ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年3月31日(水)
ビラ配布 高裁では無罪判決

 当然と言えば当然の結果が出た。
 東京高裁は、公務員の政治的行為の制限違反として、元社会保険庁職員だった堀越さんの控訴審判決
で、一審の有罪を破棄し、逆転無罪を言い渡した。
 国家公務員といえども、休日に私人として職務に無関係に、公務員であることを明かさずに行った行為にすぎないから「国の行政の中立的運営と、それに対する国民の信頼確保を侵害するとは常識的に考えられない」と認定した。と書かれている。
 また「被告を処罰することは、国家公務員の政治活動の自由にやむを得ない限度を超えた制約を加えたもので、憲法21条などに違反する」と結論づけたとのこと。

 

マンションへのビラ配布では、荒川さんの裁判で最高裁判決が有罪となっていたから、今回はどうかなと気にはしていた。荒川さんの場合は、住民からの通報によるものだったが、今回は公安警察の違法捜査による、日本共産党の活動弾圧の目的でのでっち上げだった、とも書かれている。
 堀越さんの有罪を立証するために、捜査員を何十人も動員し、何時にどこへ行って何をしたという尾行による調査を、何日間にも渡って行ったとのこと。市民としての自由の侵害になるような、違法行為の末の一審有罪だったのだから、逆転無罪になったのが「世間の常識」にあっていると思う。

 マンションへのビラ配布については、荒川さんの裁判に関しての日記で「不動産屋の広告でも、ピザ屋の広告でも違法行為ということになってしまう。また、そうしなければ『言論の自由』を侵害する行為として、警察側が提訴されることになるのではないか」というようなことを書いた記憶がある。
 政党ビラは配布してはいけない。広告ビラは配布しても良い。などという法律を作るとしたら、それは民主主義の破壊になってしまうことは、特に革新ではない人にも理解されることだろう。法律に基づかず、それを敢えてやったのだから、公安警察は信頼できない存在に思われてしまう。
 

多分、検察は最高裁に上告するだろう。メンツがあるから負けることが分かっていても、最後の最後まで粘るに違いない。「表現の自由は民主主義の政治的基盤を根元から支えるもの」との画期的な格調高い判決が出ているのだから、最高裁は何を根拠に有罪判決が出せるのか分からない。しかし、国民の法意識にはっきりした根拠が示されていないため、裁判官次第ということになってしまうから、客観的な判断が必要だとの憲法学者の意見が載っているところを読むと、最高裁の裁判官が国民の側を見ているか、政権の側を見ているかによって、判決が変わる可能性はあるようだ。検察側はそれを期待して上告するのだろう。

 裁判は公平中立であると信頼するのだが、事と次第では全くそうでない状況が出てくる。なさけない国だと思う。

2010年3月28日(日)
和解は終わりではなく始まり

 埼玉の「自立支援法訴訟」が和解したとの記事を見つけた。訴訟は全国で取り組まれ、次々和解に至っている。政権交代の効果が出たと言えることがらとも思う。
 民主も自民も似たもの政権で変わりのないことが、日々思い知らされるこの頃だが、障害者関連では、いくらかの変化と前進があると思える。

 民主政権が「自立支援法に変わる新法を制定する」とし、そのための会議も招集されたのだから、和解をしても当初の目的は達成されたことになる。損害賠償とか何とか言い出すと、裁判が長引き、せっかく始まろうとしている新法制定の作業にも支障がでないとも限らない。和解が賢明な選択だったのだろう。
 裁判費用や運動の費用など、経済的には難しい問題もあっただろうが、それについてはぐっと飲み込んで和解に応じたのだろう。

 今後は「"国の実行"を監視する」との原告の言葉がある。「運動はこれから」とも考えられている。
 確かに、国が和解で述べた「合意」を履行するかどうかの監視は、怠ってはならない。手を抜けばすぐに戻ってしまったり、進んでいなかったりするのが「お役所仕事」だから、厳しい監視が必要だ。その意味では、終わりではなく始まりだとも言える。

 今後どんな運動を展開するのかは語られなかったらしい。それとも紙面の都合で書けなかったのか。
 いずれにしても、全国で展開された訴訟が全て和解で終了したのだから、訴訟に関わった原告、支援者、弁護団で何らかの組織を作り、今後の方針を決め、活動を続けていくのだろう。
 さいたま市で開かれた「報告集会」には320名もの支援者が集まったと書かれている。他地域での支援者を合わせれば、優に数千人という支援者になるだろう。その人達が今後も関心を持ち続けて支援の輪を縮めず、活動に参加していけば、きっと障害者自身の望む新法が制定されるだろう。

 マスコミも「これで終わり」にしないで、経過を報道してほしい。新しいニュースに追いまくられているから無理もないとは思うが、すぐに忘れ去ってしまうような報道だけはしないでほしい。障害者が幸せに暮らせる社会は、健常者にとっても暮らしやすい社会のはずだから。

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2010年3月27日(土)
知的障害児の証言は有効

 千葉県浦安市で、特別支援学級の担任が、6年生と4年生の知的障害女児に、わいせつ行為をした裁判で、犯行の事実をはっきり証言できれば、犯行日時などがあいまいでも罪に問える、との高裁判決が出たと報道された。

 刑事裁判では、犯行日時などがあいまいだから、少女らの証言は信憑性に欠けるとされ、被告の担任は無罪になっていた。しかし、民事では知的障害を持つ少女の特性を考え、積極的に事実認定をした点で、画期的な判決だった。
 弁護団は「同じような被害に苦しむ障害者に意義ある判決」とたたえた。と書かれている。

