座っていて、60代が80代に席を譲るという「優先席」制度とは何なんだ。働き盛りは疲れている。遊びに出てくる60代は譲って当然ということか。
 「我さえ良ければ、人はどうでもいい」が進んでいるのではないかと思ったがどうなのか。
2010年10月16日(土)
日本のどこが今賑わっているのか

  転居した友人から「一度遊びにお出で」と言われていたので、思い切って友人と二人1泊旅行を敢行した。日帰りでも行かれる距離だが、せっかくだから、温泉に入って、美味しい物を食べて、何をしてと欲張ったので1泊することにした。

 何しろ年金暮らしの身だから、何はともあれ安く行く方法を探ったが、結果としては、JRと宿泊がセットになっている「平日パック」が「お得」だと分かり、唯一の欠点である、列車が指定され、乗車時間に縛られることには目をつぶることにした。

 指定列車に乗るには、時間がぎりぎりで少々焦ったが、それでも乗ってしまえばそのまま終点までだから、おしゃべりに忙しいだけで済んだ。外の景色はそうそう面白い所ばかりではなく、毎日見飽きている、家、家、家の場所も多く、おしゃべりの方がずっと魅力的となる。

 何とかかんとかで2時間強の列車の旅は終了し、目的地に到着。構内に待ち受けている旅館旗の中から、今夜の宿の旗を見つけて、送迎バスに案内される。同じ列車で降りたらしい一組とたった4人で、20人乗りくらいのマイクロバスを貸し切る。申し訳ない感じ。

 駅から旅館までの5、6分の道のりではあったが、街のメインストリートは通るので、だいたいの様子は掴めた。
 一言で言えば「昔は繁盛していただろう観光地」の印象。
 翌朝迎えに来てくれた友人の話によれば、私の第1印象は当たっていた。以前は結構あった「社員旅行」などの団体旅行が無くなったことが大きいらしい。
 テレビなどでは報道されているから、目新しい発見ではないが「ここも同じか」との感慨はあった。

 地元に仕事がないから、若者は地元を離れざるを得ない。そのため、後に残るのは老人ばかりになり、ますます地元に活気が無くなっていくとのこと。
 「山が海に迫り・・・」という小説の一節にあるごとく、平らな土地は殆ど無いから、発展しようがないと言えば言える。海の縁を削っていくらか平らな所を作り、そこに家を建てた。山も削れるだけは削ったが、家を4、5軒建てれば、それ以上は山を削れない所までになってしまう。

 大きな工場を誘致する土地はなさそうだし、新しい企業を呼ぶにも交通の便がイマイチだし、観光地としてもかつてほどの勢いが無くなっている、日本の縮図のような町のひとつになってしまっている。これからどうしていくのだろうかと、人ごとながら心配になってしまった。私ごときが心配しても、どうにもならないのだが。

 地方はおおむねそうなってきているようだが、何処か勢いのある地方はないのだろうか。日本全体が「勢いのない町」になってしまっているようだが、何とかならないのかと思う。
東京、大阪、名古屋などという、ほんのいくつかの街にだけ人が集まっている状況で良いわけがない。
 日本で今、勢いのある町はどこにあるのだろうか。

2010年10月9日(土)
製品に原料は追いついているのだろうか

  最近は「これが身体によい」と言われる製品が、これでもか、これでもかという量で出まわっているように見える。工場で大量生産できるものならば、いくら量が増えても問題はないだろうが、天然原料はどうなっているのだろうか。

 卑近な例では「国産大豆」などがある。豆腐には「国産大豆使用」との表示が書かれているが、輸入が9割方を占めているのだから、どう考えても豆腐の量には不足すると思う。 ことほど左様に、表示が正しいのかと疑う製品は多い。

 「ローヤルゼリー」などもその一つ。女王蜂からしか取れないはずのローヤルゼリーが、あんなにたくさん作られるには、数百億匹もの女王蜂が必要だと思う。そんな数の女王蜂が存在するのだろうか。もし飼育しているならば、どこでどうやって飼育しているのだろうか。幼虫を特別の方法で女王蜂にして、ゲージのなかで増やしているのだろうか。
 ネットで調べたら「某有名メーカーの製品は中国から原料を入れているインチキ商品だ」との書き込みがあった。中国なら中国でも良いが、本当に生物としての女王蜂から採取されたのかどうかが問題だ。

