ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2010年2月25日(木)
「スワンスワン」で明るい世の中になるか?

 「スワンスワンで禁煙を」ということで、禁煙推進学術ネットワークが、毎月22日を禁煙の日と定め、白鳥が2羽で「22」の文字を描くポスターやロゴを作った。との記事を見つけた。

 日本人は語呂合わせが好きだが、最近は何でも語呂合わせにしてしまう傾向が強くなったように思う。「耳の日」とか「文の日」などはすでになじんでいるが、「良い夫婦の日」とか「富士山の日」あたりになると、なんだか据わりが悪くて尻がモゾモゾする感じがある。良い夫婦は1年に1度だから、毎月22日を夫婦の日にするという案もそのうち出てくるのではないかなどと勘ぐってしまう。

 厚労省が全面禁煙を打ち出し、愛煙家の皆様にはますます肩身の狭くなるご時世が来たから、毎月1回くらいの「禁煙の日」などは有ってなきがごとしかもしれないが、それでも「またか」と意識する助けにはなるかもしれない。
 学校はすでに校内の全面禁煙が徹底されていると思うが、意外なのが病院で、廊下の隅などに「喫煙コーナー」があったりする。屋外に移さない限り空気はいずれ混ざってしまうのだが、屋外に出すことに抵抗があるらしい。喫煙者は色々な病気になるから、病院としては「お得意様」になるということかもしれない。そうだとすれば、今日の「医は算術」の視点からは、全面禁煙にはしにくいのだろう。勝手な独断だが。
  病院以上に難しいのが個人医院のように思う。上述の理由からすれば、個人医院の方が「お客様」の要望には添わねばならぬから当然かもしれない。

 公共施設ということで、パチンコ屋とか赤ちょうちん、喫茶店などまで禁煙をするよう求めているとのこと。もし実現すれば本当に有り難い。
 以前長男夫婦が「美味しいてんぷら屋」を予約してくれたことがあった。「てんぷらか」とやや気が進まなかったが、せっかく予約までしてくれたのだからと付き合った。ところが、店に入った途端モワーッと紫煙が漂ってきたので「ここはだめ!」と飛び出した。「せっかく予約までしたのにお母さんは・・・」とさんざん長男に怒られた。しかし、命の問題だから譲るわけにはいかなかった。私の場合は、単なる「嫌煙」ではなく喘息の発作が起きてしまうのだから大問題だ。

 パチンコ屋が禁煙になったら行ってみたいと思う。ガンガラガンの「行進曲」はまだなんとか我慢するが、店内の紫煙は我慢できない。せめて「スワンスワン」の日だけでも全面禁煙にするというのはどうだろうか。喫茶店も同様の理由であまり入りたくない所のひとつになっているが、これも行ってみたい。
 赤ちょうちんの類はつきあいで時々行くことはあるが、座る席には神経を使う。仲間の中に吸う人が居るときは「あなたとは『ケンエン』の仲ですから」と言って、できるだけ遠い席に座ることが必要な現状が改善されそうだ。ケンエンと聞いてギョッとする人も「犬猿」ではなく「嫌煙」と知って笑いが起きたり「我慢しますから大丈夫」などと言うが、酔ってくると、さっきの約束はどこへやらになるから油断ができない。せめて「吸わんの日」だけでも全面禁煙を切に願っている。 

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2010年2月25日(木)
イスラム教徒が儲けの対象になる?!

  「イスラム戒律限定の肉」「教徒バーガーあいにく」「『逆差別だ』仏で告訴、捜査」「ハラル『味、変わらないけど』」などの見出しに「何のこと?!」と興味をそそられて読んだ。
 十字軍の歴史的記憶のせいか、現在も何かとキリスト教VSイスラム教のような構図にはまっているせいか、イスラム教関係の記事には敏感になっている。

 フランスの大手ハンバーガーチェーン店が、北アフリカ系の移民が多い都市で、ハンバーグを全てハラルの牛肉に、豚のベーコンを七面鳥の薫製に切り替えた。
 これに対し、極右政党が「フランスのイスラム化だ」と反発。左派・社会党のルーベ市長も「 ハラル以外の肉を、客が選択できないのは容認できない」と告訴に踏み切った。
 AFP通信によると、人口約6千万人のフランス国内にはイスラム教徒が約6百万人いて、ハラルの肉は40億ユーロ(約5千億円)の市場を形成している。と書かれている。