 学級担任が児童にわいせつ行為をしたとの事例は、残念ながらいくつも聞いている。以前は障害児学級と言われていたが、知的な遅れや自閉的傾向などを持つ障害児が学習する場で、安心して生活できるはずの学級内で、担任からのわいせつ行為を受けるなど、許されることではないのだが、殆ど「泣き寝入り」している状況だった。理由は「犯行の日時を明確に認定できない」との壁だった。特に刑事で争おうとすると、殆どが無罪とされていた。

 障害児や障害者に関わろうとする「いい人」と思われがちな男の中に、実は「やっても罰せられないから大丈夫」と考える不埒者が残念ながら居る。
 以前は、会社の社長が従業員の女性にわいせつ行為をした、というので捕まった例もある。教師、社長、相談員、介護士、看護士、医師、僧侶、などなど、社会的にはそれなりの地位があり、表向きは「真面目」とか「熱心な人」とか言われている男の中に、不埒者が紛れ込んでいる。誰がそうなのか、見かけだけでは全く判断が付かない。

 今回のような判決が出されると「罰せられないから大丈夫」と、うそぶいていた男たちが、いくらか顔色を変えるのではないかと期待する。「やるとヤバイぞ」ということが分かれば、いくらかは自重するだろう。
 この判決がずっと前に出ていれば、泣き寝入りせずに済んだ障害者が、たくさん居るのではないかと思うと、残念でならない。今後はこれを判例にして「泣き寝入り」が無くなってくれることを期待する。

 男社会がいくらか変わってきたことの表れだとも思う。裁判官は女性で、弁護士も女性だと名前から推測した。
 男の裁判官だったら、判決が違っていたかもしれない。女にもスキがあるからだなどという「男の論理」で判決を考えるかもしれなかった。
 女性の視点で考える判決を大事にしてほしい。

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2010年3月27日(土)
街頭募金に気をつけようと言われると・・・

  核兵器廃絶に関するNYでの会議に向けて、街頭での署名・宣伝活動を続けている。私自身は、時間の合うときに時々やるだけだが、殆ど毎週のように活動している仲間もいる。公的援助などいっさい受けていない市民活動だから、当然カンパのお願いもしている。

 そんな立場で気になるニュースを見つけた。ちょっと古い記事でニュースとは言いがたいが。
 「偽の街頭募金は詐欺」とのタイトルの記事。「偽」に引っかかったのだ。「我々のカンパも『偽』と思われて、してもらい難くなるのではないか」との心配。

 記事では、難病の子どものための募金と称して、偽の募金を集めた被告一人に対する判断のようである。難病支援名目で街頭募金を集めた被告に「詐欺罪」が適応され、懲役5年、罰金2百万円が最高裁で確定したとのこと。担当裁判官4名の全員一致で、個々の被害者が特定できなくても、通行人に連日決まった働きかけを継続したのは詐欺に当たると認定したとのこと。

 悪知恵の働く奴が居るもので、通行人の善意を逆手に取り私腹を肥やした。とんでもない奴だから、極刑に処するのは当然だし、詐欺罪で告訴されることが周知すれば、似たような理由づけで甘い汁を吸おうとする奴が出なくなるだろう。

 今回は個人が被告だったが、集団の場合も同様の処置が取れないのだろうか。
 今は減ったかもしれないが「統一協会」は、同様の手口で募金を集めていたらしい。その時々のニュースになるような事柄を理由にして、募金活動をしていた。障害者も利用されたことは、数年前の日記に書いた覚えがある。今も似たような手口の募金活動をしているならば、当然詐欺罪の対象になるだろうし、対象にして欲しい。善意の募金が統一協会の活動資金に化けてはたまらない。

 ここまでは、いわば前段の話。
 言わんとすることは、こういう詐欺や詐欺まがいの「偽」募金が横行すると、善意の募金が減ってしまうことを危惧するのが本論。
 拉致被害者くらい「有名」になれば、偽物は出ないだろうし、分かっているから善意の寄付も集まりやすいだろう。
 しかし、核兵器廃絶などは、まだまだ知名度が低いから「そんなこと言って、詐欺じゃないの。ホントに廃絶運動に使われるの?」などということにならないとも限らない。
 今でさえ、募金をしてくれる人は数えるほどしかいないのに、この上減ってしまったら、廃絶運動そのものにも支障が出かねない。子や孫の安心のための活動が不可能になってしまう。

 偽の募金か、本物の募金か。見極めるための情報をマスコミでも流してほしいものだ。

2010年3月25日(木)
若者に石を投げさせるな!

  米長官談と投石する若者達を報道する紙面
 
2009.10.11に「ロバをシマウマにするな!!!」のタイトルで、パレスチナの動物園にいたシマウマが死んでしまった後、代わりのシマウマを輸入できないため、ロバに黒い髪染めで縞を描き、子どもたちの人気者になっているとは何ごとかと書いた。
 どんな理由があるにせよ、子どもたちに偽物の動物を与えるような事態は絶対に許せない。イスラエルが悪いとも書いた。

 3月になってから、アメリカが仲介に入り、パレスチナとイスラエルとの和平交渉が進められていることが、新聞で報道されていた。
 イスラエルはなかなか妥協せず、東イスラエルの入植地での住宅建設を続行しているため、12日の報道では、クリントン長官が「ユダヤ人入植に不満」で「イスラエル首相に警告」を出したと書かれている。