 野菜ジュースも首をかしげたくなる。表示を見ると、一応入っているということで表示されている野菜の中には、時期によってはできないものが混じっている。年中同じ表示で出ていても、実は入っていなかったり、表示順を変えるべきであったりするのではないか。天然成分が恒常的に同一にできるとは思えない。

 ローヤルゼリー以外のサプリの類も「ホントかいな」と思うものが多い。特別の時期にしか取れない原料を使用しているとか、特別の品種を使用しているとかを謳い文句にしているが、限定される原料を使用すればするほど、入手が困難になるはずで、大量生産には向かなくなってくる。それができているのは、どういう仕組みなのか。
 大量生産できるからこそ、全国ネットのテレビで宣伝できるのだろうから、矛盾することになる。

 天然素材、天然原料を使用しているといいながら、実は合成しているのではないかと疑いをもってしまう。いまの科学ならば、天然成分を分析して、それと全く同じ分子構造を持った合成製品を作り出すことが可能だと思う。
 分子構造まで同一ならば、天然であろうと合成であろうと、効能は同じにできるのだろうから、支障はないはず。もし、そうであれば正直に公表すべきではないのか。それがないところに問題を感じる。

 批判的に情報を受け取ることが大事だと言いながら、広告に関しては、消費者からの苦情がない限り、一方的に企業からの情報が垂れ流されている。そして、何か問題が起こっても、それを受け取る消費者の側の「自己責任」で処理される。個人の問題として泣き寝入りするのが落ちになる。

 資本対消費者となると弱いものだとつくづく思う。

2010年10月8日(金)
サプリの取りすぎに副作用はないのか

  「毎日毎日飽きもせずに」と思うほど、サプリメントの広告がテレビから流れてくる。昼間のテレビ視聴者は、高齢者が多いと踏んでのことだろうが、若く保つ、関節などの痛みが減少する、などが多い。
 なかには「冗談じゃない」と思うような、若者向けの「大食いしてもこれさえ飲んでいれば、太ることは気にしないで良い」というような、詐欺まがいのCMさえある。

 痩せる、痛みが取れる、動きがスムーズにできるようになる、疲れが取れる、スタミナがつく、血圧が下がる、などが殺し文句らしく、どのサプリでもこれらのどれかを謳っているように見える。

 「嘘も100回言えばホントになる」とかいう格言(?)があるように、毎日毎日聞かされているうちに、日本国の人間全部がサプリを飲んでいて、飲まないとこれからの老いの日々が、健康でいられないという気分になってくる。
 周りの仲間に聞くと「この人が・・・」と思うような人まで、何かしらのサプリを飲んでいる。

 「これは個人の感想です」との注はついているが、まごまごしていると読み切らないうちに消えてしまうような、アリバイ証明のための一文だから、読んでいない人も多いのではないか。
 そんなこんなで「関節にはこれ」「血圧にはこれ」「メタボだからこれも必要」という具合に、もし飲んだらどんなことになるのだろうかと、人ごとながら心配になってしまう。 
 ネットで「飲み過ぎの結果」について調べてみたが、20くらいの検索の中では見あたらなかった。せいぜい粗悪品に気をつけろとか、自分の症状を見極めて飲めとか、栄養などの基礎知識を持った上で飲め、ラベルの表示に気をつけろ、くらいしか書いてなかった。

 ビタミンAは、不足すると夜盲症になったりするというので、一時盛んに、飲んだ方が良いと言われたことがある。しかし、取りすぎでの疾患が問題になって以来、あまり言わなくなった。
 同じビタミンでも、Cのように水溶性の場合は、流れてしまうから大事にはならないが、Aは脂溶性だから危ないとも聞いた。
 
 ビタミンでさえ、取りすぎの問題があるのだから、いまの症状に特化したサプリも、何か問題があるのではないのか。そもそも、特別に偏らない食事をしていても、特化したサプリのような成分が、大量に身体に必要なのか。
 そもそもサプリのような状態にした成分を、身体が吸収するのだろうか。食事によって摂取されている成分の何倍もの量なのに。

 そんなこんなで、サプリと名の付くものは、はなから疑ってかかっているから、飲む気にならない。

2010年10月8日(金)
前代未聞の話

  ねじれ国会とやらで、政府与党は低姿勢でいっているらしい。
 国会中継なるものは、長々と訳の分からないことを述べ合っていることが多いので、見ていて疲れるから滅多に見ない。さわりの部分だけを、せいぜいニュースの特集で見ればいいやということで、お茶を濁している。

