ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年8月30日(月)
不景気は文化活動を直撃する

  テレビを見ていると「安さ競争」がますます激化している様子がよく分かる。
 袋いっぱいでいくらというのは、もう話題にもならないほど一般化してしまったのか。きょうは、ステーキを注文すると、スープとサラダが食べ放題になる店とか、ビールのお代わりのたびに、店自慢の餃子が付いてくる店、などなど。まともに定価で買ったり、食べたりするのがバカバカしくなる状況を映し出していた。

 そんな昨今。近くの障害者作業所で恒例になっている「チャリティコンサート」のチケットが、予定の2/3ほどしか売れず、このままでは活動費の捻出がままならぬどころではなく、赤字を抱える羽目になると悲鳴を上げている。
 自身の財布と相談すると、3500円のチケットは「高い」との印象があるので、今回は遠慮しておくつもりだったが、赤字になるのは見過ごせないと、協力することにした。

 「不景気になっているから、チケットが売れないのよ」との声があって気になった。
 「市民劇場」の会員が減少しているのも、不景気が関係しているという。
 確かに、財布の紐を締める場合の筆頭は「文化・娯楽費」になるのだろう。食費はどうしても削れないし、光熱水費もなかなか削りにくい。

 しかし、それをやむを得ないと認めてしまって良いのだろうか。
 芸術は大量生産できるモノではないから、デフレだからと簡単には値下げできない。
 しかし、値下げしなければお客さんが来てくれないから、生活費を別の場で確保して、チケットを下げることになる。その結果、練習時間が充分取れず、完成度の高い発表ができなくなる。

 ヨーロッパなどでは、芸術を保護するために税金を使っていると聞く。
 日本では会員制の「手作り芸術活動」の入場料にまで税金をかけることはあっても、保護するための税金投入は微々たるものらしい。
 日本という国の文化度を問われることになるのだが、あまり議論にならないのはどうしてなのか。

 「芸術」は、金持ちのお遊びとの認識が根強いのか。政治経済の中心にいる日本の男達が、芸術などは「女・子どもの遊び」くらいにしか思っていないのか。
 エコノミックアニマルと言われて久しい日本国の体質は、まだまだ変わっていないどころか、デフレでますます強固になっているように思う。

 このまま腕をこまねいていたら、金儲けだけを至上命題とする、心の貧しいおとな達の社会になってしまいそうで、不安になってくる。
 衣食足りて礼節を知るとは言うが、餓えるほどには食が足りていないとは思われない、衣もそこそこ足りていると思われる日本人が、なぜ文化には金を惜しむのか。
 心を大事にしない民は、何処かで「心」にしっぺ返しをされると思うのだが。

2010年8月30日(月)
うたごえ喫茶は万年青年の集まり?!

  地域の「年金者組合」で、歌声喫茶を「開業」し、月1回の「開店日」には「名ばかり店長」と「雇われ司会者」をやることになったから、本物を体験しようと、電車で3駅ほどの所にある「歌声喫茶」に出かけた。
 そこも常設ではなく、通常は「喫茶店」になっている店を、月2回だけ「歌声喫茶」に変身させる所だったが。

 開店日には1時間くらい前に行かないと座れないほどになる、と言われていたので、ついでの用事は後回しにしてまずはお店に向かった。
 30人は入れるかどうかという店内には、すでに常連さんと思われる何人かが座っていた。開始から終了までは3時間で、初回は1500円会費とのこと。
 「敵情視察」で、雰囲気が分かれば早々に退散しようと考えていたが、1時間だけで500円というコースはなかったので、予定を変更し終了まで参加する羽目になった。

 時間が来ると司会者が登場し、組み立て済みのリクエスト曲を、順次歌い始めた。曲の由来、歌われた時代背景、曲にまつわるエピソード、関連しての時事ネタなど、さすがプロの司会者だけあって、歌うのも楽しいが、おしゃべりを聞くのも楽しいという雰囲気作りで、進められた。お客を乗せて、あきさせずに、決められた時間内で終了するよう計算しているのが分かった。

 歌集が配られるのではなく、前にスクリーンを立てて、歌詞を映写する方法をとっているのは、歌集では「眼鏡がないと見えない」というお客さんが多いからなのか。お客さんは、いずれも「アラ環」以上と見受けられ、かつて「うたごえ喫茶」に通ったであろうと思われる面々だった。「雇われ司会者」をする身だが、かつて本物の「歌声喫茶」に行った経験はないので、だろうとしか言えないが。

 今回が特別ではないらしいが、リクエスト曲で組み立てられた曲は、ほとんどがネットからのダウンロードが難しいマイナーな曲だった。童謡、歌謡曲、などではなく、ポピュラーとは言えないロシア民謡とか、組合歌、反戦歌、などなど。「インターナショナル」まで出たのには「ウーン」とうなった。

 どれも歌いたくない曲ではなかったが、かつては「ノンポリ」であった私は、歌ったことがないだけでなく、聞いたことがない曲もあった。
 他の参加者は当然のごとくに歌っているところから考えると、ここに来る客は「歌声」に行っていただけというよりは、組合などの活動家だったのだろう。今でも活動家かもしれないが。