 17日の報道では「入植地建設 続行へ」となっていて、アメリカは中東和平担当特使のイスラエル訪問を延期して、両国の緊張がさらに高まっていると書かれている。記事には、イスラエル兵に投石するパレスチナ人若者の写真が大きく掲載されている。
 若者が何歳くらいか、顔を覆っているので分からないが「若者」と言うからには、10代後半から20代前半だと推測する。
 彼らはイスラエルの封鎖により、失業状態だったり、ろくな仕事にも就けない状況に置かれているらしい。投石すれば、イスラエル兵の攻撃を受けて負傷したり、投獄されたりすることが分かっていても、不満の持っていき場が無くて、投石行動に走っているのだと想像する。投石行動で社会が変化するとは思えなくても、イスラエルに対して何かせずにはいられないくらい、怒りが大きくなっているのだろう。

 19日には、モスクワで、ロシア、国連、EU、アメリカでのパレスチナ情勢協議の会合が予定されていたはずだが、報道を見落としたらしくその後の状況は分かっていない。
 関係国が話し合っても、当のイスラエルが入植地を広げようとしたり、エルサレムの帰属を話し合わなかったりしていたのでは、パレスチナの反発はますばかりだろう。現にパレスチナ自治政府は、東エルサレムとヨルダン川西岸でのユダヤ人入植地建設が完全凍結されない限り、直接交渉に応じない方針を示しているとの報道である。

 どっちが悪いとか良いとかの問題は脇に置いて、とにかく今後両国がどうしていくのかを話し合わないと、若者は今後も投石を繰り返すだろう。未来に光が見えないなかで、無駄な抵抗だから止めろと言っても、聞く耳は持たないだろうし、聞く耳を持てと言う方が無理だという気がする。若者のエネルギーを無駄に使わせている状況は、何とかならないのか。
 日本にいて、分かったようなことを言うなと言われそうだが、気になってしまう。

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2010年3月25日(木)
課長夫人より社長夫人がいい

  ドラマスペシャル『シューシャインボーイ』を観た。浅田次郎原作で、西田敏行、大滝秀治、柳葉敏郎などの主演級が共演するし、戦後の混乱期を生き抜いた人々の物語という前宣伝もあったので、遅い時間になることを承知で観てしまった。前日の『書道教授』が、松本清張原作だけあって見応えがあったので、浅田次郎もと期待した。

 推理ドラマではないから、内容的には『書道教授』よりも見応えがあった。
 大滝秀治が演じる「帰還兵」世代、西田敏行が演じる「戦後闇市」世代、柳葉敏郎が演じる「高度成長」世代の3代を登場させたとすれば、私は西田敏行と柳葉敏郎の間にはいることになる。そんなことも考えながら観たので、感慨がより一層高まった。
 テレビ東京が力を入れて作った作品だと感心した。芸術祭への出品なども考えているのだろうか。

 作品としての質が高かったからこそ、ひとつ気になることがあった。それは、女性の描き方だ。ドラマの中心的テーマではないから、気にしなければそれで終わりだが、なまじ「ジェンダー」などをかじっているので、妙に気になってしまった。
 原作者の浅田次郎も、脚本の蒲田敏夫も、試写後のコメントを書いたライターの碓井澄枝も、当然のこととして肯定しているのだろう。特に碓井さんは名前から女性だと思うが、コメントで全くふれていない。ジェンダーの視点は彼女にはないらしい。

 柳葉演じる「元銀行課長」の「お抱え運転手」には妻子がいる。標準的日本家族で、一男一女の4人暮らし。当然妻は専業主婦の設定。
 その妻のセリフに「『課長夫人』から『運転手夫人』になった時には、あなたを受け入れようと決めた。しかし『運転手夫人』より『社長夫人』がいい。『課長夫人』だったときより『社長夫人』になった方が嬉しい」みたいなのがあった。

 「専業主婦はこういう感覚なんだな」と改めて納得してしまった。固有名詞ではなく、○○夫人としか呼ばれない。それだからこそ、夫の尻を叩き励まして、○○の中に入る言葉がいくらかでも「社会的地位」の高いものにしようとする。夫の社会的地位が上がれば、それは自分の功績でもあると胸を張る。夫婦の二人三脚だといういわれだろう。そして、その二人三脚が今日の日本を押し上げてきた力になっているのも事実だろう。

 柳葉演ずる夫は、非常に誠実で浮気ひとつせず、家族のためにと頑張ってきたらしい。しかし、リストラをする立場に耐えきれず、課長という地位を捨て、運転手になってしまった。「課長夫人」だった妻は「運転手夫人」になったことが許せなかったが、夫への愛から許そうとした。けなげで立派な「妻の鏡」のような設定。
 それへのご褒美か、最後には夫が社長になり「社長夫人」になれた。夫を許し、支えていれば最後には素晴らしい状況が待っている。という設定になる。「だから、妻は夫に尽くしなさい」というメッセージにも取れる。まことに日本的美談に仕上がっている。

 柳葉演じる誠実な課長は許容範囲だが、若い妾を囲っていながら「妻は家庭の大黒柱」と言っている西田演じる社長は、私の許容範囲を外れる。妻はかけがえのない存在と分かりながら、社長の甲斐性としては妾のひとりも囲わねばならないという、周囲の圧力から心ならずも囲っているようにも見えたが。社長ならば馬を買えと言われて馬を買ったように。妻は、寂しさをこらえながら「分かっています」と許す。戦後の闇市で「お花買ってください」と言っていた少女が「社長夫人」になれたから、今が一番幸せと言いながら、広い洋間でひとり電車を走らせている。しかし、最後には妾と別れた夫とともに、静かに暮らすのだろう。それでこそ「大和撫子」だということか。

