ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年4月30日(金)
子どもの貧困で全国ネット結成

  「『子どもの貧困』なくせ」と「全国ネット結成」されたとの小さな記事を見つけた。
 子どもの貧困が捨て置けぬ状況になっていることは、研究会仲間から聞いて知ってはいた。しかし、いままで「全国ネット」がなかったことは、記事を見るまで知らなかった。
あちこちで問題になっているのだから、当然全国ネットがあると思いこんでいた。

 ホームレスの若者については、年末の「年越し派遣村」のニュースで知っている。派遣労働につかざるを得ない若者の中にも、子ども時代の貧困が原因で、充分な教育が受けられなかった場合があるとも聞いている。
 子どもの貧困が、将来ホームレスを増やすことに繋がっても行くだろうし、労働力の問題にもなっていくだろう。ひいては、我が国の国力問題にもなる。

 子どもの貧困の原因には、親のリストラや倒産もあるだろうが、シングルマザーやヤンママの場合もあるだろう。
 両親がそろっていて、父親は正社員で母親は専業主婦で・・・などという、典型的な「標準世帯」を基準に置こうとは思わない。共働きや、単身親家庭など、いまは「家族の多様化」は進んでいるから「かくあるべき」との家庭像など描けない。というより、描くべきではないと思う。

 多様な家族が多様な生き方をして、それぞれの幸せを追求していけばいいことだ。
 しかし、そこに「貧困」の問題が絡むと、事は簡単には済まない。「貧困」も各自の選択だから、自己責任で何とかしろと見放してはいられない。
 貧困も連鎖を作るから、日本社会全体の問題になるはずで、人ごとではすまされない。
 「金があれば幸せだ」とは言わないが、金がないと不自由になり、結果として不幸になる例は多い。日本社会に貧困が広がれば、不幸な人間が増えることになる。

 貧困の連鎖を断ち切るための唯一の方法が、子どもを貧困の巻き添えにしないことだと思う。親が貧困であっても、子どもはそれに関係なく教育が受けられ、安定した仕事に就けるようになれば、貧困の連鎖は断ち切ることができる。安定した仕事に就けば「税金」を払う立場になれるから、国力を上げることができる。それができなければ、将来的に「税金」で面倒見なくてはならない人間が増えることになり、国力は下がるだろう。

 「自己責任」とか「本人の裁量」とか言って、すべてが個人の責任であるがごとき社会になりつつあるが、親の社会的地位や財産の有無で、生まれたときから格差がある。同じスタートラインに立てていない。初めからハンディを負っている子どもたちが大勢居る。にもかかわらず、個人で勝負しろと言われても、負けは目に見えている。そうなれば、勝負を諦めてしまう子どもも出るだろう。それを本人の責任と言われてはあまりにも酷ではないか。
 
 ぜひ、全国ネットで要求をまとめ、国に働きかけ、貧困の連鎖を断ち切る施策を進めさせたい。

2010年4月29日(木)
教皇がマルタで被害者と会う

 マルタでの野外ミサに臨む教皇とネットの扱いを載せた記事

 はらだち日記でも何回か取り上げた、司祭による性虐待問題で、マルタを訪れた教皇が、被害者と直接会ったとの報道があった。
 日本のカトリック信者は、人口の1%にもならないから、教会の性虐待については、あまり問題になっていないが、ヨーロッパでは大きな問題になっているようだ。

 マルタ訪問の理由は、聖パウロのマルタ漂着1950周年祝賀行事参加とのこと。世界でも有数のカトリック国であるマルタ国民が、信仰の強さを再確認し、キリスト者としてのアイデンティティーと価値を、豊かに生きるよう励ますことが主目的。

 しかし、世界中で教会の性的虐待への対応が問題にされている中だから、マルタの性的虐待被害者達と面会し、教会は全力を尽くして、加害者達に法の裁きを受けさせ、青少年の虐待を防止していくことを約束した。被害者達は教皇との面会に喜び、あるひとりは「大きな重荷から解放された気がして、自らの信仰と和解できたように思う」と話した。と書かれている。

 同日付の別紙面には「性的虐待の調査手順・審理方法・罰則など」「バチカン、非難報道に対応」「手続き公開」との見出しで、ネット上に性的虐待嫌疑の取り扱いについての手続きを要約して掲載し、児童保護と加害者処罰への教会の強い姿勢を示している。との記事も掲載されているから、真剣に取り組んでいることは間違いないだろう。