 若いときの活動家も、その後は世間のアカにまみれて「インターナショナル」などは歌わなくなってしまうのが一般的だろう。その中にあって「アラ環」をすぎても歌い続けている皆さんには、賞賛の言葉をかけたいと思った。
 しかし、それが常設ではなく、月2回の運営が精一杯というのが悲しい。

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2010年8月22日(日)
性犯罪ケア拠点の1ヶ月

  7/12の「日記」に「性犯罪のケア拠点がやっと一カ所になる」のタイトルで、性犯罪の被害者が一カ所でケアを受けられる「ワンストップセンター」が誕生するというニュースに関して、やっと今頃できてきた。役所の縦割りの弊害だ。と書いた。

 今回、センターが誕生して3週間ほど経ったから、その間の情報を載せている。
 開所式の写真を見ると、おじさんばかりが目について「これで『駆け込み寺』のように被害者が安心して飛び込める雰囲気になっているのか」と心配になってしまうほど。
 お役所が関わると、どうしておじさんばかりが式典で目につくのだろう。お役所の体質が変わっていないことを、この写真が象徴的に表しているような気がする。

 3週間の「成果」は、電話相談10件程度、来所者は数人。とのこと。
 この間に、実際何人の被害者が出たのかは分からないが、DVも含めれば数件ということはあり得ないだろう。愛知県では昨年、強制わいせつが年間389件起きたとの統計があるのだから、1日に1件以上あることになる。となれば、3週間では少なくとも20件は取り扱う計算になる。それが数件とは。認知度が上がって、最低でも1日1件にはなってほしい。

 電話相談が10件程度というのも気になる。これも計算上は10件程度ではすまないだろう。電話相談をいつしたのかにもよるが、被害直後でないと、診察や検査などができず、犯罪の立証が難しい。加害者を取り逃がすことにもなる。
 被害直後に電話があり、すぐに来所するか、現場に駆けつけて連れてくるかして、診察や検査をし、犯罪として立証していくシステムができていくことを願う。

 韓国では2005年に開所してから、5年間で16カ所に増え、韓国内の性犯罪認知件数のうち、半数近くを取り扱っているとのこと。
 日本でも早く韓国並みになることを願うが、金も人も問題とのこと。産婦人科医が不足しているし、運営費を自前で調達する必要があるとのこと。それでは次々拠点ができるのは難しい。今回も複数の都道府県に声をかけたが、結果として、愛知だけしか手を挙げなかったのだそうだ。自治体に相当余裕がなければ、センターの意義は分かっても「やる」とは言えないことになる。

 事業仕分けで、現在では不要になっている事業を止めるかわりに、こういう施設を作ってほしいものだ。
 男女平等の視点からも、女性だけに科せられている「性犯罪被害」は早く何とかしてもらいたい。男性並みに働きたくても、夜中の帰宅が危ない状況があっては、おちおち働いていられない。予防のためにタクシーを使うとなれば、女性だけの負担となってしまう。企業に請求すれば、そういう面倒があるから、女性はお断りと言われかねない。
 女性が安心して生活し、活動するためには、性犯罪の撲滅は大きな課題だと思う。 

2010年8月22日(日)
男もキレイになったら歴史は変わるか

  「男だってキレイになりたい」、「化粧品売り上げ堅調」、「女性売り場に併設も」の見出しに「なるほど。やっとそうなったか」と思いながら読んでみた。

 女性用化粧品市場が頭打ちの中、男性向けスキンケア商品の売り上げが着実に伸びている。とのこと。
 メーカーや百貨店は、品ぞろえとともに、肌質測定などのサービスを強化している。とも書かれている。最近は、洗顔料や化粧水などのスキンケア商品に加え、日焼け止めへの関心が高いのだそうだ。売り場も、紳士服フロアから化粧品フロアに移したり、「男女兼用」をうたった商品も目立つとのこと。

 6/19の「日記」で「男の顔も女並み」のタイトルで、顔の傷に対する男女差を不服として訴訟を起こし、勝訴したことを書いた。
 「ジェンダー」などに首を突っ込んでいるから「男女平等」にはウルサイ。しかし「フェミニズム」の方々のように、女性の権利ばかりを言うつもりはない。女性が男性並みに権利を得たいと思うように、男性も女性並みにしてほしい面はあるだろうから。
 顔の傷の保障が男性に不利だなどと言うことは、男女平等に反するから、当然勝訴を肯定する。

 この間の「アサイチ」では、肌には「美肌菌」なる微生物が存在し、それがお肌に潤いを与えているから、やたらに洗顔料など使わずに、水だけで洗っていた方が肌が綺麗でいられる。女性は洗顔料などを使って洗いすぎた結果、肌荒れが増えている。との情報だった。番組の男性キャスターと女性キャスターの肌を比較し、男性が何百とか美肌菌が居るのに、女性は数十で圧倒的に男性が多かったのには、妙に説得力があった。