 「教授夫人」の座をけっ飛ばした私には、真似ができない。教授夫人と言われる機会は、殆ど無かったが、呼ばれた場合にも何の喜びもなかった。そのため、呼ばれそうな場面は極力避けて、固有名詞で呼ばれることを選んできた。もしこれから○○夫人になる様なことがあったとしても、固有名詞で呼んでほしいと言うだろう。
 どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。生き方の問題だから、自分で選ぶより仕方がないことだが・・・ 

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2010年3月19日(金)
神父らの性虐待もあった

  3/13の日記に「天使の歌声集団にも悪魔がいた?」との見出しで、ウィーン少年合唱団での性的虐待について書いた。
 ウィーン少年合唱団の場合は、教会とは関係あるが、教会の中ではない。
 今回は、神父による性的虐待だ。以前アメリカで同様の性的虐待が発覚し、神父の処罰と司教の引責辞任、被害者への損害賠償による教会資産の売却などが報道されている。
 その時は、現法王がまだ枢機卿で、前法王のヨハネパウロ2世に代わって「厳しく対処する」との立場で解決に向かわせたらしい。

 今回は法王の出身国であるドイツでの事件である。だからなのかどうかは報道からは分からないが、法王が「沈黙」を続けているらしい。そのために法王に対する批判の声が出ているとの報道である。
 3/17の報道分しか見ていない。国内の「漫画の性表現」問題に係らわっていたら、時間が経ってしまったので、その後に状況の変化があるのかもしれない。
 
 ネットで調べた限りでは、ドイツの問題がはっきり進展したとは書かれていない。
 ドイツに加えて、アイルランド、スイス、オランダなどの欧州諸国で同様の事件が起きていることが分かった。
 最も関係なさそうなカトリック聖職者の中での問題だけに、社会の目は厳しいのだろう。 アイルランドの問題では、法王が「謝罪文」を送ったことが報道されている。ドイツに関しては今後「謝罪文」が送られることになるのだろうか。調査を命じたところのようだから。

 聖職者の中に「小児性愛者」がいるとしても不思議ではない。どんな集団の中にもいるのだから、聖職者の集団でもいるだろう。そこにだけは居ないと考える方が「常識はずれ」だと思う。自覚している小児性愛者がどれくらい居るかは分からないが、潜在的な「小児性愛者」がいることは充分考えられる。潜在的なものが、聖職者に課せられた「禁欲」などのため、顕在化したとも考えられるのではないか。
 聖職者という隠れ蓑があるから、表面化することなく、何年も野放しにされていて、被害者が増加したらしい。加害者の神父は、教会をたらい回しにされただけで、教育も受けなければ、子どもに出会うことのない環境にも置かれなかったと報道されている。

 私がまだ子どもの頃、東京かどこかで、信者の女性に性的暴行を加えた神父が出たというニュースがあった。その時は週刊誌が書き立てたが、その神父はイタリアだったかフランスだったかに戻されて、それっきり何も言われなくなった記憶がある。
 今回の事件も被害者に隠蔽工作をした例もあるらしい。表面的に取り繕うことが事態を余計悪くしたと言える。
 聖職者といえども人間だから、間違いを起こすことはある。そういう立場で考えれば良いと思うが、聖職者は罪を犯さない存在だと思わせたいから無理が起きるのだろう。
 法王がどういう態度を取るかに注意していきたい。

2010年3月19日(金)
都の規制案 先送りとなる

 昨日の夕刊に「民主都議は反対を」として、子どもの性描写漫画規制案に、全国から反響が殺到したとの記事が出ていた。「ネットを使った呼びかけが『反対の声』を加速させているようだ」「数日で、全部に目を通せないほどの封書や葉書、電子メールが来ている」「民主都議には『表現の自由を損なう』『幅広く規制されてしまう』などの意見が押し寄せる。手紙は各地から速達で届く」「条例を認めたら民主を支持しないと書いてあるものもある」などの報道が続いていた。

 今朝の新聞を見ると「子ども性描写 都規制案 先送りへ」「都議会民主、批判に配慮」として、一面のトップ記事になっていた。
 昨日の夕刊では「複数の民主幹部は『時間をかけて議論する必要がある』と話し、共産やネットなど他会派と調整して、次の議会に持ち越す『継続審議』に傾きつつある」との報道だったから、あまり驚くような記事ではなく「やはりそうか」との思いがあった。

 議会局には16日からメールが急増し、1日2千通以上が押し寄せた。と書かれている。16日は、ちばてつやさんなどの漫画家が、反対のアピールを表明したことが報道された日だ。新聞で報道されたのを読んでの反対メールの殺到だろうとは推測できる。
 議会局のメールはパンク寸前に追い込まれたのではないだろうか。他の業務に差し支えが出ただろう。一人ひとりの小さな表現が大きな力になることがよく分かる。

 日本雑誌協会、日本書籍出版協会など四団体で作る「出版倫理協議会」も17日、「当局の恣意的な判断によって、検閲や弾圧に繋がる恐れがある」などとする反対声明を発表した。とも報道されている。
 「出版倫理協議会」とはどんな会なのか、詳しいことは分からない。「映倫」の出版物版だと考えればいいのだろうか。今までにどんな判断でどんな規制をしてきたのか、詳しいことは分からない。出版物は多すぎて「映倫」よりも複雑だろう。実行力はあったのだろうか。

 とにかく、規制されすぎず自由な表現活動ができることはよいことだと思う。行きすぎがあった場合は、自主規制という形で、作家同士で考えていくことができれば、それがベストだろう。送り出す側がやってくれないと、受け取る側での規制はなかなか難しい。親が規制しても子どもはどこか別のところから手に入れるだろう。24時間監視は不可能だ。

