ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年7月31日(土)
「セクト主義」というものか

  地域の新婦人から、広島で開催される「原水禁世界大会」への出席を要請された。
 役員でもなく、委員でもない単なる一会員に過ぎないのだが、役員や委員に行き手がないからと駆り出されたかっこう。

 長崎での「世界大会」には、5年ほど前に参加したが、広島への参加は経験していないので、自分から手を挙げていくほどの積極さはないが、頼まれれば行っても良いと思っていたから、行くこと自体には抵抗はなかった。

 しかし、全市の「結団式」なるところに行ったら、何とも妙な感覚に陥った。
 「原水協」をはじめとする「各種団体」から派遣されている者達の集まりだから、当然の事ながら、いつも見慣れている顔というわけにはいかない。さすがの「ツッパリばあさん」も「借りてきたネコ」状態になっていた。

 中心になるのは「原水協」らしく、そこの役員が進行を担当した。
 行動の説明になってはっきり分かったのは、私以外は全員同じホテルに宿泊すること。しかも、新幹線を降りて、ホテルに荷物を置いて会場に行くなど、すべての行動が、同一ホテルであることを前提に組まれていることだった。

 「借りてきたネコ」としては、個人的な質問をするのもはばかられたが、終了を待っての質問では、帰宅時間が大幅に遅れることに気がつき、「質問は?」にも背中を押され「私だけが、自分ですべての行動をしなければならないのですね」と聞いてしまった。

 結果としては、皆さんと同じホテルに変更することで解決したが、それにしてもなんだか納得できなかった。事務局の言い分では、本人の希望を優先したとのことだが、こちらにしてみれば、全員が行動をともにすることなど知らなかったから、適当に「このホテル」と言ったまでで、同じホテルに泊まった方が、行動がスムーズにできるとの情報が得られていれば、どうしても希望したわけではなかった。

 色々の団体からの参加者が、なぜ同じホテルになっているのかが分からなかった。他の団体には「このホテルにすると行動がスムーズに行きますよ」との情報を入れたのに、私の団体には入れなかったのだろうか。それとも、他団体の場合は、互いの結びつきがあるから情報が入るが、私の地域は結びつきがないので、情報が入らなかったのだろうか。

 そう思ってみると、結団式に参加している面々は、互いに顔見知りのようだった。それぞれの団体で、情報交換がされているという感じだった。
 たまたま私の地域の場合が、なかなか参加者が居ない状況があったりして、顔見知りになれないままに、情報が届かなかったのではないかとの妄想が浮かんだ。

 民主的団体と言われていても、顔見知りが「仲良しこよし」で活動しているのが実情なのだろうか。
 自分たちの仲間うちで活動していて良しとする。それでは運動は広がらない。
 「セクト主義」と言われるのは、こんなことにも原因があるのかもしれないと思った次第。
 「民主的」と言われている団体の「活動家」と言われる人達には、とかく自分の活動には熱が入っても、新たに加わった人には配慮の欠けることが多い気がする。
 他山の石として、心しておこう。

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2010年7月27日(火)
捜査員は学習が必要

  「冤罪の発達障害者 国家賠償を請求」「混乱状態で『盗撮犯』に」「特徴踏まえた捜査必要」「障害 把握する手だてを」などの見出しに「ああ、あの事件ね。国家賠償請求は当然」と思いながら読んだ。

 一審で有罪になり、控訴審で無罪になるという、今の日本では珍しい部類に入る「事件」だったからよく覚えていた。
 「発達障害」のなかでも「アスペルガー症候群」は、最近になって注目された障害だから、最初に対応した駅員や警官が「可能性があるかも」と思うことができなかったとしても、それはやむを得ないと言える。いろんな個性を持った人間と接する仕事だから、それなりの学習はしてほしいと思うが。

 一審が有罪としたことは納得できない。検察が丁寧に調べていれば不起訴にできただろうが、高裁では「警視庁と東京地検の調書が不自然に食い違い、捜査官が誘導したか、作文した疑いがぬぐえない」としている内容を、なぜ裁判官が見落としてしまったのかだ。
 裁判官にも、痴漢行為に対する偏った見方があったのではないかと思ってしまう。