 不精者の私としては、水だけで洗った方が良いなどという情報を得ると、我が意を得たりとばかりすぐに真似をする。「不精だから」ではなく「美肌菌を増やしている」となれば、いかにも最先端を行っているように聞こえる。これぞお得情報と思った。

 とはいうものの、男性がギトギトの油肌でいられるのは、あまり歓迎しない。やはりスッキリサッパリの肌ではいてほしい。
 今までは化粧水などというと、若者の専売特許のようになっていたが、写真で見るように、中年のおじさんがやり始めたらしいことにも賛成だ。むさくるしい方が良いと思いこんでいる「石頭おじさん」には、ほとほと手をやくから。

 自分が女にもてたいと思っているのが見え見えでは、少し興ざめはするが、むさくるしいよりは、付き合いやすい条件を作ろうとする努力は認めたい。
 今更、雄が着飾って雌の気をひく鳥の求愛並みになるのがいいとは言わないが、男はドブネズミ色の背広を着て、ほこりっぽい顔でいいとは思わない。

 男もカラフルな服を着て、化粧水などつけていられるのは、平和であることの象徴に思われる。「化粧もできないから、戦争などには行きたくない」という男性が増えれば、憲法9条を変えて、戦争可能国家にしようという男も減るのではないかとの幻想も持つ。
 「女々しい男」などの風評を恐れず、化粧する男がどんどん広がっていってほしいものだ。 

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2010年8月22日(日)
性犯罪はモグラたたきに終始している

  5/2の「日記」で「手を変え品を変えての性犯罪」について書いた。非出会い系サイトが犯罪被害の温床になっていて、性被害が依然増加の傾向にあることについて、「性教育をしない日本国では、性犯罪は増加して当たり前。どう取り締まっても、抜け穴を考える。取り締まりだけではダメで、性教育が必要だ」と締めくくった。

 今回は5/2の続編のような記事で、「非出会い系サイト」利用者のなかで、わいせつや売春などの性犯罪被害者が、今年上半期で前年同期比10.3%増加している。統計を取り始めた2008年から連続で増えた。と報じられている。
 一方「出会い系サイト」利用で被害にあったのは、前年同期比46.8%減とのこと。

 14歳以下の被害児童は、非出会い系が全体の30.6%に対し、出会い系は15.6%で、法規制のない非出会い系に性犯罪の舞台が移るとともに、被害の低年齢化が強まっている。と書かれている。
 中学生年令の子どもが、異性との出会いを目的とはしていない「非出会い系サイト」に軽い気持ちで入り、結果として性被害にあってしまうという構図らしい。

 特定の非出会い系サイトで被害の増加が目立っているそうで、警察庁はサイト内の監視強化など事業者の自主的取り組みの強化を要請しているそうだが、今後どんな効果が見られるだろうか。改善が見られない場合は、サイト名の公表も検討しているとのことだが。
 警察権力だから「脅し」もかけやすいが、脅しだけで業者が言うことを聞くだろうか。

 とにかく、知らない人とは気軽に出会うなということを、徹底しなくてはならない状況だが、なぜそうしなくてはならないのかについて、子どもたちに納得できる説明が、おとなの側にできるかどうかが問われることになる。おとなが気軽に出会い系に入り、それにハマって被害に遭っている現状を、子どもたちは知っているのだから、子どもたちにバシッと言えないのではと思ってしまう。

 人との繋がりが希薄になったことから来る「寂しさ」が根本にあるのか、あまりに「平和」過ぎて、生活に緊張感が無くなっている今日の状況で、万引きやらひったくりやらの「犯罪」はさすがにやれない若者が、性に関することならば「犯罪」とは感じないで行動できるからハマってしまうのか。
 あまりに満ち足りてしまったことが、今日の状況を作っているとしたら、何のための「平和国家」かということになる。

 一人ひとりがバラバラにされ、一見満ち足りているようだが実は欠乏感にさいなまれ、イライラとストレスをため込んでいる状況が、おかしな行動を生んでいるのだと思うのだが・・・
 民主的な家族関係の構築と、性教育が根本の解決ではないのか。

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2010年8月20日(金)
DV防止コピーが賞に輝くとは

  「DV防止言葉に託す」「被害者の『痛み』パネルに」の見出しに「ついにDV防止がポスター制作にまで進んだか」との感慨がわくとともに、どんなコピーかと読んでみた。
 
 さすが本年度の「東京コピーライターズクラブ賞」に輝いたコピーだけあって、奥が深い的確な言葉が紡ぎ出されている。
 私自身は、DVというほどの行為は受けた記憶がないが「玄関までの民主主義」は、しょっちゅう感じていたから「ご近所にみせる あなたの笑顔が恐ろしい」はいくらか分かる気がする。恐ろしいとは感じなかったが、外面と内面の違いは充分感じていた。
 DVの男も、ご近所では紳士で通っている例は多いのだろうから、妻の立場ではたまらないだろう。

 「ここまで耐えてしまったのは、結婚に失敗したくなかったから」もいくらか分かる。「結婚したからには、どちらかが死ぬまでは、ともに生きねばならぬ」の思いが強かったし、結婚に反対した母への意地や、世間への意地から、ふたりの関係性ではなく、結婚して同居しているという形にとらわれていた自分が見える。