 教皇を迎えた市街では、若者たちが大きなバチカンの旗を打ち振り、信徒数万人が街頭に出て、教皇に声援を送った。とも書かれている。
 カトリック国の国民性は、日本にいては想像できない面がある。
 日本で数万人が街頭に出る行事は何かと考えたが、すぐには思いつかない。甲子園優勝チームを迎える地元市民とか、全国的にも有名になった「○○祭」の見物人くらいしか思いつかない。少なくとも宗教的行事では数万人規模は無理だろう。

 性的虐待の暗い影によって、教皇を迎えたマルタ国民の熱意が冷めることはなかった。と書かれている。彼らは虐待問題をどう捉えているのだろうか。司祭の中にも色々居る。まれには虐待をしてしまうような司祭もいるだろう。と、寛容に捉えているのか。
 まさか、虐待はウソで、誹謗中傷だとは捉えていないだろうが。

 寛容に捉えているならば、それはそれで良いことだと思う。司祭も人間だから、人間的弱さとして、虐待をしてしまう場合もあるだろう。それは司祭全部ではなくごく一部であり、教えの問題ではないのだと理解しているならば立派だと思う。信者だからと盲信せず、自分の信仰は左右されないことがベストの選択だから。

 教皇のマルタ訪問で、マルタの性的虐待問題は沈静化するだろうが、ドイツではどうだろうか。教皇の出身地であり、虐待問題が起きた当時に、教皇自身が指導的立場にいたようだから、余計に問題は深刻だと思うが。
 今後ドイツも訪問して、自身の指導力も含めて話をする必要があると思うが、それはいつになるのだろう。遠い所は手をつけて解決に向かわせたが、足下は後回しにしているのだとしたら、正面向いて解決に取り組んでいるとは言い難くなる。
 早く、解決を知りたいものだ。

2010年4月28日(水)
障害者運動の新たな出発

  障害者自立支援法訴訟の和解後、新たな運動を始めることは知っていたが、訴訟和解で支援体制そのものは終了するのかと考えていた。
 しかし「基本合意の完全実現をめざす会」を結成したとのニュースを見つけた。

 「めざす会」の略称で、結成集会も開いたとのニュースに「さすが。障害者団体」と思った。集会には、原告、家族、支援者、弁護氏ら290人が詰めかけたとのこと。
 何十年来もの障害者運動の積み重ねの中から「たとえひとつの要求が通っても、それが定着するまでは力を抜いてはいけない。力を抜いたら要求の実現はすぐに後退する。確実に通るまで、通っても日常的な監視によって後退させない努力が必要だ」という教訓を生み、それを生かしている。

 訴訟の勝利をめざす会の共同代表者のひとりが「これで闘いが終わったわけではない。国の障害者制度改革推進会議で『総合福祉法』の部会も始まる。障害者が地域で生き生きと暮らすことを支える仕組みを作る、新たな闘いの第一歩。今後も力を合わせ、国に向けて粘り強く声を上げていこう」と呼びかけた。と書かれている。

 東京地裁の最終弁論に立った原告の家平さんは「応益負担を今すぐにもやめさせること。この国の福祉制度は、家族による介護を前提にしているが、障害者が個人として生きる権利を絶対に獲得する決意だ」と力を込めた。とも書かれている。
 成人した者であれば、子どもの立場で親と同居し、親に面倒見てもらうなどということは通常はあり得ない。しかし、障害者ということで、親に面倒見てもらうのが「当たり前」になっていた。これでは、障害者はいつまで経っても「一人前」としての扱いはされない。

 「人権を守るとは、その人らしく生きることの保障」であれば、障害を負っていても、おとなとしての生活がなければならないだろう。「障害を負ったのは、本人や家族の責任だから、我慢しろ」とは、さすがに言わなくなったご時世だとは思うが、結果としては「本人や家族」に責任を押しつける処遇をしている。
 障害を負ったことは、本人や家族の責任ではない場合が殆どだし、100歩譲って本人や家族にも責任のある場合があるとしても、だから本人や家族に押しつけておいて良い、ということにはならないはずだ。

 もし、本人や家族の責任だから何もしなくて良いということになれば、医療や介護のすべては必要ないことになる。たとえ交通事故にあって障害を負った場合も「そんな所に行くから悪いんだ」と言えなくはない。
 100%本人に責任が無い場合などあり得ないのではないか。病気のほとんどは、本人や家族に多少の責任がある。生活習慣病などは、7、8割方本人の責任だと言えなくもない。それでも医療の保障がされている。
 障害を負う場合は、生活習慣病などとは比べものにならないほど、本人に責任はない。しかも、誰もが障害者になりうる条件はあるのだから、もっと自分の問題として考えてもらいたい。そのためにも「めざす会」の意義は大きい。 