 しかし、子どもたちへの性表現だけを見ると、今までもすさまじいばかりの表現が目に付いていた。感覚だけに訴えようとすれば、表現はエスカレートしていくことは目に見えている。過激な表現の雑誌ほど売れるとなれば、出版社は過激表現を要求するだろう。仕事を失いたくない作家は、要求にこたえて心ならずも過激表現をするだろう。初めは迷いや自責の念があっても、それを続けているうちに大脳は麻痺して「これくらいどうって事はない」という心境になってしまうのではないか。

 千葉さんや里中さんなどのような有名な作家は「表現の自由」を言っていられるだろうが、まだ売れていない作家は「規制」があって描けなくしてもらった方が良いと考えるかもしれない。描きたくなくても「描いて構わないんだから描け」と言われれば描かざるをえないだろう。

 自主規制を尊重すると言われたのだから、作家も出版社もその気になって、子どもが偏った性意識を持たぬよう、考えてほしい。

2010年3月18日(木)
純粋培養では人間育たない

 東京の条例だが、全国的にも注目を集めているのだろうか。一昨日に続き、昨日は会見で語られた内容が大々的に取り上げられた。
 「現行すでに規制」「狙いは"純潔教育"?」の大見出しに続き、いくつもの小見出しがある。「マンガなどの性描写 都条例改正案に危機感」「文化、芸術は倫理と別」「純粋培養では人間育たない」「主観で判断ならピカソも卑猥に」など。紙面を大きく使っているから、インパクトのあるフレーズが並べられている。

 確かに純粋培養では人間は育たないと思う。
 『ウィタ・セクスアリス』のタイトルで、自分史的に書き散らしているが、かなり「純粋培養」で育てられてしまった自分を振り返るとき、子どもの時に性教育を受けていたら、今日の状況は変わっていただろう。と思うことが多々ある。
 清だけでは清が分からない。清濁が有ってこそ清を認識できることは確かだ。子どもが子どもらしく育つには、あまり濁が多くない方が良いだろうが、まるっきり濁がなかったら、ノッペラボウに育ってしまうのではないだろうか。また、濁を知ったときの反動が大きいのではないか。人間不信に陥ってしまうかもしれない。

 その意味では、子どもの時から性の様々な形のあることを知ることは悪いことではないと思う。一方的な偏った、女性の人権を踏みにじるような描写の羅列で、特殊で異常とも思える行為を普通と思わせてしまうような作品は願い下げたいが、性は結婚している男女間でのみ許容される行為である、ということだけを強調するような作品も、現実とはかけ離れているから、偏っていると言わざるを得ない。

 「児童ポルノ規制より、高校生以下の性行為を肯定しない"純潔教育"が本当の狙いなのでは」とか「この改正案の内容なら、為政者側が拡大解釈すれば、どこまでも網をかけられそうだ。戦時中の暗黒社会に繋がりかねない」、「誰が見ても良くないものだけを規制すると言っても、結局は主観で判断することになる。ピカソの絵を卑猥と感じる人さえ居る。対象があいまいなのに、条例で規制するのはそぐわない」「強姦を扱う描写などが野放しにされていたような、過度にひどいイメージを作り、別の規制を意図しているのでは」などの発言からは、"純潔教育"を意図して、七生養護学校の性教育をバッシングした都教委の姿勢にも通ずるものを感じる。

 現行の都条例で、すでに規制がされている問題を、さらに強化しようとする意図は、今までに無かった規制を加えようとしていると考える方が当たっている。となると、高校生以下の性行為を肯定しない"純潔教育"が狙いなのではとのコメントに信憑性を感じる。

 東京の行政のなかには"純潔教育"の信奉者がいるのだろう。女性を戦前のような状況に戻したいと考えているのだろうか。そうすれば離婚は減り、家庭は円満になり、男は昔の男のように元気になる。と。
 その先にあるのは、勇んで戦に出ていく男たちか。そうすれば日本は世界に貢献すると。日本の世界的な地位が上がると。

 恐ろしい妄想だが、妄想で済むことなのか。性描写規制の真の目的はそこにあるのではないのか。暗い時代に入るときには、必ず性への規制が強化されてきたとも聞いている。関係ないと見過ごすわけにはいかない。

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2010年3月17日(水)
またもや子ども性描写取り締まり

 これで何回目になるのだろうか。東京都の青少年健全育成条例改正案の問題は。
 1960年代に制定されたとのことだから、50年近く経つことになる。それだけの期間だから、改正が何回かされるのは当然かもしれないが、性描写や性に関する問題での改正によって、青少年がより「健全育成」されてきたのかというと、疑問が残る。

 今回も以前と同様、小学校PTA協議会が都条例改正案成立を求め、表現者が改正反対を言っている。今回は漫画家が表現者だが。作家だったりすることもあったと思う。
 双方の主張も同じだ。かたやPTA側は「児童ポルノの根絶や、子どもを性的な対象にする図書が子どもの目に触れないようにするため、改正案の成立を求める」としている。
 表現者である漫画家の言うことも、以前からの主張と同様だ。「表現の自由を著しく損なう。表現の規制は文化に元気を失わせる。日本の漫画界は危ない。条例が成立すると、すぐに規制対象になりうると危惧を抱いた」としている。