 「結婚こそが女の幸せ」とか「結婚してこそ一人前の女」と見る風潮は、まだまだ残っているだろうから、結婚することや離婚しないことに「女のプライド」をかけてしまう女も多いだろう。それに「生活」がかかってくればなおさらだ。特別の能力もなく、特別の資格もない女が、離婚して生活していくのは容易なことではないと、推察はできる。社会の仕組みとして、支援してくれるようにはなっていないから、一人でのたれ死にする覚悟まで必要になろう。

 DVにあっている女性の場合、逃げる気力を無くしたり、経済力がないから逃げられない。親を頼れないから逃げられない。などの話も聞く。
 「『どうして逃げないの?』と言われた。どうしても逃げられないから相談したのに」のコピーが、作者が最も悩んだ作品だと書かれている。
 これが私には理解はできても同調できない面だと思う。逃げる気力を無くすほどに暴力を受けたことがないし、経済力は何とかあるから逃げる意志を持ったら逃げられる。頼れる親は居なかったが、自分の経済力に頼って、夫に従わざるを得ない状況ではなかった。

 今更言ってもDV被害者は救われないとは思うが、女性が自立について考える必要性がここにもあると思う。
 女性が経済的理由で逃げられないことを知っているから、それにあぐらをかいて、男性のDVが広がってしまう面もあるのではないか。
 これからの女には、経済的自立が不可欠だと思う。いやなら離婚するために自立を言うわけではないが、夫に頼った生活の危うさを考えれば、当然自立が必要になろう。頼りの夫がDVではなくても、交通事故で死ぬかもしれないし、病気で働けなくなるかもしれない。どういう状況になっても、せめて経済的にはやっていける保障があれば、安心ではないか。

 何より、経済的自立を獲得すれば、夫婦間の民主主義は進むと思うし、夫の顔色をうかがうような生活はしなくていい。それは、子どもたちにとっても良い影響をもたらすはず。 

2010年8月19日(木)
「戦争犠牲者追悼・平和を誓う集会」とは何か

 
 8/15、千鳥ヶ淵にある「戦没者墓苑」でタイトルの集会があった。
 たまたま「靖国」の参加者の一人が「千鳥ヶ淵」にも言ってみたいというので、足を伸ばしたら、墓苑入り口で足止めを食らった。「何で?」と思ったら、何と管総理が黒塗り4台で「ビュアー」と出てきた。武道館の「式典」前に寄ったらしい。靖国には行かずこちらに来たらしい。ヒロシマの時より車が1台多かった。「ビュアー」は同じだったが。警護の関係だろうが、あれで事故を起こしたらどうするのだろうかと、変な想像を膨らませてしまった。緊急車両の表示はないのだから、相手によけさせることはできないのだろうが・・・

 「平和フォーラム」の腕章を着けた方々が「受付」などをしていた。なんだかよく分からなかったが、来たことの証拠にと記帳した。後で考えると、タイトルの集会参加者の一人になってしまったことになる。
 タイトルの集会には、社民党の福島党首が来て、追悼の辞を述べた。正面の花には「民主党」と「内閣総理大臣管直人」の表示があった。だから首相が来たのだと理解できた。
 
 タイトルの集会は、民主、社民系の集会らしいことが分かった。これも報道されているのかどうか。見た覚えがない。
 戦争犠牲者追悼の集会ならば、広く呼びかけて、靖国規模の集会にすればいいと思うが、そうはならないらしい。「連合」はかんでいないのだろうか。民主は与党になったのだから、動員がかけやすいだろうが、250人とかの小さな集会でしかないのはなぜなのか。

 「平和フォーラム」とはどんな組織なのかとネットで調べようとしたが、Explorerでは開けなくなっていた。余程「自分たちだけ」の組織らしい。これでは広がりようがないと思ってしまった。前々からやっている人達の自己満足に過ぎない気がした。

 それにしても、共産党系はどうしているのだろうか。「戦没者追悼」はやらないのだろうか。「反靖国」の連合体として、民主・社民も共産も大同団結したらいいと思うのだが。
 こういう集会に出ると、すぐに何系何系となり、何系だから参加するとかしないとか、中身よりも「系」で事が運ばれることに不信を覚える。

 同行の一人が「共産党の好きなところ、嫌いなところ」のアンケートをしているから答えてくれと言うので、さっそく「こういう会があると、すぐに「系」が違うからと一緒にやらないところ」と言ってしまった。
 障害者運動に関わっていた立場としては「敵でない者は皆味方」のような考え方で進めないと、運動の広がりがないことを知っているから、すぐに系にこだわる「セクト主義」のような側面が理解しかねる。最終的に選挙の時に投票するかしないかの問題になるから、こだわるのかとは思うが、選挙のための活動だけでは広がらないと思う。活動の結果として選挙で投票するという方向を目指さないと、とても「国民的状況」は作れないと思うのだが・・・

2010年8月19日(木)
右翼の暴力的エネルギーはどこから?