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2010年4月24日(土)
「子ども」が子育てする怖さ

  「虐待阻止困難さ浮き彫り」「めだたない腹部」「安全知識を悪用」などの見出しに「なんのこと?」と目を留めた。
 「虐待」との文字からは「幼児虐待」「子ども虐待」だろうと見当はついたが「めだたない腹部」「安全知識を悪用」が「?」だった。

 幼児の虐待事件で、親や同居人らを逮捕して調べた結果、傷がめだたない腹部の圧迫や身体の揺さぶりなど、虐待の手口が巧妙化しているのだとのこと。揺さぶりなどは防止のためのネット上の知識が悪用されていたらしい。
 「虐待は犯罪である」との知識は持っているのだろう。だから、見つかりにくい腹部への虐待などという「新手」の方法を思いついたのだろう。自分が罰せられるリスクは回避し、イライラのはけ口としての虐待はしていたという、どうにもやりきれない状況が広がりつつあるらしい。
 犯罪であるという認識は持ちながら、自分の感情をコントロールできずに虐待してしまう「肉体的にはおとなで、精神的には子ども」が増えてきたのだろうか。

 逮捕者は、逮捕時19〜27歳と「若い親」が多かったとのこと。虐待防止活動団体の事務局長は「小さい子どもに接する機会のない若者が、突然親になるのは難しい」と指摘している。
 少子化社会で、一人っ子、二人っこくらいだから、育ちの中で小さい子どもと接する機会が殆ど無いのが現状。テレビの中の乳幼児は殆どがニコニコしていて、おとなの「ペット」的存在であることが多い。夜中にぐずるとか、かんしゃく起こすなどということは、イメージできないかもしれない。そんな中で、我が子とはいいながら「面倒な存在」である乳幼児にどう接していくかは難しい課題だ。

 高校生が保育園に行って体験学習している映像を、ニュースで見たことがある。「何をわざわざ・・・」と思ったが、虐待の記事を見て考え直した。中・高校生にはカリキュラムの中に必修として「育児」を入れるべきと。
 今でも「家庭科」の中には「保育」があるはずだが、いちいち体験学習などしていられない授業時数の関係があり、ほとんどの学校では教科書で学ぶだけで終わっているだろう。それでは「生きた授業」にはならない。時間を取って、体験学習をさせるべきだ。

 いくつで親になるかは「自己決定」だから、とやかく口を挟む問題ではないかもしれないが「若い親」に様々な問題が起きてくることは、ある一定の年齢にならねば親になるのは難しいことの証明だと思う。
 「ヤンママ」はシングルマザーになりやすい。若者達の「できちゃった婚」「できちゃった出産」は、離婚率が高い。など、成長途上での結婚、出産で親になってしまうことは、もっと考えられていい問題ではないか。自分を成長させねばならぬ年代で、子どもの成長を支える存在になるのは至難の業と思う。

 安易な「中絶は悪 出産は善」のような風潮が広がることも警戒したい。
 しっかりしたセクシュアリティを育てるためにも性教育は欠かせないのに、学校教育から「科学・自立・人権・共生の性教育」を排除してしまった。時の為政者は、どう責任を取るつもりなのだろうか。

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2010年4月24日(土)
ビラ配布は今後も続く

  ビラ配布で有罪が確定した「ビラ配布弾圧事件」の荒川さんを支援してきた「ビラ配布の自由を守る会」が終結集会を開いたとの記事を見つけた。
 ビラ配布では、国交法弾圧堀越事件の堀越さんが、高裁での「無罪判決」を勝ち取った。堀越さんも、最高裁では荒川さんと同様に有罪になるのだろうか。何しろ日本の裁判では、地裁で無罪になっても、高裁、最高裁と進むに従がって有罪になるケースが殆どだから。

 終結集会を開いたということは、今後荒川さんの問題は、彼だけの個人的な活動に委ねられるということになるのか。
 最高裁で決定したということは、日本国内では裁判では闘いようがなくなったということで、だからこそ終結するわけだから「個人的な活動に委ねるのか」などと、何をくだらないことを言うかと言われてしまうだろう。