 反対する団体が「条例の文言が曖昧すぎて、規制の対象をいくらでも恣意的に解釈できてしまう。審議時間も短すぎる」と反発すれば、都は「そのような図書類の創作や出版自体を禁じるものではなく、成人への流通も対象にならない。自由な創作活動に影響はない」と説明している。とのこと。
 言われていることは、以前と変わらない感がある。
 全面的な規制ではなく、ごく一部の規制であり、悪質な者だけを取り締まりの対象にするのだと、規制する側はいう。
 表現者の側は、一部と言いながら全面的規制に広がり、創作活動に網をかけられてしまう恐れがあると言う。

 何回も規制が強化されているのに、青少年が健全育成されている様子は見られない。以前より悪くなることはあっても、良くなっているとは思えない。
 子ども向きの雑誌や、コミックの内容はひどくなる一方だし、おとな達がそれをどうこうしようとしている様子も見られない。
 突然にPTA協議会が出てきて、突然に条例が改正されて、それっきりになるというパターンの繰り返しに思える。

 根本的解決は、性教育を小学生からやることしかないのに、それをしないで規制で何とかしようとするから、いくらやってもイタチゴッコのようになってしまう。
 性教育で、性とは何か。どういう問題があるのか。何に注意が必要なのか。などを理解させておけば、えげつない表現などは相手にしない子どもが育ち、結果としては良貨が悪貨を駆逐できる状況になるだろう。今は、それがないから悪貨が良貨を駆逐してしまい、取り締まりという最もやって欲しくない方法で、何とかしようということになってしまう。
 簡単な問題ができないのは、やはりおとなの性教育がないからだと思う。 

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2010年3月15日(月)
不当降格の「勝訴」が確定

 2/23に「金崎裁判」の勝訴が最高裁で確定したとの報道があった。
 多分2/24には報道があったのだろうが、新聞を読んでいなかったのだろう。知らずにいた。新婦人の仲間からは「裁判が最高裁で勝訴だってね」と聞いたが、私が傍聴に行ったりして支援していたのは「ここから裁判」だから、そちらの話だとばかり思いこんでいて「最高裁はまだ。地裁は勝ったけど、今高裁で審理中」と答えていた。

 「ここから裁判」と紛らわしいのだが、金崎裁判は「ここから裁判」とは双子の裁判のようなものだった。性教育を実行した教員や教材についての裁判と、その時に校長としてリーダーシップをとっていた金崎さんの裁判だから。
 提訴したのが金崎さんが先だったから当然かもしれないが、金崎判決が先に出されて力をもらっていた。地裁のときには、最終弁論の傍聴で並んでいるときに「金崎裁判は勝訴だったよ」と言われて喜んだ。そして「それならこっちの裁判も勝つかも」と期待した。結果はその通りになった。

 金崎さんの談話によれば、都教委は「教育改革」の名で、学校の管理・統制を強め「日の丸・君が代」の強制を狙っていたから、言うことをきかないと「七生のようになるぞ」という見せしめが必要だったのだ。とのこと。なるほど。確かに都教委の狙いは当たったことになる。あれ以来、東京の性教育は冬の時代に入ってしまったから。

 06年5月に裁判を起こしたとのことだから、4年弱で最終的に「勝訴」が確定した。ひとりだけの裁判だから早かったのかもしれないが、ラッキーだったように思う。
 今回は、都教委のやり方があまりに露骨で、常識的に見て「おかしい」ことがはっきりしているから、どういう思想を持っている人が判断しても、勝訴にしかできない裁判だったと思う。
 しかし、もう少しやり方が巧妙になると、なかなか分かりにくくなり、時間がかかったり、賛否が分かれたりすることになるだろう。現に「再雇用」裁判は敗訴している。

 「ここから裁判」は、我々から見れば「金崎裁判」と同じくらい、単純明快に都教委の恣意的行動だと言えるが、裁判所の判断はどうなるだろうか。
 以前の日記で書いたが、行政が被告になっている裁判の場合、地裁で敗訴した時点で控訴しないで欲しい。税金を無駄使いすることが目に見えているのだから。自分の懐が痛まないからと、メンツのためとしか思えないような裁判はやるべきではないと思う。やりたければ、知事や管理職が自腹でやればいい。自腹となれば、勝訴の公算が殆ど無い裁判はしなくなるだろう。これこそ「行政改革」の一環となる。

 税金を使って、負けるのが分かっているような裁判をするのは「お上が間違うはずがない」とか「お上のやることは絶対だ」と思っていられた時代の名残ではないかと思ってしまう。
 今は、お上は絶対ではないし、お上でもない時代だ。市民・県民・国民の立場で行政を進めねばならない時代なのだから、耳を傾けて声をよく聞いて欲しい。そうすれば敗訴するような裁判を起こされずに済むだろう。

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2010年3月14日(日)
ホロコーストを否定することは犯罪

 ハンガリーでは、ホロコーストを否定する発言をしたことを、刑事罰の対象とする法律が施行されることになった。との報道があった。
 ドイツやオーストリアに続くものと書かれているから、両国ではすでに刑事罰になっているということになる。ドイツではホロコースト否定に対しては、厳しい態度を取っていることは知っていたが、刑事罰になっていることは知らなかった。まだまだいい加減な知識であることがばれてしまった。

 ハンガリーでは、多くのハンガリー系ユダヤ人やロマが、強制収容所や絶滅収容所に送られ、ナチスによるホロコーストの犠牲になったとのこと。しかし、同国では近年、極右が伸び、昨年の欧州議会選挙では、ハンガリーに割り当てられた22議席中3議席を獲得したとのこと。今年予定されているハンガリー議会選挙でも議席獲得が予想されているらしい。