 ァスペルガー症候群の診断が、一審判決直前にあったことも理解できない。
 知的遅れも言葉の遅れもなく、社会性の欠如やコミュニケーション障害、興味の偏りなどが特徴だから、単なる個性の問題か、障害の問題かの判別は、なかなか簡単ではないことは分かる。しかし、20代になるまでには、色々の場面で「問題」が起きていたと推察されるのに、診断を受けていなかったのだろうか。
 
 学校教育の場で、通常級にいる子どものなかに、アスペルガー症候群の子どもがいる例は少なくない。その場合、これこれの行動が気になるから専門家の受診をと勧めても、保護者が必要ないと思うと、それっきりになる例も多い。「家の子はそんな子ではありません」などと言われると、それ以上に勧めることは「人権」上できないという現実もある。

 今回の事件を教訓にして、警官、検察官、判事など、犯罪に関わる立場の人は「発達障害」についての知識を持ってもらいたい。冤罪を作らないためにも、ぜひお願いしたい。
知識があれば、取り調べ段階で「これは・・・」と気づいたかもしれないのだから。

 駅員、店員、船員、空港関係者など、不特定多数の人間を相手にする立場の人達にも、学習してほしいと思う。日常的に関わる「お客さん」のなかには、いろんな障害を持っている人もいるのだということを、頭に入れておくことで、無用のトラブルが避けられるし、適切な対応によって、犯罪者を作らないですむことにもなる。

 他方、障害についての知識を悪用して、犯罪を免れようとするような輩には、ビシッと対応してもらう必要もある。難しい問題かもしれないが、そこまでの学習でプロになれるのだ、くらいの意気込みでやってもらいたい。 

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2010年7月22日(木)
性的少数者とは誰のことか

  「中学生や高校生の性的少数者への 教員の対応? 意識は?」「不安や戸惑い・・・否定的な感情も 共通理解や正しい知識を」との見出しや、「性教育に8割が『賛成』の声」の小見出しに「そうそう」と思いながら記事を読み始めた。

 リードには性的少数者のあとに(同性愛や性同一性障害)が書かれているから、当然両方のことが書かれていると思ったが、中心的には「性同一性障害」のことになっていたので、ちょっとがっかりした。
 性的少数者との分類をされてしまうので、やむを得ないのかもしれないが、少数者とはいいながらも、同性愛は100人に3〜5人はいるという少数者であるのに対し、性同一性障害は、同性愛とは一桁か二桁違う出現率の少数者になる。

 なぜかと思って、報告者についてネットで調べてみた。研究者というのは、自分を売り込まねばならない存在らしく、結構色々の紹介が出ていた。
 結果として分かったことは、彼女の研究対象が性同一性障害の方々だったこと。
 なるほど。自分の研究対象だから、性同一性障害の報告に重点が置かれていたのだ。

 関わりを持って困難を感じた教員のアンケート結果で、トイレや制服の扱いの配慮、当事者生徒だけに違う指導をすると、生徒間で「なぜ」という空気が生まれるなど、他生徒の受け入れにも困難がある、などの記述は、完全に性同一性障害の報告になっている。同性愛では起こりえない問題。

 今は「性同一性障害学会」なるものも立ち上げられていることも分かった。
 「障害学会」とか「感性教育学会」「性教育学会」等々、どうすれば学会が立ち上げられるのか知らないが、何でも学会があるという感じ。
 専門分野はどんどん細分化されていくから、どんどん狭い範囲の「学会」なるものができていくのだろう。それはそれで、研究者の世界ではやむを得ないことかもしれない。

 いずれにしろ、「性教育に8割が『賛成』の声」となっているから、心強いことではあるが、今の学校では現実問題としてはなかなか困難ではないかと思う。
 指導要領を決める文科省の立場は「全員一致」を目指しているようで、少数者は切り捨てても、全体の統一を考えているとしか思えない。

 「自分が他人と違っていい。みんな同じでなくてもいい。『みんな違ってみんないい』」の思想が根付いていかないと、性的少数者に限らず、いろんな少数者が生きやすい世の中にはならない。頭では分かっていながら、それができていかないのは、世のリーダーになる人間が少数者と出会ってこなかったのか、少数者を見るゆとりもなく来てしまったのかだろう。
 世の中全体にもう少しゆとりがほしいものだ。ゆとりが生まれれば、自分以外の他者にも目が向くようになるのではないか。

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2010年7月19日(月)
痩せることは良いことか?!