右端が警護付きのデモ隊   幟旗がチラッとバス越しに

 例年は午前中で帰宅してしまうので知らなかったし、新聞などの報道はなかったように思う「いきり立つ日本の情景」を8/15に見た。

 靖国近くでの会議を終わり地下鉄の駅に向かうとき、道路の両側を占拠して「右翼」の皆さんが「集会」をしていた。「道路で集会など許されるのか?!」と思いながら交差点にさしかかると、機動隊が防弾チョッキまでつけたフル装備でウジャウジャ居るではないか。「これはただごとではない」と「野次馬ばあさん」としては、さっそくにカメラを取りだし「何か来るらしいから撮ってやろう」と、車道ギリギリの移動柵まで乗り出した。すると「ここは何が起こるか分からないから下がってください」と機動隊員に言われた。ごま塩頭ではやむを得ないとスゴスゴ引き下がって「安全地帯」で待機した。

 スピーカー越しに、車の上からの機動隊員の話を聞くと、200人くらいのデモ隊が来るが、混乱を避けるために機動隊の指示に従ってほしいとのこと。
 何のデモかも分からぬまま待つこと、およそ10分。その間、大音量の右翼の「演説」とシュプレヒコールにさらされていた。道路の両側で大音量だから、何を言っているのかさっぱり分からなかった。右翼の皆さんには分かっているらしく、シュプレヒコールはうまく合いの手になっていた。

 いよいよデモ隊が通過となったが、機動隊のバスの向こう側を歩いているので、さっぱり見えない。「権力に守られないとデモもできないのか」とか何とか言っている右翼の声はかろうじて聞こえた。
 何としてもカメラに収めたくて、常套手段の「ちょっと失礼」をくり返し、かなり前までしゃしゃり出たが、どうあがいても「バス」に阻まれ「チラッ」としか見えなかった。

 カメラを構えている横では「○○のバカヤロウ!」だの「○○ ☆▲◇★▽◆△」だのと、大声にもかかわらず、何と言っているのか分からない「怒声」が渦巻き、頭上には木ぎれのような「モノ」が飛びかった。デモ隊に当たれば「軽傷」くらいにはなるだろう「シロモノ」だった。チビの身ではつぶされかねないので、2、3枚写真に撮ったところで、早々に後退した。

 デモ隊が通り過ぎ「騒音」も一段落したので、何のデモだったのかと、警備の端くれのような方に聞いてみたが「分かりません」との返事。これはダメだと、一番分かっていそうな「右翼」と思われる幟を持った方に聞いてみた。いかにも「田舎者のばあさん」の風体がこういうときに威力を発揮する。相手は警戒心を持たず「反靖国のデモ」と教えてくれた。どういう人のデモかと聞くと「在日のデモ」とのこと。

 帰宅後ネットで調べたら「反天皇制運動連絡会」が正式名称で、略称「反天連」のデモだと分かった。在日の方だけではなく、新左翼の皆さんの会らしい。「右翼」の皆さんはわざと「在日」と決め込んで「朝鮮人帰れ」みたいな行動をしたらしい。機動隊が入らないと、確かに大乱闘になりそうな雰囲気だった。

 日本国は「言論の自由」が認められている国だから、8/15に靖国神社近くで「反靖国」のデモをすることは禁止されるべきものではない。それに対し「反靖国反対」を言う「右翼」の活動も、禁止されるべきことではない。
 しかし、道路を占拠して大音量でがなり立てる行為は許されるのだろうか。道路交通法とか、騒音防止条例とかに照らして問題はないのか。
 機動隊がフル装備をして、バスを連ねてデモ隊を囲まないと「大乱闘」になって、けが人が出るという行為は許されるのだろうか。デモ隊に「投石」まがいの行為をすることは許されるのだろうか。なんだか訳が分からぬようになる行動だった。

 「右翼」の皆さんは「民主主義」が嫌いなのだと、改めて思ってしまった。
 去年の状況がYou Tube に出ていたが、そのうち今年の状況が出るだろう。
 「草食系」とか言われて、今の若者はおとなしいとの認識があったが、一部とはいえ「暴徒」になりかねない若者がいることを知った。彼らのエネルギーはどこから出てくるのだろう。日頃のストレスが「在日朝鮮人」に集約され、「在日」に対してなら何をしても良いとの「思い上がり」がそうさせるのだろうか。
 暴徒になる若者が居るのは、民主国家日本としては憂うべき状況だと思う。来年はもっとたくさん来ると豪語していたから、どうなるのか見てみたいものだ。 

2010年8月16日(月)
2010.8.15の靖国を見た

 
 「定点観測」のように、8/15の靖国を見に行っている。
 何年か続けると、その年によっての微妙な違いが分かって来る。「定点観測」の意味はそこにあるらしい。

 まずは、境内を見回しての変化。昨年はあった本殿横のマスコミカメラ用櫓が無くなった。夏祭りの櫓ほど高くはないが、それでも本殿の中を参拝者の頭越しに映すためには必要だったと思われる櫓が、無くなっていた。場所を確保するための柵だけはあったが。当然の事ながら、カメラも少なくなっていた。「チャンネル桜」とかいう「右翼」系のテレビが目についたくらいで、他はNHK以外の大手テレビ局は見られなかった。