 ホロコースト否定論も横行しているので、憲法で保障された表現の自由とは次元の違う問題として、ホロコースト否定やホロコースト犠牲者の侮辱などに最高禁固3年の刑事罰の対象にする法律が議会で審議され、可決されたと書かれている。

 欧州で極右が勢力を伸ばしてきている理由は、民族的な問題や、貧富の格差など複雑らしいが、第2次大戦の記憶が薄らいできたことも一因ではないかと思う。
 若い人達は、体験的に戦争の悲惨さを分かっていないし、ホロコーストの理不尽さなどは、頭だけの理解で実感がないから、否定論を民族の優越性などを含めて言われると、すぐに「そうだ、そうだ」と言うことになってしまうのではないだろうか。

 しかし、否定論を刑事罰にしてまで真実を守ろうとする議会の態度はさすがだと思う。
 日本では「従軍慰安婦」はなかったとか、中国で日本軍は三光作戦などしなかったとか、ホロコースト否定論と同様の論議が右の勢力から起きている。「教科書に書くな」という圧力もかけている。「無かった」と書かれた教科書を使用せよという働きかけを行政にしている。
 それに対して、真実を伝えるために発言を禁止するという動きはない。むしろそれを歓迎して、教科書採択を進めようとしている行政の姿勢さえある。
 実感を持っていない若者を利用し、真実を曲げることを狙った動きが大手を振っている。真実を伝えようとする動きには制限が加えられて来ている。

 この違いは何から来るのだろうか。熱しやすく冷めやすい日本人の民族性なのか。長いものには巻かれろという伝統的思考か。戦後60余年経ってもまだまだ消えない「お上」意識なのか。自己の確立ができていないおとな達の資質なのか。
 いかにも情けない状況だが、どうしたらいいのか思いつかない。ひとりの力では如何ともしがたい。ごまめの歯ぎしりしかできない。
 ツッパリばあさんとしては弱音を吐きたくないが、悔しいかな、弱音を吐いてしまう。

フレーム
2010年3月13日(土)
「天使の歌声」集団にも悪魔が居た?!

 ウィーン少年合唱団の団員に性的虐待の疑いがあり、調査をすると表明した。との記事を見つけた。
 ウィーン少年合唱団と言えば「天使の歌声」というキャッチフレーズで、一時は大々的に報道された合唱団だ。毎年のように日本にも来ていた。この頃はあまり聞かなくなっていたが、来なくなったとも聞かないから、やはり時々は来日していたと思う。

 1960年代から80年代に在籍した団員に虐待があったようだ。現在は教育学に基づいた適切な指導がされているから、虐待の事実はないらしい。
 10歳から14歳の少年が所属しているそうだから、現在は60歳くらいになっている元団員もいるという計算になる。報道では現在33歳の元団員が性的行為を強要されたとの談話が載っている。そうなると、80年代ではなく、90年代まで虐待があったという計算になる。真相は今後の調査によるのだろうが。

 「天使の歌声」集団のなかで、なぜ性的虐待が起きたのかは、短い報道では分からない。推測するしかない。
 少年だけの集団であることに一因があるのではないだろうか。思春期を迎える少年達だけが100人ほども集団生活をしているのは、不自然な状況とも考えられる。そのなかで、ストレスが溜まったり、軋轢が起きたりしていることも考えられる。年長の団員が年少の団員に性的虐待を加えることで、ストレス発散していた例もあるのではないか。

 虐待の実行者は、指導的立場の職員や、年長の団員だとのことだから、もしかしたら、そのなかに「児童性愛者」が居たのかもしれない。
 子どもの指導者のなかに、まま「児童性愛者」が居て、自分の地位を利用して性虐待を実行する例がある。小学校の教員などで、児童に性虐待を加えたという場合には、この例が多いと言われている。一見「青少年の良き指導者」の顔を持ちながら、陰で虐待をしているというケースだ。ウィーン少年合唱団の職員に居ても不思議はない。

 ウィーン少年合唱団の場合は、教会の少年聖歌隊という位置づけにある。教会だから性虐待などとは無縁の存在だと思われがちなところにも、落とし穴があると思う。
 以前アメリカで、聖職者の性虐待が問題になったことがある。あの時は教会も認めて、それなりの対処をしたようだが、今回の場合はどうするのだろうか。とかく、聖なる場ということで隠蔽され勝ちだが、そういうことのないように願いたい。

 現在は無いということだから、問題の職員や団員は合唱団からは居なくなっているということになるし、教育学に基づいた適切な指導が行われているそうだから、発生することはないということになるのだろう。
 それを全て事実として受け入れれば、万事解決になるわけだが、人間の性的行動をどんな教育学のプログラムで修正していくのだろうか。
 人権感覚や、性とは何かを教育しなければ、簡単には解決できない深い問題だと思うのだが。  

2010年3月5日(金)
「物知りじいさん」でも知らないことはある

 地域の集会施設には「運営委員会」のようなものがある。行政が安上がりの施策を進めるため「地域住民の自主的・民主的運営を促す」とか何とかいう「美名」で、施設利用団体や地域の町内会の代表を集めて作った会だ。
 安上がりの片棒担ぎなど・・・と思っているが、利用団体からは出さねばならぬという「きまり」があるから、仕方なく施設に近い私が参加している。

 「美名」のもとの会ではあるが、なかには「肩書」につられて役員を引き受ける御仁もいる。そういう方も居てくださらないと、物事が進まないから、貴重な存在と申し上げておこう。
 とにかくその方は「長」と名の付くものが大好きのようで、よろずのことに首をつっこんでおられるようだ。全く別の場所でお目にかかることがあって「えっ!こういう問題にも関わっておられるわけ」と思ったことがあった。
 よろずのことに関わっておられることもあり、何でもよく知っておられるようで「私の知らないことはない」という雰囲気が漂っている。