  「やせているのにやせ願望 なぜ」との見出しに「またか」と思いながら、ついつい読んでしまった。

 『女はなぜやせようとするのか』の著者という浅野さんの説によれば「やせている女性が美しい」との社会的評価があるからだとのこと。
 日本では高度成長期以降、スリムな身体が"豊かになった社会"での女性美として追究されるようになったのだそうだ。そのため、女性は「やせると、みんなに受け入れられる」「やせることは良いことだ」と思いこまされていくのだとのこと。

 女性が社会から評価を受けるには、やせた「女性らしい身体」を持ち、「おしゃれで女性らしい衣服」をまとう努力が求められるのだとのこと。
 就職氷河期と言われていた時代から今日でも、一時期ほどには「外見」にこだわらず、仕事のできる「能力」を求められていたと思っていたが、依然として「女性らしさ」を求められているとは心外だ。

 かつて「女性らしさ」では勝負できそうにないからと「中身で勝負よ」と考え、あまり「女性らしさ」とは縁のなさそうな仕事を選び、現職の時にも今も「女性らしさ」を武器にしないことで、プライドを保っているような我が身に重ねると、女性らしさを強要されている若い女性に対して、哀れを感じてしまう。
 しかも、40年前とは比べものにならないほど、情報量が増えているから、かつてならば知らずに済ませられたことが、いやでも目や耳に入り、振り回されてしまわざるを得ない状況もある。本当に哀れで、同情に堪えない。

 どうすれば「自分らしさ」を保つことができるのだろうか。浅野さんは、学校でダイエットの在り方やジェンダーについて学ぶことが必要だと提唱されている。
 しかし、ゆとり教育から転換した指導要領の下では、どんな教科で学ぶことが可能だろうか。家庭科、保健などが考えられるが、これらは「重点教科」ではないから、削られてしまう恐れがある。以前書いたが、特に「保健」は削られる可能性が大だから、とても学ぶ機会は作れないだろう。

 HRでの討議とか、道徳の時間を使うことも可能だろうが、それにはクラス担任の意識が強く関係する。
 女性にとっての健康の視点から「やせ願望」の問題はほっておけないと考える担任ならば、時間を作って学習させるだろうが、それほど関心を持っていない担任の場合は、問題提起をしないだろう。

 やせ願望の女性が増え、妊娠・出産にも影響を与え、日本の少子化にも影を落としているとの認識を、文科省がもって、全国的な取り組みを始めなければ、マスコミの「やせ奨励」情報にはとても勝てないだろう。
 「売れるから情報提供している」と逃げられるのを、そのままにしておいては、我が日本国の行く末に関わるだろうが・・・ 

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2010年7月12日(月)
性犯罪のケア拠点がやっと一カ所になる

  「性犯罪 官民でケア拠点」との大見出しが目に付いた。「性犯罪者のケアを一カ所でするの?!」と思った。
「全国初 愛知の病院 申告や治療一カ所で」の見出しを読んでも、治療に目が留まり「やっと性犯罪者の治療をするようになったのだ。罰則だけでは性犯罪は無くならない。治療や教育がなくては」と思っていたから、見出しからそれを連想した。

 本文を読んで、やっと以上が誤解であることが分かった。
 今までは、被害者に対するケアを、病院や警察がそれぞれ独自に取り組んでいたので、被害者はそれぞれの場で、くり返し被害についての説明をさせられ、PTSDなどに陥ることが多かった。この現状を改善するために、日本版「ワンストップセンター」を設置し、被害申告しやすい環境を整え、犯罪の早期摘発につなげる狙いで始められるとのこと。加害者ではなく、被害者の問題解決だったのだ。

 今までワンストップセンターが無かったことが驚きだ。被害者のケアを考えれば、当然一カ所ですべてが終了する施設があるべきなのに「お役所」仕事だから無かったのだ。しかし、こちらは当然一カ所になっていると思っているから、今まで無かったということを知らなかった。