 今年ははやばやと首相の参拝はないと発表されるし、全閣僚が参拝しないとの報道もあったから、マスコミも「風物詩」としての「靖国」しか話題性がないから、来なかったのではないかと推測する。 
 報道が関係していると思うが、参拝客も少なめだった。小泉さん時代の「大鳥居」付近からの大行列に比べれば、半分近いような印象だ。

 何か話題になっていれば、飛びついて行列に加わるような皆様は、別の「話題性」のある場所に行かれたのだろう。何ともはやいい加減というか、柔軟性があると言うべきか。日本人の国民性は、主体的に決定するのではないことを、証明しているように思われた。

 遺族会も少なめだったように思う。昨年はズラーッと並んでいたバスが、今年はズラくらいで終わっていた。寄る年波には勝てず、夜行バスでの参拝者が減少しているのだろうか。各地の遺族会も今後どうしていくのだろうか。子や孫にと引き継ぎたくても、地方では地元にいる子や孫は減少しているだろうし。

 大鳥居までに配布されるチラシも少なめだった。
 今年のメダマは「日韓併合100年」関連のようだ。日韓併合は日本の誇りだとの主張。前々から言っていることは同じで、近代韓国を作ったのは日本で、農工業を興して破産から救い人口を2倍にしたとか、法律を整備し民主化したなどと、日本が韓国の礎を築いてやったとの論法。噴飯ものは、名字のない賤民に姓名を与えた。日本と同じ教育制度を整え文盲を無くした。との論。創始改名や皇民化政策も、彼らに言わせると「善」の固まりのようになる。併合100年の話題性に噛み付いているとしか思えないが。

 「テレビと新聞が必死に隠すこと」では「うわさ話」でしか聞いていない内容が書かれていて、情報が広がった。こういう機会でないと、情報が得られないから、それなりに役に立つこともある。ただし、無理矢理「在日」に作り上げるため「帰化人」などというレベルの「在日」を出しているのは厚顔も良いところ。「あんた達のご先祖だって『帰化人』の可能性はあるだろう」と言ってやりたくなる。

 「帰化人」まで遡ってしまうと、彼らの尊敬してやまない「天皇」までも「帰化人」ということになりかねない。縄文人を「大和」の先祖とするならば、弥生人のなかには「帰化人」が多く含まれる。今の天皇自身が、朝鮮半島との関係を言っているのだから、帰化人は言わない方が良いのではないか。「墓穴を掘る」ことになりかねないと思うが・・・。

 「芸能人の3分の1は創価学会か在日」とのタイトルを見ると、彼らは学会も嫌いらしい。西条秀樹や高倉健、菅原文太、和田アキ子などが在日とは初めて知った。
 ダウンタウンとか高橋ジョージ、泉ピン子、浜崎あゆみなどが学会だという事実も初めて知った。
 知ったからどうということはないが、芸能人に学会が多いということは、若者が公明党に投票することにはなるかもしれない。その意味では、あまり良いことではないと思う。結果として「広告塔」になっているのだから。

 常日頃は全く得られない情報を得る貴重な機会だから、やはり「定点観測」は続けよう。

2010年8月8日(日)
右翼は反核が嫌い?!  ヒロシマぼけ−2

 
 8/6の「ヒロシマ」は、世界中から注目される。広島にはいろんな国から人が来る。「原水爆禁止世界大会」への参加者ばかりでなく、観光客も多く来るようだ。
 だからこそ、自分たちの主張を広げる絶好の機会にはなるから、8/5の平和公園周辺に、右翼の街宣車がいるのは当然ではあるだろう。しかし、被爆の地に右翼の街宣車とは思っていなかったので「えーっ」という感じだった。

 特徴のある言い方だから、街宣車特有のボリュームいっぱいのスピーカーでなくても「あれは右翼の皆さんだ」とすぐに分かるが、なぜかボリュームいっぱいは、どこに行っても変わらないらしい。
 「あやまちは繰り返しませぬから」に噛み付いているのも、以前から変わっていない。

 「過ち」の主語が日本人であると決めつけ、日本人が過ちを犯したのではないから「過ち」の言葉を削除せよとの主張だ。
 2005年には、同じ考えで「過ち」をノミで削ってしまうという事件もあった。器物損壊で実刑判決が出たそうだが、自分の主張を実力で達成させようとするのは、いかにも右翼らしい。言論弾圧を実力行使で行うことが、彼らの心情のようだ。

 裁判でも決着がついたはずの、同じ主張を繰り返している右翼の一団体と思われる車が「広島城」と彫られた石柱の真横に止められていた。駐車禁止の立て看板が、すぐ横にはなかったが、城の中になるのだろうから、当然駐車禁止区域だと思う。そこに堂々と駐車するのだから、右翼は警察とは仲良しなのだと思ってしまう。
 もし「共産党○○委員会」と書かれた宣伝カーを止めたら、どうなるだろうかと考えてみた。駐車禁止違反で即罰金になるだろう。もしかしたら、運転手が勾留されるような事態になるかもしれない。