 しかし、先日その方にも「知らないことがある」ことが暴露された。
 それは、たまたま彼が、施設のトイレが1年間も故障中だという指摘をしたことから始まった。施設長の話では、実は故障ではなく、廊下から用足し中の姿が見えてしまうので、次の修繕時に目隠しを作ってもらうまでは「故障中」にしておきたいのだとのこと。
 カーテンを閉めることも考えたが、そうするとトイレ内での「いじめ」などが見えにくくなるので、それはしたくないとの補足説明もあった。

 男子のいじめのなかには、トイレで性器を出させたり、さわらせたりという「わいせつ行為」の範疇に入る行動がまま見られる。これは生徒指導などに関わった者には「常識」だ。しかし、高校教師の経験があるというくだんの御仁は、これを全く知らなかったらしい。「わいせつ行為」が「いじめ」だなどとは・・・と、訳の分からぬことを言ってしまった。施設長はそれ以上言えずに困った顔をしたのだが、他の出席者も同じ認識なのか、それとも彼に逆らうのは得策でないと思ったのか、皆黙っていた。仕方なく助け船を出す羽目になった。「それは男子にはよくあるいじめの形態です。・・・」と話したが、それでもさっぱり分からない様子。さらに説明が必要だったが、彼は自分の知らないことを聞く耳は持たぬので「とにかく、修繕の時にやってもらいましょう」と話を打ち切った。

 何でも知っていると思っていても、知らないことだってあるのだ。自分でさえ知らないことを、たいした肩書もない私などが知っているのは、気分が悪いということだったのだろう。
 後日施設長からは「話して頂いて、ありがとうございました」とお礼を言われてしまった。どういたしましてということで終わったが、来年度も彼と「おつきあい」せねばならぬのは、精神衛生上は良くないが、施設長にはぜひ続けてほしいと言われてしまった。どうしたものか。後1ヶ月間かけて熟考せねば。

2010年3月2日(火)
「認知症」の始まりは何から?
 先日、地域で開かれた「表彰式」に参加する機会があった。
 表彰式では「審査員特別賞」とか「観光協会会長賞」などの表彰状が授与された。それぞれ「長」という人物が出てきて表彰状を読み上げ、受賞者は賞状と副賞の花かごを受け取った。「長」の皆さんは、いずれもかなりのご高齢にお見受けした。
 
 そのなかでもひときわご高齢と思われる女性が「長」として花かごを渡す担当をされていた。ただ渡すだけだから、下っ端にやらせれば良いではないかと思われたが、花かごは女性が「長」を務める協会が金を出しているため、存在をアピールしなくてはと彼女が自身で渡したかったようだ。
 どういう打ち合わせになっていたのかは分からないが、前もって打ち合わせがあり、受賞者の作品の下にある花かごを、受賞者本人に渡す手はずができていたと思われた。
 ところが、初めは作品の下の花かごを取っていたのに、途中から思いついた場所にある花かごを取ってしまうようになった。

 その上、最後に審査委員長に渡す手はずになっていたと思われる、ひときわ立派な盛り花をそのままにして、一般受賞者に渡す花かごを委員長に渡してしまったのだ。
 お節介にも「審査委員長に差し上げる花はあれではなくて、こちらの盛り花ではないですか」と、事務担当の方にそっと聞いてみると「そうなんですがね。間違えられて・・・」と困惑気味だった。協会長女史だから「間違えてます。こっちを渡してください」とは言いにくくて黙っていたようだ。「それじゃなくてこれです」とあっさり言って、渡すべき花を渡せばいいと思ったが、それができない日頃の関係性が透けて見えるような気がした。

 日本の場合は、特に「名誉職」の類が「高齢者」に集中している。かの女史もその例にもれず、いつから長になられたのかは知らないが、見かけ上は80歳を超えておられるような感じだった。ご本人の意識では、就任当時と変わらず「私がやらねば」という想いで活動を続けておられるのだろう。
 協会長としてそれなりに功績があった方なのだろうが、如何せん、高齢による「脳力」の衰えは隠せない。最初に衰えるのが直近の記憶だと言われているが、まさにそこに障害が起きつつあることを露呈してしまった。

 協会長挨拶などは、自分で原稿を考え、言いやすいように言えるから、何ら問題はない。しかし、会場について「作品の下にある花かごを渡してください」と言われても、それは自分が考えたのではなく、与えられたことになる。しかも、挨拶を言わねば、協会の宣伝もしなくてはと、あれもこれもで頭は相当満杯状態になっていたはず。「臨機応変」に物事に対応する「脳力」の低下状況では不可能だったろう。

 そういう女史に協会長をやり続けさせるには、周りのフォローが欠かせない。あれは事務方にも責任があると思う。日頃のつきあいのなかで、やれること、やれぬことの区別を見極めておいて、女史は賞状授与者の横に立たせておき、事務方がそこまで花かごを運んでやれば「がくや」を見せずに済んだはず。

 森光子さんが「紅白歌合戦」での司会者のやりとりがうまくできなかったとの話も聞いている。90歳になるという森さんに「当意即妙」のような会話を求める方が酷だと思う。
マイペースで話が進められない場合に、「脳力」がもっとも試されるのだから。あらかじめ司会者が質問内容を伝えて、答を準備させねばならなかったと思う。

 かく言うツッパリばあさんも「当意即妙」はできなくなりつつある。これは「認知症」の始まりなのか、それとも単なる老化なのか。大いに悩むところ。

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