 どうして日本は「お役所」に人間を合わせさせるのか。理解できない。
 アメリカなどは被害者のためのセンターができていて、15年以上も前に施設を見学させてもらい、どんな活動をしているかのレクチャーを受けた経験がある。
 そもそも、なぜお役所は「なわばり意識」を持つのか。それも理解できない。

  今回のことに限らず、連携すればもっとスムーズにもっときめ細かく、もっと国民のためになる仕事ができることがたくさんあるのに、それをしないで「お役所仕事」で満足している。本当にバカバカしい限りだ。

 とは言え、今回のように、やっといくらか「連携」することが広がってきていることは、嬉しい限りだ。特に、今回のような「性犯罪」という最もプライベートで、人間の尊厳に関わる問題で連携が取れ、被害者の泣き寝入りが減り、結果として「性犯罪」が減少すれば、日本国にとっても益が大きい。

 このようなセンター活動では、韓国が先行しているとも書かれている。
 韓国でも、性犯罪が多発しているとの報道を聞いた覚えがあるから、日本と変わらない状況があるのだろう。
 韓国でなぜ、日本より先行してセンター活動ができているのかは、書かれていないので分からないが、人間としての尊厳を取り戻す活動に対して、国民的合意が得られていることの証ではあるだろう。

 性教育後進国でポルノ情報先進国の日本では、女性の人権に対する感覚が、韓国より鈍磨しているのかもしれない。それとも、儒教が生きている韓国だからこそ、女性の性被害に対する感覚が鋭いのかも。
 従軍慰安婦の方々が、戦後60年近く経ってようよう公表できたというくらい、女性の性については厳しい見方をする国のようだから、性被害にあった女性を守ろうとする意識が強いのかも。

 日本では、被害にあった女性が、公表して糾弾する機運も出てきているから、今回のようなセンター設置によって、さらに性犯罪の減少に拍車がかかることを期待したい。

2010年7月12日(月)
やっぱり千葉景子さんは落選した

  7/8の日記に『民主党は大丈夫か?!』とのタイトルで、千葉景子さんの演説に聴衆が少なかったと書いた。
 案の定というか、予言的中というか、千葉景子さんは落選した。それどころか民主党も10議席も減らした。素人の選挙評も捨てたものではない。

 選挙は時の勢いだとは聞いていたが、聴衆が少ないということは、動員がうまく行っていないということに繋がったのだろうし、車を降りて演説しなくてはならないほどに、関心が持たれていなかったということだろう。
 選挙情報で「危ない」とか「大丈夫」ということは分かっていたのだと思うが、すでに8日の時点では「落選間違いなし」の情報に基づき、動員もかけなかったのだろうか。

 さばさばした表情で挨拶したとの報道だから、辞める気だったのかもしれない。それでも立候補するのが分からなくなる。辞める気があったとすれば、誰か次の候補を選べばいいことだろう。支持母体である連合で候補者が選べなかったのだろうか。
 連合の力が弱くなっていて、動員や後継選びがうまく行かなかったのだろうか。

 みんなの党は、支持母体がなかったのに10人もの当選者が出た。首都圏中心だそうだが。首都圏に絞って活動を強めて、浮動票を取り込んだのだろう。
 今の選挙がどうなっているのか分からないが、支持母体もなく、浮動票という「時の勢い」だけで選ばれた候補者が、その後6年間は安泰というのが参議院だから始末が悪くないか。

 衆議院が優先の議案はいくつもあるが、それでも参議院で否決となれば、スイスイとは通らない。一定のハードルにはなる。ねじれが今後どう作用するのか心配だ。自・公・み・その他の小政党が結束しても、過半数には足りないようだから、自民政治に簡単に戻ることはないだろうが。

 民主党にはおごりがあったとも報道されている。千葉景子さんも「法務大臣」になったのだから、支持は固いとのおごりがあったのだろうか。それとも、大臣ともなると、地元に張り付いて選挙活動ばかりしてはいられなかったから、他の候補者に比べて不利な面があったのだろうか。