 しかし、荒川さん自身は「この判決の誤りを訴えるために、全国を行脚します」と報告している。元々お坊さんだそうだから「行脚」には慣れているかもしれないが、それにしても、全くの個人でやり続けることは困難だろう。
 人権侵害された個人が、国連自由権規約委員会へ直接救済を申し立てることができる「個人通報制度」は、日本国はまだ批准していない制度で、弁護士が「批准を求めて政府に働きかけたい」と述べている状況。荒川さんの今すぐには間に合わない制度だと分かった。いつ批准されるのか、それも分かっていない不確かな制度で、ひとりで何とかすることは不可能に近い。

 「不当判決は通用しないことを思い知らせるために、この事件を映画にしたい。世界の人にも見てもらいたい」との発言が、映画監督の世話人からあったと書かれている。
 映画を作るとなれば、またまた金がいる。監督が大金持ちで、道楽のように映画を作れる身分の人ならば、実現性は高いが、実行委員会を立ち上げて、金を集めて、人を集めて・・・ということになると、これもなかなか右から左には事が運ばないと予想される。

 正義を貫くためには、地位も金も捨てる覚悟で臨まねばならぬ国とはなんなのか。
 何をするにも壁が厚くて、やっとの思いでその壁を取り払えば、またすぐ前に別の壁が立ちふさがる。「権力」に立ち向かうということは、そういうことなのか。
 「長いものには巻かれろ」の考え方で生きていく方が、楽で楽しい生き方だと思うことがある。しかし、そうしないのはなぜなのか。「この生き方ではなく、あの生き方が良い」と理屈では分かっていても、それができないのはなぜか。
 この生き方でなく、あの生き方をしてしまうと、自分が自分でなくなる感じがして恐ろしい。それは理屈の問題ではなく、魂の問題だと思う。
 荒川さんも魂の問題として、納得できないから闘うのだろう。

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2010年4月19日(月)
"おかま"とはなんぞや

  「"おかま"演出に差別が」の大きな見出しと「テレビの中の性的マイノリティ」「性の多様性を尊重し」「誤りは鵜呑みにせず意見を」などの見出しに「何が語られているか」の想像はついたが、念のためと読んでみた。
 
 東京で講演した三橋さんご自身が性的マイノリティ当事者とのことだから「当事者の発言」として、説得力のあるものだし、研究者の立場での発言だから、なおのこと理論的で説得力が増している。
 しかし、内容そのものは10年以上前に学習し終わっている事柄が殆ど、目新しいこととしては「大学生の3割くらいが、テレビの影響で『ゲイ』も『トランスジェンダー』も同類だと思っていた」ことくらいだった。

 ゲイに比べると「障害」という名称がついているからか「性同一障害」については「市民権」が得られてきているようにも思う。「日本のメディアにはレズビアンや、女性から男性への性別移行者が登場しない」との指摘にもあるように、確かに「男性から女性」への移行者しか出てこないが、それでも堂々と出られるようにはなりつつある。

 ゲイについてはまだまだ「笑われてもいい、差別していい存在」になっていると思う。それでも「ゲイだ」とカムアウトしてのタレントや有名人は多くなってきた。
 芸能人に多いのは、実力主義で登場しやすいからだと聞いたことがある。
 歌手には在日の方が結構多くいるとのことで、この場合も実力で勝負できるからだと聞いている。
 背広着ているゲイや、スーツ姿のレズビアンも多数居るはずだが、その方々は殆どカムアウトしていないと聞いている。カムアウトしたら、仕事をはずされたり、評判を落とされて仕事に差しつかえが出るからだとのこと。

 私が子どものときには、左利きは差別の対象だった。以前書いたと思うが、私自身が差別者のひとりだった。「ぎっちょ ぎっちょ」と笑いものにした苦い記憶がある。
 今は全く差別はないと思う。子どもたちに聞けば「何で差別なんかしたのか」ということになる。
 左利きについての「研究」も今はされていないだろう。そのことが「当たり前」であれば何も「研究」などしない。それが直すべき問題であるからこそ「研究」の対象になる。 「ガン」の研究「障害」の研究などをみれば、それが明らかになると思う。

 ゲイやトランスジェンダーも、今はまだ「研究」の対象になっている。なぜゲイになるのか、なぜトランスジェンダーが生まれるのかと。
 「研究」などされず「それがどうしておかしいの。どうして差別するの」という時代が早く来てほしい。私の目の黒いうちにそうなってほしいと思うが、果たして実現するだろうか。日本人は弱い立場の人間を差別したがる「民族性」を持っているから。