 ところが「見れば良かった。面白かったのに」という報告が息子からあった。
 彼は「政治」が趣味のような男だから、国会中継を見ることが好きで、生で見られないときはご丁寧に録画してみるほど。 だから、当然今回の中継も見ていた。

 今国会での問題点と言えば、小沢さんの「政治と金」と「尖閣問題」に決まっている。「政治と金」については、どの党も追求するのが当然だから、あまり驚きはしない。
 「尖閣問題」については、対中国との関係があるから、追求には幅があると思われているだろう。

 こともあろうに、共産党の志位委員長が、代表質問でこれを取り上げたのだとのこと。しかも、歴史的経緯から説き起こして、延々10分くらいも述べたとの息子の報告。彼の主観が入っているから、実際の時間が10分だったのかどうかは分からないが。とにかくさらっと触れたのでないことは確かだ。

 これに対しては、議場の与野党の議員が一致して「賛成」の表明をする、拍手がおくられたのだそうだ。
 「共産党」といえば「何でも『反対。反対」と言うはみ出し党」とのイメージが定着しているだろうから、国会中継をじっくり見ている時間のある、高齢保守の方々は驚いただろうと予想できる。「同じ共産党だから、中国には何一つ文句は言えないだろう」と思いこんでいる「反共闘志のなれの果て」のような御仁は、どう受けとめただろうか。

 日本は日本、中国は中国と、それぞれの主権を尊重するのが民主主義の大原則で、あっちの国が親分で、こっちの国が子分などという構図は、とっくの昔になくなっているはずだが、いまでも頑迷に信じている方々も結構居るらしい。そういう方にとっては、目が点になるような話だったのではないか。本来は目からウロコを落としてもらいたいものだが。

 「何でも反対党」は、マスコミによってつくられたイメージではないかと思う。与党の案で問題があるものには、他党のように簡単に妥協せず、最後まで主張を述べ続ける。マスコミにとっては「○○に反対する党」として、対決の絵が描けて便利な存在だから、反対している場面ばかりを映すことになる。
 しかし、実際には反対すべきでない法律は賛成しているし、対案もしっかり出している。ただ「何でも反対」ではない。

 それにしても、今回の満場の拍手は確かに「前代未聞」のことだから、ニュースで映像を流すかと期待したが、ほとんど流れなかったように感じた。「共産党が満場の拍手をあびた」という図は、マスコミにとっては「対決党」のイメージを壊すもので、都合が悪いのではないかと疑ってしまう。「良いところを見せてはならない」との指示を出すスポンサーもいるだろうし、上層部からの圧力もあるのでは。

 いつまでたっても正当に評価されないのでは、イメージ戦での勝利は困難だ。体制を転覆させる党だなどと、いまだに信じているのだろうか。

2010年10月6日(水)
オバサンの気遣いは家族のためだけ?!

   まだ切り捨ての60代だが、専ら経済的理由で車を処分して、代わりに買い込んだ電動アシスト自転車で、動ける範囲を乗り回している日々。サイクリングのつもりならば、川を越えての遠出も可能だが、帰りに自信がないから、専ら一駅くらいの範囲で乗っている。

 先日はテレビで「自転車での美脚作り」を特集していたから、さっそく実行しようと思ったが、構造上の問題で、テレビ通りにはいかないことが分かり、ガックリ来た。
 足はどうにかつくくらいはOK。買ったときからクリアしていた。チビだから、制限一杯にサドルを下げても、足がつくかつかないかにしかできなかった。

 サドルはOKだが、ハンドルを下げて前傾姿勢になるのがアウト。前につけたかごが邪魔になって、前傾姿勢まで下げられない。かごがないと買い物の時困るから、かごをはずすわけにはいかない。というわけで、美脚作りは半分諦めた。
 とはいえ、必要に応じて乗っている。歩けば15分が、乗れば7、8分になるから、忙しい日々には必需品。腰痛で歩くことに自信が持てなくなっているからとの理由もある。