 現在の政府の転覆を謀っている団体として、共産党に対する厳しい弾圧は、現在でも警察のなかでは生きていると、以前書いた覚えがある。
 日常的な活動を垣間見ている立場としては、日本国の転覆を謀る団体などとは全く思えないが、それを信ずるに足る根拠が警察内部にはあるらしい。
 ドラマでしか分からないが、警察はモノスゴーイ縦社会だそうで、上が「白い」と言えば「カラスは白い」としなくてはならないほどらしいから、上がこうだと言えば、下はそれに従うしかないのだろう。たとえ個人的には「違うと思うけれど・・・」と考えたにしても。

 右翼の活動も「行動の自由」にはいるのだから、頭から押さえることはできないが、駐車禁止だの、迷惑行為だの、法律違反行為に対して、甘い規制を取っていることは許せない。
 警察権力も、日本国憲法に基づいての権力なんだから、右だ、左だで、甘くなったり辛くなったりするのは不公平というものだ。

2010年8月7日(土)
ヒロシマぼけの頭で考える その1

  
海外旅行に出かけて帰国すると「時差ボケ」になることがある。生活リズムが狂うから起きることで、特に意味があることではない。
 しかし「ヒロシマぼけ」は、生活リズムの狂いではなく、意識の混濁とも言うべきもの。
いろんな刺激を短期間に受けた事による整理不可の状況。
 
 人類初の原子爆弾投下都市ヒロシマ。カタカナで書かれた「ヒロシマ」には、特別の思いが込められる。
 平和運動、反戦運動、反核運動などをつまみ食いしている者として、一度は8/6の「ヒロシマ」に立ちたいと思っていた。いわば「夢」だった。

 夢の実現が降って湧いたように現れ、なんだか気が抜けたような気もした。そのせいか、ツッパリのせいか、みんなが感激することには何となくしらけた気分が出てしまった。
 「人が見ないものを見てやろう」と、鵜の目鷹の目で探し回ったわけではないが、目についたり耳に入ったりしてしまったことから、いくつか書いてみる。

 8/5の午後、原爆ドームへ行こうと、川沿いの道を歩いていたら「日本が唯一の被爆国ではありません。被曝者は広島、長崎の人達だけではありません」と、少しなまった声とともにチラシを出された。チラシを受け取ってもらえない気分の悪さは、ピースアクションなどで体験しているから、広告以外はなるべく受け取ることにしているので、何はともあれ受け取った。

 「被曝者救済はみんなの願い」のタイトルが目に入った。月に星のマークも。発音がなまっているから外国人と分かったが「月に星はトルコだっけ?」と、あやしげな地理の知識で連想した。注意して読めば「ウイグルの核被曝について知ってください」の副題があったのに、動く分科会「被爆遺跡・碑めぐり」で熱中症になりかかっていたから、注意力が足りなかった。

 中国ウイグル自治区での核実験でウイグル人が被爆したことは、以前何かで読んで知ってはいた。日本人が行きたがる「シルクロードツアー」が、本当は被曝の危険があるという話も聞いたことがある。しかし、その実情を詳しくは知らなかった。

 中国が1964年から1996年までの32年間も、地表での核実験というとんでもない実験をしたために、現在もウイグル人の健康被害と環境被害が続いているとのこと。
 1998年にはイギリスのチャンネル4で「Death on the Silk road」というドキュメンタリーが放送されたが、日本ではウイグルの核被曝状況が伝えられることはなかった。と書かれている。

 隣の中国で、黄砂が飛んでくる状況にある所で、すさまじい核被曝の実態があるのに、調査もされず、対策も取られていないとは信じられない。
 日本でも高度成長期に「水俣病」や「公害」問題が起きた。
 いろんな公害問題を噴出させながら、成長を続けているらしい中国の昨今の状況は、あの頃の日本に重なる。
 しかし、核実験は別物だ。国内だけの問題ではないし、その時だけの問題ではすまない点で、それこそ「人類に対する犯罪」になる。

 早急に調査をし、対策を取ってもらいたいものだ。日本とは離れているからと傍観しているわけにはいかない。我々の孫の健康問題に関わるのだから。

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2010年8月2日(月)
当事者のがんばりが「最後の砦」か

  「不屈のがんばり実る」「大きな支援、加藤さんを後押し」「神戸ポスター弾圧不起訴」の見出しに「まだ続いているのか。政権が変わっても変化無しなのか」と半ばうんざりしながら読んだ。

 参院選最終盤の9日午前6時半頃、神戸市西区の住宅街で起きた「不当逮捕・拘留 共産党狙い撃ち」の事件とのこと。
 メガホン宣伝のため、ポスターを信号柱などに仮止めしたところ、見張っていた私服警官がそれを見届けたうえで、パトカー3台と多数の警官を呼び「公選法違反」として、集団でパトカーに押し込み逮捕した。その後、期限いっぱいの20日間拘留され、弁護士以外の接見を禁じられ、拘留中に亡くなった兄の葬儀への参列も認められなかった。と書かれている。