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2010年4月16日(金)
懲りないミドリ十字またもや

  「田辺三菱製薬」という名前からして「合併」見え見えの会社の子会社「バイファ」が血液製剤データ改ざんとのニュースに「もしや・・・」と思って読んでみた。
 今回のデータ改ざんは、承認申請に必要な試験データの改ざんだったとのこと。'08年5月に田辺三菱が販売を開始したので、田辺三菱が「業務停止」の処分を受けたが、製造はバイファ社とのこと。

 もしや・・・と思ったのは、血液製剤データとの見出しに「血液製剤ならば、ミドリ十字が絡んでいるのでは」との疑念から出たもの。
 思った通りだった。読み進めると「1980年代初頭から、薬害エイズ事件や薬害C型肝炎訴訟の被告企業、旧ミドリ十字が開発」と書かれていた。しかも「バ社では計20人が不正に関与し、設立当初から違法行為が組織的に繰り返されていた」といいます。とも書かれている。

 ネットで調べたら、ミドリ十字は、旧731部隊関係者によって設立され、薬害エイズでさんざんたたかれて、とうとう会社が倒産し、当時の厚生省官僚が天下って「三菱ウェルファーマ」という社名で復活したが、それもうまく行かず「田辺三菱」と合併したとのこと。731部隊関係者にとっては、データ改ざん、人体実験は「お家芸」のようなものなのか。

 薬は、本来病気を治すために使用されるべきもの。薬を提供する会社のポリシーは「人命救助」「病人の救済」にあるべきもの。
 731部隊は、元々「細菌兵器」を作って「敵を倒すこと」が目的の部隊だったから、そこの関係者のポリシーに「人命救助」や「病人の救済」があるはずがない。殺すための薬品製造と、人命救助の薬品製造が両立することなどあり得ない。大きな矛盾になる。

 にもかかわらず、製薬会社を設立したのはなぜか。「利益の追求」しか考えられない。弱い立場の病人をいいことに、自分たちの利益を得ようとする。そのためなら「危ない薬」を作ることも平気、データ改ざんなど朝飯前。ということになるのだろう。
 
 製薬の精神を持たない輩になぜ製薬会社の設立認可ができるのかが次なる疑問。ミドリ十字がエイズ関連で不祥事を起こした時点で、関係者に「今後製薬会社と関わることはまかりならん」との「お達し」は出せなかったのか。
 厚労省の「お役人」との「癒着」ができているから、名前さえ変えれば、看板さえ掛け替えれば、次々と同様の会社で同様の不正をして行かれるのか。

 「法律上・・・」という答が返ってくるのは分かり切っている。しかし、法律とは塀の上を歩く人間を、なんとか塀の中に落とそうとするためのものだ。塀の上など歩かせないようにすることが必要ではないか。すなわち「法律に触れなければ何をしても良い」との風潮を何とかしない限りは、今後も同様の不正は必ず起きるに違いない。
 以前書いたが、英語には「sin」と「crime」がある。法律上の罪だけでなく、道徳上の罪にも厳しい国にならねば真の「文化国家」ではない。3等国の状況のままだ。「世界の常識、日本の非常識」にならないでほしい。

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2010年4月14日(水)
障害者は「新法」を待てない

  「新法まで待てない」「障害者の医療負担を軽く」「現場の声 政府に 障全協総会」の見出しが目に留まった。
 「障全協」の現会長吉本氏とは以前面識があり、今でも賀状の交換をしている。面識のあった当時は事務局長だった。80歳になられたとか、越えられたとか聞いている。それでもまだ障害者問題に関わっておられることに敬意を表したい。

 障害者自立支援法に変わる「新法」ができることは、すでに周知の事実で、これが後退することは考えられないし、もし後退するようなことがあったら、許されることではない。 しかし、障害者に関わる医療施策は、現在原則1割負担のままになっているとのこと。障害者施設の食費・光熱費の自己負担も残ったままになっているとのこと。「新法」が3年先をメドにと進められているとすれば、その間ずっと負担は続くことになる。

 「3年先に立て替えるから、雨漏りがひどくても、床が抜けていても、窓が壊れて寒風が吹き込んでいても、風呂に入れなくても、後3年は辛抱してくれ」と言われたら、どう答えるだろうか。
 少々のすきま風、バケツや洗面器を当てればしのげる程度の雨漏りなどであれば「後3年だから辛抱しよう」ということになるかもしれない。
 しかし、その間ずっと風呂に入れない。雨が降ると寝てもいられない状況でも「後3年だから・・・」と言っていられるだろうか。

