ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

トップページに戻る      ご意見、ご質問はこちらから

<<前のページ | 次のページ>>
2010年11月3日(水)
「ヒマー」な仕事は苦手

  地域の「防災フェア」があり「婦人消防隊員」ということで、かり出された。かり出されたなどと言ってはいけないのだろうが、自由意志で参加というのではなく「お役所」から言われて、なんだか分からないが参加したのだから、気分としては「かり出され」がピッタリ。

 昨年は、10時〜14時という時間設定だったが、今年は9時〜12時と時間が変更になった。昨年の状況が分からないから勝手な推測になるが、予算削減で午前中にしたのではないかと考えた。昼をはさむと弁当を出さねばならない。要員として参加している人数は、婦人消防隊員だけでも40名くらいいるから、その他の要員を含めれば100名を超えるだろう。一人500円の弁当にしても5万円になる。バカにならない額だ。時間を変更すれば出さずに済むから、確実に予算は減る。みみっちいが役所が考えそうなこと。

 何をやるのか全く知らされず、その場で「あなたはこれを」「あなたはあれを」と割り振られての「仕事」となったから、言われたことを「ハイハイ」と言ってやるだけ。しかも一緒に割り振られた要員は名前も知らない人だから、一致協力して事に当たるということもままならない。

 見渡したところ、人手は余っているようで、幸か不幸か、時間ぎりぎりに参加したので、豚のしっぽ的存在になり、仕事はあるような無いような状況となった。
 何か行事があって参加するときは、人手が無くて忙しいのが相場だから「仕事があるような無いような」への対応には慣れていない。手持ちぶさたで時計ばかり見ることになった。「まだ1時間か」「やれやれ、あと1時間ある」という具合。

 初めての行事ではないから、要員が何人くらい必要かは、幹部の皆さんには分かっているはずだ。
 参加人数が出た時点で、こんなに多くは要らないとか、まだ何人不足だと分かったのではないのか。必要人数以上に集まった結果として「ヒマー」な人間が出てしまったのだと思う。必要人数以上ならば、来なくて良いとの連絡をほしかった。

 多分幹部の皆さんには、仕事は「ヒマー」でも、参加して体験したり、状況を見学してもらうことに意義があるから、参加者数はできるだけ多い方が良いという計算があったのだろう。
 イベントを盛り上げるためには「無用の用」の存在も必要なのだろうが、それにされた方は「良い迷惑」ということになる。
 来年も「かり出し」はあるから、用事を作って不参加と決め込もう。続けて同じ体験をすることと他の体験を比べれば、他の体験を取る。
 大事でないとは言わないが、2年続けてやる必要は感じなかった。

2010年11月1日(月)
「去る者は日々に疎し」を実感

  久しぶりに、以前関わっていた研究会に参加した。日程が合わなかったり、今関心を持っている内容と合わないため参加する気が起きなかったりで、随分久しぶりになってしまった。もしかしたら1年ぶりかもしれない。

 会場は、以前よく利用していた研究会事務所ではなく一般の市民館だったので、ウロウロしていたら定刻を過ぎての到着になってしまった。
 代表や世話人には知った顔もいたが、知らない顔が司会を担当していたり、世話人ですと自己紹介したりで、何となく「借りてきたネコ」気分になった。

 レジメの発表は、以前と大きな変化があるわけではなかったので、論議について行かれないことはなかった。むしろ、内容によっては、すでにそれ以上の実践を知っていることもあり、未熟な後輩に示唆を与えるような場面もあった。
 参加者のなかには、「見たことのない人だが、何でよく分かっているのだろう」と、不審に思う人もいたようだ。

 休憩時間も終了後も世話人はいそがしく、懐かしい顔だからと話し込む余裕はない様子だった。
 研究会を立ち上げたときから世話人として実務を担当し、体調を崩すもとになるほど打ち込んできた会ではあったが、世話人ができぬほどの体調不良となり、退かざるを得なくなった。それがなければ、今も世話人を続けていただろうが。

 とはいえ、それは「過去」のことで、すでに退いた身だから「今の人」ではないわけだ。
 「去る者は日々に疎し」とは、これを言うのだろうと思い、割り込むのは「美学」に反するとばかり、早々に退散した。

 どんなに力を注いでいたことでも、そこからいったん離れれば「過去」になり、忘却の彼方に消えることになる。
 自分の居場所は「今」でしかない。今の居場所は何処か。何に寄って立っているのか。改めて考えねばならないと強く思った。

 「かつての仲間の顔を見に行こう」というような、甘い考えでの参加は今後は慎まねば。研究会のテーマが今の自分に有益であれば、ごく一般の参加者として参加することはあるだろうが、かつての活動を話す機会とするなどは考えないことだ。

 それにしても、歳月とは残酷なものだ。 

トップページに戻る    ご意見、ご質問はこちらから

     

 

miyanen.htmlへのリンク