 民主党としては、全体の議席減の一人に過ぎないだろうが、支持母体の連合にとっては「発言者」がいなくなったのだから痛手だと思う。それとも連合の支持はすでに受けられなくなっていたのだろうか。
 連合の動員力がどれくらいあるのか、今の状況は分からないが、民主党が自民党とたいして変わらないことがバレてしまったから、動員をかけにくくなっているのかも。
 正社員が減少しているから、組合員自体が減少していて、以前のような力はないのかも。

 これからの選挙はどういう組織が有利なのか。欧米のように「党員」が中心になっていくのが本来の姿とは思うが、日本では「党員」になることはまだまだハードルが高そうだし。
 民主主義が成熟していくひとつのきっかけになってくれれば、千葉景子さんの落選も意味があるのかも。

2010年7月12日(月)
隣人とは誰か

  新約聖書には、キリストの言葉として「汝の隣人を愛せよ」とあり、隣人とは誰かとの質問に対し「良きサマリア人」のたとえを話されたと書かれている。
 旅人が強盗に襲われ、金品を取られ大けがをしたとき、ユダヤ教の司祭やレビ人は何もせず立ち去ったが、ユダヤ人からは差別を受けていたサマリア人が旅人を助けた。
 この旅人にとっての「隣人」とは誰かとのキリストの問いに「サマリア人だ」と答えた質問者に対し「あなたも同じようにしなさい」と言った。と書かれている。

 当時権威を持っていた司祭や、地位の高かったレビ人は、権威や地位が揺らぐことを恐れて助けなかったのだとのこと。それに対し、元々差別を受けていたサマリア人は、人間的な善意だけで行動したという解釈をしている。
 それが通説だが、本多神父は別の解釈をするだろうか。

 カトリックの神父で、ローマに留学もし、修道会の日本の責任者である管区長を経験したという経歴の持ち主である本多神父が、なぜ釜ケ崎の人々とともに21年も生きてきたのかとの疑問を持って、記事を読んだ。
 マザーテレサの例もあるように、カトリックの修道者が、貧しい者のために働く例は珍しくはないが、それにしても、管区長までやったのならば、別の方法で、布教や貧者の救済の活動ができるのではないかと考えていた。

 釜ケ崎に来たとき、現実と聖書に書かれたことのギャップに悩み、聖書を原文で読んだら、いままでの聖書訳とは全く違う世界があった。その世界は釜ケ崎の現実と響き合った。
 イエスは一番底辺の人だった。差別され、苦しむ人だった。
 宗教としてのキリスト教と、イエスの教えは別のものだと、今は思っている。
 釜ケ崎を無くそうとするのではなく、社会を変えようとしなければいけない。
 今のキリスト教の持つ問題点を明らかにしていきたい。
 苦しむ人々の中で神が働く。その苦しんでいる人を解放するため、すべての人が連帯する。そういう活動を目指したい。福音とは解放のメッセージだ。

 本多神父のメッセージには、賛成できるものが数多くある。一度会って話したいくらいだ。大阪ではおいそれと行くことはできないが、機会があったらぜひ行きたい。
 以前、マザーテレサの活動は素晴らしいが「死の家」に来る人を無くすような活動を考えることも大事だ、と書いた覚えがある。
 とかく、教会は社会の仕組みを変えることに、積極的でないきらいがあった。同情や「慈善」では解決つかない問題の方が、現代社会には多いのだから、社会に向き合わねばならないはずだが、それを避けているところが歯がゆかった。
 本多神父はそれについてズバッと切り込んでいる。これこそ真の救済者だと感じた。

 解放の神学について、ますます知りたくなった。 

2010年7月8日(木)
民主党は大丈夫か?!

  用事があって、いつも買い物でにぎわっている隣街まで出かけた。
 バスがターミナルにさしかかると、窓からポリスの姿が目に入った。いつもならば居ないはずのポリスが、3、4人たむろしていたので「きょうは何があるのだろう?」と思いながら、周りを見回すと「民主党」の幟が目に入った。「選挙カーが来ているんだ。それにしても何でポリス?」と思い、選挙カーをよく見たら、車に「千葉景子」の垂れ幕があった。