 こちらは自転車だから、車の皆さんのマナーが気になる。きょうも「バカ女郎」と言いたいオバサンに出会ってしまった。
 スーパーの駐車場から道路に出ようとすると、向こうからオバサンの車が来た。遠くからオバサンと分かったのではなかったが、とにかくノロノロ来ている車だった。それでも相手は車だからと待っていた。イライラするほどの時間が経ち、やっと通り過ぎるほどの近さまで来たから、やれやれとこぎ出す体制に入った。すると、目の前で左折信号を出したのだ。何と私が待っていたスーパーの駐車場に入ろうとしたのだ。

 「バカ女郎! 冗談じゃない。もっと早く信号を出せよ。ずっと待たされて居たじゃないか。信号出し忘れたのかよ。私でなけりゃぶつかるところだぞ。そうでなきゃ怒鳴られるよ」と言いたいところだったが、オバサンは同類だから仕方ないかと、そのままこぎ出した。

 高齢者ドライバーの事故率は、男女どうなっているのだろうか。テレビに出てくる限りではオジサンの方が多いようだが、これはドライバー率が高いからではないかと思う。

 気を使って他を立てるように思っていたオバサンだが、実は家族以外の人間には気を使わないのが、オバサンかもしれない。「私が私のスピードで走っているんだから、何か言われるスジはないわ」という言い分だろうか。

 家庭の中では、自分を殺して、家族が気持ちよく過ごせるよう気を使っていると思うのだが、それは自分の利害が直接関係する場だからなのか。家族に対して気を使っていれば、見ず知らずのよそ者には、気を使わなくても良いと思っているのだろうか。
 社会的マナーに欠けるのがオバサンだと、巷で言われていることを否定したいが、し難くなってしまうようなワンシーンだった。 

2010年10月1日(金)
なぜ役員になりたがらないのか

  地域の施設が、予算削減のあおりを受け、住民の自主運営に委ねられるようになって、2年が経った。「地域住民の自主的・民主的活動を目指して、云々」と、表向きはかっこいい言葉で飾られているが、その実、公的資金を削るために、住民に下請けさせる組織にしか過ぎない。
 
 自主的に集まる運営委員会が理想だろうが、どんなものかも分からぬ組織だから、人は集まらない。そういう場合の常套手段として役所が考えるのは、すでにある組織を寄せ集めること。地域の町内会、子ども会、PTAなどの代表、すでに施設を利用している団体の代表など、言われれば出てくるだろう団体の代表を集めて、運営委員にして発足した。

 本人の意志で集まった委員会ではなく、組織から送り込まれた委員の集合体だから、誰も積極的にはなれない。それぞれの団体での役割で仕方なく来ているから、任期の終わりが委員の終わりで、入れ替わり立ち替わりになってしまう。

 そういう会ならば徹底して「当番制」などにして会を運営していけば、それなりに動いていくだろうが、その中に一人二人「やりたがり屋」が居ると、ことは厄介になる。
 積極的にやる人はほとんどいないから、一人でも「私がやります」という人が居ると、他の人は「やれやれ、自分がやらずに済んだ」と思い「お願いします」ということになる。

 どういうわけか、往々にして「やります」という人に限って、やってもらいたくない人であることが多い。「出たい人より出したい人を」の標語が確か国政選挙関連であったと思うが、まさにそれで、出たい人は出したい人とは一致しない。

 3月の「日記」で、来年度はどうするか熟考を要すると書いたが、助け船を出した施設長が転勤したこともあり、精神衛生を優先して今年度は委員を降りた。
 やれやれと思っていたら、昨夜の会議には担当が行かれないからと代役が回ってきたので、くだんの「会長」とまた顔を合わす羽目になった。

 代役だからとできるだけ黙っていたが、役員の話になり、変わる者が居ないので、結局彼が再選されることになった。そのままやり続けることが良くないことを知っている人もいるだろうが、とにかく自分におはちが回ってくるのは御免被りたいということが優先しているから、自分がならなければ誰でも良いという感じで賛成してしまう。
 こちらも「それなら私がやります」とは言えない代役の立場で、黙っているしかなかった。後2年同じ顔ぶれで進めていくことになった。

 なぜ役員になりたがらない人が多いのか。責任を取りたくないのか。時間を割かれたくないのか。金にならないからか。一人ひとり聞いて回りたい気分だったが、それはできないから、想像するしかない。
 金にもならず、社会的名声も得られず、時間を使わねばならぬ「仕事」は、するのがバカバカしいと考える人間が増えていることは確かだ。「効率と金」の社会現象の反映だと思うが。
 民主主義が真に成熟していない社会だというしかない。 

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