 障害者にとっては、医療は生存の絶対的条件ともなっている。健常者には何でもないただの風邪でも、障害者にとっては命取りになる場合もある。医者にかかる割合はずっと高くなっているはず。たかが1割負担ではないか。国民誰でも負担しているのだから甘えるな。などの声があるかもしれないが、医療費が生活を圧迫する現状を見ての言葉なのか。
 障害を負ったのは断じて「自業自得」ではない。歴史的に作られた場合、医療進歩の途中段階としての不充分さから、科学の進歩が中途半端である事など、人類進化の歴史途上での犠牲者、と言っても良い存在が障害者と言える。

 障害者の存在が、文明の発展を促している面もある。障害者は決して「社会のお荷物」ではない。障害者の存在こそが社会発展の原点だと信じている。
 障害者に優しい社会は、誰にも優しい社会と言われている。それは単なる「標語」ではなく事実だ。
 医学の進歩は、障害者医療から進められた面がある。エレベーター・エスカレーターから野菜の皮むき器に至るまで、障害者の移動や生活を支援する目的で始まった施設設備、用具の開発が、健常者に大きな恩恵をもたらしている例は枚挙にいとまがない。

 障害者を大事にすることは、社会の進歩発展を願う者としては当然の事、という考え方を持ってもらいたいものだ。特に政治にはその視点を望みたい。
 「3年辛抱せよ」などとケチなことを言わず、できることは今すぐやってもらいたい。 

2010年4月13日(火)
男の記憶力とはどんなもの?

  夫婦関係を問題にする場合によく出されることに、男と女の「記憶力」の差や違いがある。男は全く覚えていない、男にとっては些細な問題を、女はいつまでも覚えていて「あの時こうだった」「この時にこう言った」などと追求されて、お手上げ状態になる。女の記憶力は男にとって大迷惑だ。と言うような調子だ。

 男の記憶力がどんなものかについては、余り書かれたものがないように思う。特に夫婦間で、夫の記憶力で妻が迷惑しているという類の発言はあまり聞かない。実際にはあるのだろうし、発言もされているのかもしれない。たまたま私の目に留まったり、耳に残ったりしていないということにすぎないのかもしれないが。

 先日息子宛に来た「父親」からのメールを、息子が転送してきた。「お父さんが書いてきたメールが、支離滅裂で理解できないから、お母さんが読んでみて」との添え書き付きで。
 すでに「過去の人」からのメールなど読みたくはなかったが、息子の頼みとあれば致し方ないと思い、仕方なく読んでみた。

 思った通り、読み終わって「不愉快」だけが残った。全くの自己中心の論理展開と、事実の歪曲・誤認は、反論する気も起こらない程の「お粗末さ」だった。「支離滅裂」と表した息子の言い分も、あながち誇張とは取れないほどだった。

 中でも「金」に関する事実誤認は、悲しいほどの哀れさがあった。自分が受け取った金を「受け取っていない」と抗弁している。抗弁でないとすれば、完全に「記憶違い」であるのだが、5万、10万という額でなく、300万、500万という額の金を受け取っているにもかかわらず、受け取っていないと記憶しているとしたら、これはもう「認知症」の始まりとしか思えない。そういえば7、8年前、脳神経科の診断をしてもらったときに、少し前頭葉側に萎縮が見られるとの指摘があったから、いよいよそれが進行しているのかもしれない。「今すぐどうということはないけれど、注意して見守る必要があります」と言われたが、その後の経過を見守っているかどうかは不明だから、進行していないとは言いきれない。

 自分に都合の良いことは、事実を事実として認識し、これこれだから大丈夫だと書いている。「まだらボケ」にはそういう面があるのではないかと思ってしまう。
 まだらボケになろうが、認知症になろうが、こちらに責任が及ぶことはないから、いちいち気にする必要はないが、金には執着しているようだから、その点の記憶ははっきりさせてもらわないと困る。将来的に何度も言い出されて、そのたびに説明しなくてはならないのは、時間もエネルギーも無駄遣いになって、こちらの損失が大きくなる。
 
 女の記憶は、自分に都合の良いことだけの記憶ではないと思う。自分に都合悪いことの記憶もたくさん持っている自分自身からの類推だが。
 男の記憶力は、自分に都合の良いことだけを記憶しているとしたら、世の中随分不公平になる。