 弁護団などの訴えによれば、短時間の宣伝の間、ポスターが風で飛ばないよう仮止めしたに過ぎないもので、どの政党もやっている当たり前の行為。警察の行為こそ、選挙の自由妨害の可能性がある。違法ならば、注意や警告をすべきなのにそれをせず、いきなり逮捕したのは重大。全国には、信号柱に政党ポスターが長期に貼られたままの例が多数あるが、何らの規制もされず放置されている。などで、不当きわまりないものだとのこと。

 この種の「不当逮捕」が、なぜ後を絶たないのか、理解に苦しむ。警察の偏向としか思えない。警察学校では、現政権に反対する「共産党」に対しては、徹底して弾圧するよう教育しているとの話を聞いたことがある。今回に限らず、同様の「事件」が後を絶たないところから推測すると、教育があるとしか思えない。

 不起訴を勝ちとった力は、加藤さんの不屈のがんばりにあるとも書かれている。取り調べでは、刑事が大声で恫喝するなど厳しい日々だったが、黙秘を貫いてたたかいぬいたとのこと。
 黙秘をしたまま勾留期限になると、不起訴になるとは良く言われる。警察は何とか起訴したいので「落とし」をかけるとか。どんな「落とし」なのかよく分からないが、かけられても黙秘を貫くのは容易ではないらしい。

 弁護士が接見し、支援が大きく広がっている状況を伝えたり、勾留理由開示公判への傍聴者の多数参加について話したりしたことが、加藤さんを後押しする力になったのだろう。 

 不屈のがんばりが不当逮捕を止める手だてだとは、戦前の日本にいるような気分になる。映画やドラマの話だと思っていることが、現実に起きてくる日本とは何だろう。

 法律に基づいて執行しているはずの警察も、実際に執行するのは人間で、人間が絡んでくると、偏見や思いこみ、好き嫌いで決まってしまうことが出てくる。それが組織ぐるみとなると、大きな圧力になってのしかかってくる。
 民主主義とは何だろう。言論の自由とは何だろう。制限付きの自由とは何だろう。考えてしまう。  

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2010年8月2日(月)
障害者はじっとしていろ?!

  「移動介護費 減額は違法」「東京地裁『大田区、裁量権逸脱』」の見出しに「また障害者関係だな」と思って読んでみた。
 案の定、自立支援法に基づき支給される移動介護費用を申請したら、東京都大田区が月34時間分減額したのは違法だと、脳性まひなどの障害がある鈴木さんが訴訟を起こし、東京地裁は「裁量権を越えており違法」として、区の決定を取り消した。の報道だった。

 外出時に介護を要する人に対する大田区の要綱では、支給対象時間の標準を月32時間に設定し、外出実態に応じて加算することを定めている。とのこと。
 鈴木さんの場合は、月124〜147時間の外出実態に基づき申請したが、区は90〜113時間分しか認めなかったとのこと。

 外出実態の標準を月32時間に設定した根拠は何か、と思ってネットで調べてみた。
 詳しいことは不明だが、健常者の余暇外出時間が、2時間くらいで週2回から算出し、月32時間に設定したらしいことが分かった。
 つまり、仕事をしていない障害者の外出は「余暇外出」であるから、週に4時間程度、月に32時間程度で充分だろう、ということらしい。

 この論法でいくと「外出介護が必要な障害者は、余暇外出以外は在宅しろ」ということになる。
 仕事以外で健常者が外出する理由には「余暇」以外にさまざまな事柄がある。日常的買い物、学習、社会的つきあい、等々、上げればきりがない。
 外出介護の必要な障害者は、こういうことにはいっさい関わらなくて良い、いっさい関わる資格がない、いっさい関われる能力がない、とでも考えているのだろうか。

 鈴木さんの場合は、マラソンイベントの事務に参加した時間は認められたとなっいるから、障害者関係の団体で活動している方なのだと思われる。そうであれば、マラソンイベントだけでなく、さまざまな活動上の必要から、外出は多くなったと推測できる。

 障害がありながらも、社会的活動を幅広くしている貴重な存在だと思う。それにもかかわらず、障害者とひとくくりにし「余分な活動はしないで、家に籠もっていればいい」と考えたとしか思えない区の態度は何だろうか。

 障害がなく自由に外出できる者達のなかにも「ただ飯」を食っているような輩はゴマンと居る。そういう者達に対して「ただ飯を食っているならば、外出などしないでおけ」とは言わない。彼らは堂々と外出して、税金の無駄使いをしている場合も多い。

 にもかかわらず、障害があるというだけで「無駄使いだから、家に籠もっていろ」とは何という言いぐさか。
 「 障害のあるすべての人による、すべての人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し及び確保すること、並びに障害のある人の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とするもので、2006年12月13日の第61回国連総会において採択された」のが「障害者の権利条約」で、日本も2007年に批准している。

 石の上にも3年というが、3年経ってもほとんど変わらない行政の姿勢に、はらだちを越えて虚しさがわき起こる。いつになったら、権利条約が「画餅」でなくなるのか。
 せめて、目の黒いうちに結果を見たいものだ。

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