 すべてが了解できた。単なる与党の候補者ではなく、法務大臣の選挙カーが来るというので、ポリスが動員されたのだった。
 「それにしても、本人はどこにいるの?」との疑問が起きた。だいたいテレビを見ていると、お立ち台のような施設をつけた選挙カーの屋根から「ご通行中の皆さん。・・・」とやるのが、閣僚の選挙演説だと思いこんでいたから、お立ち台に本人が居ないことが理解できなかった。「どこに行っているのだろう。握手でもしに、デパートの中に入ったかな」とか思いながらバスを降りた。

 バスを降りてみて分かった。女性の声で演説らしいものが聞こえていたが、それが本人とは思わなかった。
 我々がピースアクションなどで、通行人にマイクで呼びかけるのと同じ場所で、本人が演説をしていたのだ。歩道の一角で、台もない平場での演説だから、本人が演説しているなどとは思えなかった。

 バスがターミナルに入るときからしか見ていないので、その前がどうなっていたのかは分からない。
 それにしても、閣僚の一人で、ポリスを動員させるほどの立場にある候補者が、平場で演説しているとは、何なのだろうかと思ってしまった。

 「法務大臣千葉景子来たる」みたいな張り紙があっちこっちにあって、お立ち台で演説しなければ、聴衆に埋まってしまう。というイメージがあったから。

 なぜ、彼女が演説しているのに、聴衆はピースアクションに毛が生えたくらいしかいないのだろうか。なぜ平場で演説しているにもかかわらず、握手を求める人も居なければ、手を振る人も居ないのだろう。と、疑問が次々わいてきた。

 消費税の発言以来、民主への風当たりが強くなって、支持が落ちてきているとの報道もある。法務大臣が来るのに50人の動員もできないようで、当選は望めるのだろうか。彼女は確か日教組が応援していた候補者だったはずだが、動員がうまく行かなかったのだろうか。

 民主にぜひ当選して欲しいとは思わないが、自民や公明が当選して民主が落ちるのは、将来の見通しがより一層暗くなりそうで心配だ。

 選挙などというものは、時の勢いというものがないと当選しないものらしいから、あんなしょぼくれた感じではどうなることかと思ってしまった。

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2010年7月4日(日)
初心者はベテランと違うのが当然

  ボランティア活動をしているときに急病人が出たり、事故に遭遇することもあるからと、救急法の講習会に参加した。
 消防署でやる講習会で、終了すれば「修了証」が出るからと、気合いが入っていた。
 中には私同様すでに修了証を持つ者も居たが、まるっきり初めての者も居た。

 初めの講義は、ベテラン救急隊員で若いイケメンのお兄さんだったから「なるほど。なるほど」と、改めて勉強する気で集中して聞いた。
 その後は、グループごとに実技練習に入った。私のグループは、残念ながらイケメンさんではなく、同世代と思われる女性指導員だった。なんだか嫌な予感がしたが「やっぱり・・・」という結果になった。

 同性だから欠点が目に付くのかもしれないが「人を見て法を説け」が、まるでできていない人だった。
 指導の中で「実は私も本物は見たことがない」という発言があったから、現場で実際の救急を担当した経験は余り無い方のようで、講習会担当が専門の方のようだった。

 受講者の我々も、アラ還なら良い方で、高貴高齢者に入るのではと思われる方も居た。そんな連中にたいして、事細かにテキスト通り教えようとするのが、どだい無理だと思うのだが、彼女の頭には「テキスト基礎編」が、がっちりインプットされているようで「応用編」は入っていないようだった。

 「倒れている人発見」から始まって、呼びかけ、応援の呼び方、呼吸の確認、等々、すべてに細かい指示が出される。一言一句間違わないように言って、教科書通りの型でやらないと先に進まないという調子。

 おかげで、他のグループが2回目をやっている頃になっても、1回目が終了しない有様。彼女のやり方に周りの担当者は慣れているのか、他のグループに、待っている人をまわしてやっと終了にこぎ着けた。
 それでも彼女は意に介せず、次のステップの時も同様にやるので、ほとほと参ってしまった。

 年配の我々は、20代のように、言われたことがさっと頭に入って、さっとその通りにはできない。「なるほど。こうなるのか。次はこれだったよな」と、自分自身で確認しながら、新しい事態に対応していくのが「常識」だろう。