2010年4月10日(土)
ツッパリばあさんも恩師には脱帽

  行きたいと思いながらなかなか行かれなかった恩師宅を訪ねた。
 高校時代の部活顧問の先生だから、御歳80になられた。しかも、数年前に口腔ガンを発症され、片頬を摘出されたので、咀嚼ができず流動食しか取れない状況になっておられる。失礼ながら「骨川筋男」になっておられるのではと心配していったが、以前と全く変わらないお姿だった。顧問をしておられたときから、小柄で細身の先生だったから、変化がはっきりされないのかもしれないが、流動食だけとは思われない肌のつやもあった。最近の介護食や栄養学の進歩を実感した。

 漢文を専攻された関係で、中国には何回も行かれている。流動食になってしまわれたにもかかわらず、昨年14年ぶりに北京に行かれたとのこと。北京ダックもクラゲもコイもダメだったが、いざとなれば麻婆豆腐や中国粥を食べ、持参した介護食も利用して、連れて行った中学生達と、1週間近く滞在して来たとのこと。
 
 人間の生命力は食に基づいていることは確かだが、どれほどの量食べなくては生きられないという数値は、間違っているのではないかと考えてしまう。
 テレビなど、特にCMでは、これを食べないと元気にならないような調子で、食べ物の宣伝をしたり、サプリメントの宣伝をしている。
 しかし、必要最低の栄養をとっていれば元気でいられるという「最低」は、年令によっても違ってきて当然だろう。
 高齢になればなるほど、少ないカロリーで良いのだという説も聞いている。白寿に近いのに大活躍しておられる日野原医師もそのひとりで、テレビで見る限り「それで良く生きていられる」と思ってしまうような量しか食べていなかった。

 恩師もそれに近いカロリー摂取ではないかと思う。それでも中国には行く。毎週のいくつかの会議はこなしている。執筆もする。資料整理もする。あれもする。これもする。と、殆ど現役に近いスケジュールで毎日すごされているようだ。
 現職を退いた後も、次々仕事を依頼されて、ぼんやりする暇もなく80歳まで来てしまったということかもしれないが、それにしてもずっと現役で毎日暮らしていたのではなく、入院手術という生活が何回かあった。リハビリも必要だったようだ。それを経験しながら「一病息災」どころではなく「数病息災」という「新諺」を作るようにして、お元気で活動されている。

 先生の話を聞くと、医学の進歩が寿命を延ばしていることがよく分かった。3歳で腸閉塞になったとかで、その時すでに死んだかもしれない命だから、その後は今日まで「余生」だなどと冗談交じりに言われていたが、確かに手術ができないときならば亡くなっていただろう。その後も色々病気をされ、そのたびに手術で命を取り留めている。医学の進歩は日本の平均寿命の更新に一役も二役もかっていることを実感した。

 医学は、寿命を延ばすことには貢献しているが、先生のように80歳になっても活躍できるかどうかという点では、何もできないように思う。
 息をしているだけにするか、充実して生きるかは、本人の努力によるのではないか。
 先生自身の努力にたいして脱帽だ。模範とすべき師である。良き師を持って幸せだと思った。

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2010年4月3日(土)
マンホールの青春に解決はないのか

  ルーマニアには、マンホールで生活している10代後半から20代後半の若者達がいるという記事が目に留まった。日本とは下水道施設が違うから考えにくいのだが、マンホールチルドレンについては、ルーマニアだけでなく、以前モンゴルにもあると読んだ覚えがある。

 日本ではマンホールチルドレンが居るというニュースは聞いたことがない。日本のマンホールは、中に人が生活できるほどの空間がないからかもしれないと思う。都市のインフラ整備による地下集中施設などが増えれば、日本でもマンホール生活をするホームレスが出てくるのかもしれないが、今のところは聞いていない。代わりに地下鉄関係の施設や、地下通路などに生活しているホームレスはいる。

 ルーマニアでは、チャウシェスク独裁政治時代に「産めよ殖やせよ」政策があり、貧しい家庭で子どもが捨てられ、養護施設を逃げ出して路上で暮らす子どもが増え、マンホール生活の若者が出てきたのだとのこと。
 写真の若者は、都市暖房用の太い温水パイプが通る、メンテナンス用マンホールのひとつで寝起きしているとのこと。なかでは男女8人が生活していて、天井の低い空間には刺激臭が充満しているが、氷点下20度まで下がるブカレストの冬の夜でも、パイプの放熱で適度に暖かいから、凍死もせずに暮らしていかれるらしい。将来への希望もなく、ヘロイン注射が手軽な楽しみだとのこと。駅で財布を盗んだり、物乞いしたりして注射代を稼いでいるらしい。彼は窃盗罪で4年間服役した経験もあるとのこと。「市民は僕らを嫌うが、他に行く場所もない」という。

 「チャウシェスクの死から20年経ったが、青少年の問題は解決されていない」と、ホームレスの若者の更正に取り組むNGOメンバーは強調する。と書かれている。
 写真の若者も、家出をしてすでに8年間もマンホール生活をしているという。若者には教育の機会もなかっただろうから、仕事に就くのも難しいのだろう。若者だからすぐに仕事が見つかるというわけではないのだろう。ルーマニアにそういう暗い面があるとは知らなかった。独裁政権が倒れて、めでたしめでたしではないのだ。
 
 日本でも、マンホール生活に似たような、路上生活を余儀なくされる若者が増えている。ルーマニアよりましなのは、子ども時代からの路上生活で、読み書きもできないという状況ではなく、中学卒業程度の学力は付いている点くらいで、仕事がないから路上生活になっている点では同じだ。
 資本主義社会では、企業に入らなければ給料がもらえない。企業が不景気だからと、簡単に解雇できるシステムでは、ホームレスになる危険性は常にある。

 ルーマニアの場合だけが「時代の犠牲」ではなく、現在の日本でも、ホームレスになる若者は「時代の犠牲」だと思う。盗みにクスリとすぐにならないのは、子ども時代につけた「学力」のたまものだろう。そうでなければ、盗みやクスリがもっと増加しているに違いない。企業は社会的責任を自覚して、人を物のように使い捨てにしてほしくない。

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2010年4月1日(木)
沖縄の米軍は本当に必要なのか

 沖縄の普天間基地問題は「3月末までに・・・」と言われていながら、またまた延びている。5月中に決着しなければ退陣もあり得るとか言われているが、どうなる事やら。
 それにしても、エイプリルフール記事かと思うような、とんでもない記事を見つけた。3/22づけという少し「旧聞」の記事だが。読んでみて、今までも言われていたことではあるが、こんなにはっきりしているとは思わなかった。

 アメリカの下院外交委員会の小委員会公聴会で、国防総省の副次官補が「沖縄は戦略的に重要な位置にある。災害対策しかり。それ以上に深刻な事態に対してもしかりだ」と証言すると、小委員長に「インドネシア・アチェの津波では、沖縄以外からも迅速に対応できた」と反論されてしまったとのこと。
 対中強行派議員が「中国脅威論」で、在日米軍基地の正当化を図ろうとしたが、国務次官補が「日本は中国の台頭によって脅かされてはいない」と否定してしまった。
 外交問題評議会の上級研究員は「米軍は受け入れ国とその国民の求めに応じて奉仕しているのであって、もし海兵隊の撤去を求められれば、海兵隊は出ていく必要がある」とまで述べている。書かれている内容が真摯な取材によるものであれば、日本国内での議論とは180度違うことになる。

 日本での報道では、アメリカ軍の沖縄駐留は、絶対に必要なことであって、基地もキャンプシュワブ案しか受け入れられないようなことになっているが、アメリカ議会でのやりとりでは、県外移設どころか、撤退することも可能のような回答だ。
 アメリカ国内では、どうしても居座らねばならぬ状況ではないのに、日本への言いぶりでは居座ることが、既成の事実のようになっている。どうなっているのか理解しがたい。

 どこで、誰が、国内向けと日本向けの違いを作っているのだろうか。それによって誰がどう利益を得ているのだろうか。利益が絡んでいなければ、メンツだけの問題なのか。誰のどんなメンツのために、沖縄県民の気持ちが踏みにじられているのだろうか。実際には撤退しても良いのに、どうしても必要だと日本向けには言っている根拠は何か。日本はアメリカの言うことを、どこまでハイハイと聞くかを試しているのだろうか。

 以前読んだ『戦争中毒 アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由』には、ブッシュ政権時代のアメリカでは、兵器産業関係者が政治の中枢にいるから、戦争を止められない状況があるのだと書かれていた。あっちの戦争、こっちの内戦、と次々に戦争に関わり、ひとつの戦争が終わる頃になると別の戦争を始める。その結果、国内が戦場になることはなかったが、第2次大戦以後、ずっと戦争をし続けている国になっている。戦争をしていることが当たり前になっている国がアメリカなのだ。そんな内容の本だった。

 いくらなんでも何十年も戦争をやり続けてきては、戦争を止めたいと思うようになるだろう。できれば外国での駐留などという金のかかることは止めにしようと思うだろう。
 今がチャンスだ。沖縄の米軍は撤退してもらえばいい。アメリカの世論がそれでひっくり返る騒ぎにはならないだろうから。

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