 ところが彼女は、ちょっとでも考えようとすると「これはこうやって」と、すぐに口を挟んでくる。おかげで自分の納得ができず、何回やっても進歩しない。前の人を見て学ぼうとしても、次々指示が機関銃のごとくに出されるから、消化できないのだ。

 子どもならば、機関銃でも対応可能だろうが、おとなを長くやっている身には、それは効率的ではない。一見非効率でも、次にどうしたらいいのかと問いかけ、本人の納得に基づいて進める方が、結果としてはずっと効率よくできると思う。

 子どもに対しても、私は本人に考えさせる方法をとってきた。そして、結果として次々教え込んでいく方法よりも、効率よく達成できた経験を持っている。
 自分がよく知り覚えることと、よく教えることは別だということを知ってほしいものだ。
私も時に同じことをやっているかもしれないから、自戒の例と受けとめよう。

2010年7月1日(木)
{婦人消防隊」とは何?!

  「婦人消防隊」なる役割を、町内会から仰せつかったので、暑い中をやむなく「発会式」なるものに出席した。B5の大きさでパウチまでしてある、いかめしい「委嘱状」なるものをもらって帰宅した。

 さすがお役所。定刻にはピシッと開会した。これだけが「テイコク主義者」の私には納得できること。とにかく、市民団体には「○○時間」が多すぎて、そのたびに「時間が来ていますが・・・」を言わねばならない。

 おととい参加した「市民劇場」の懇談会でもやってしまった。「後1人、2人来ていません」との受付の声を受けて、司会者は「それではもう少し待ちましょうか」と言うのだ。冗談ではない。遅れてくる人への思いやりで、すでに参加している人の時間を奪って良いのか。ついつい「来ている方の時間を取ることになりますが・・・取り返しのつかない大事な時間を」と言ってしまった。どこに行っても「意地悪ばあさん」を発揮する羽目になる。なぜ、遅れる方への思いやりを言うのに、出席している方への思いやりがないのか。出席者の方が圧倒的多数にもかかわらず。まったくもって理解に苦しむ。

 とにかく定刻に始まることは、お役所の「唯一」の良いところ。後は何ともはや「時代遅れ」としか言いようのないプログラムであった。
 お役所の辞書には「前例の踏襲」という単語しかなく「現状にあわせての改善」という単語はないらしい。

 そもそもなぜ今「婦人」なのかと思って聞いてみた。会場を見渡すと、予想通り「婦人」の前に「ろう」をつけた方がいい方が結構居られたので。
 今時は「婦人」と言える方々は、幼い子どもの居る方か、仕事に出ておられる方で、家庭にいる「婦人」で、仕事と子育て以外で外に出られる年代は「ろう」が付くことになってしまう。

 答から類推すると、家庭婦人への啓蒙の意味を込めて「婦人」を作っているらしい。
 家庭婦人が自宅の防火も含めて、消防活動に関心を持ち、ある程度の技術も持つことを目的として発足したらしいが、現在ではその目的は果たし得ない状況になっている。

 消防関係でいくつもの「団体」のあることを初めて聞いて「そんな団体があるのだ」と知ったが、それにどれだけの意味があるのかよく分からない。
 「消防団」だけは分かる。消防署員とほとんど同じような活動をしている。各地にある。
 「消防研究会」となると、何か「天下り」の臭いがする。ネットで調べた範囲では、実働部隊ではなく、「防火」に関する講釈を担当するらしい。口だけグループの感じ。
 「消防ボランティア委員会」というのもある。これは実務をある程度担当する「消防団」の補欠のような意味合いがあるようだ。これに含めれば、わざわざ「婦人」など作らなくても良いのではと考えてしまう。

 「少年消防クラブ」という団体まである。これは「青少年赤十字」の消防番という印象。子どもらに知識と関心を持たせる会らしい。
 「婦人」もこれと似たようなものではないか。おんな子どもは、男とは別に団体を作らねばレベルが違うと言うことか。

 なんだかそれぞれの責任者は、天下りの消防関係OBみたいなおじさん連中だった。天下り先をつくるために、団体を増やしているのではないかと勘ぐってしまう。
 とにかく、これから5回の会合に出れば、今年は終了するらしいから、おつきあいだけはしておくことにしよう。実のある集会になるとは思えないが。 

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