 フランスの法律で、イスラム教徒の女性にブルカを強制して裁判になったことを、2/5の日記で「妻に強制 帰化『ノン』」の新聞ととりあげて書いた。
 あの時は、フランス国内のイスラム教徒数を知らなかったので、どうしてこんな大騒ぎをするのかという感じで書いた。
 しかし今回、人口の1割近くがイスラム教徒だと知り、神経質になっている理由が少し分かった気がした。フランスがカトリック国としての存在だと知っているから。

 日本では、永住外国人の参政権問題が今騒がれつつある。民主党政権下で法律が通りそうな状況があるせいか、右の方々の反対も強くなっている。
 地域に長く住み、地域にも貢献している方々を、国籍上「外国人」だからという理由だけで参政権を与えないのは、フェアではない気がしているから、なぜ反対するのかよく理解できない。「仕事はしろ。口は出すな」と言っているような気がして、居心地が悪い感じがする。しかし、この場合は、人口の数%に過ぎない人達の問題だからという前提が、私のなかにはあるように思う。

 フランスの場合、1割がイスラム教徒となると、相当大きな力を持つことになる。今は食べ物の問題にすぎないが、その他にも生活上の制限が色々あるイスラム教の影響が、どんどん強くなってくると、フランスのイスラム化が現実の問題になるかもしれない。
 1日5回のお祈りの時間を確保するために、仕事は中断しなくてはならないとか、断食期間中だから、昼間は食べ物屋は閉店しなくてはならない、等々、今までの生活習慣とは全く異なる習慣での生活を余儀なくされるかもしれない。そんな妄想が浮かんできているから、ピリピリしているのではと推測される。

 「ハラルの肉も他の肉も味は変わらない」とイスラム教徒の男性が言っているそうだが、他の肉を彼は食べたことがないはずだから、分からないと思う。
 味は変わらないから食べてもかまわないと言う人もいるだろうが、これがその肉ですと言われると、食べるのをためらう人もいるのではないか。強心臓と思われているだろう私もちょっとためらう。「我の他信ずべからず」の教えで育ったから、それを食べることは信ずることに繋がるのではないかと考えてしまう。神社のお祓いを受けるのとは違うかもしれないが、それに近い感覚がある。厄介なことに、感覚は理屈ではないから、おいそれとは変えられない。

 バーガー店では「どちらもあります」にできないのかとも思う。ハラル肉の欲しい客にはハラル肉を、そうでない客には一般の肉を出せば問題は起きないのだと思うのだが。
 ここにも、和をもって尊しとなす日本人には理解できない、絶対こっちだ、いやあっちだという西欧人気質があるのだろうか。それが良いときもあるが、かえって障害になるときもあるように思う。
 ツッパリばあさんにもあらぬ、歯切れの悪い締めくくりになってしまったようだが、それが実感。

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2010年2月18日(木)
収容所入場門表示板盗難にネオナチ関与?

 12/23の日記に「標語板をどうやって盗んだのか」のタイトルで、ポーランドのオシフェンチム(アウシュビッツ)強制収容所の入り口にかけられていた「働けば自由になれる」という標語板が盗難にあった。誰がどうやって盗んだのか。見つかると良いが。というような内容を書いた。
 その標語板が見つかったとの記事を見つけた。写真もなく、小さな記事だから、注意していなければ見落としたかもしれない。

 スウェーデン警察が、同国人の元ネオナチ組織指導者の34歳の男を逮捕したと書かれている。取り調べ後、ポーランドへの身柄引き渡しの可否を決めるそうだ。
 ポーランド警察は、男が昨春、収容所跡を訪れ、盗みを指示した証拠があると主張しているらしい。
 この男は盗みを指示したが、実行犯は別に5人居て、彼らはネオナチ関係者ではないそうだ。ということは、すでに実行犯の5人は捕まっていて、彼らの供述からネオナチの男が浮上し、今回逮捕されたということなのか。記事が小さいので、そのへんの詳しい事情は分からない。
 ところが、スウェーデン紙によれば、男は「計画を事前に知って止めた」と話している
とのこと。全く違う発言になっているから、どちらが本当なのか分からない。

 盗まれた標語板は3つに切断された状態で見つかったと書かれている。門からはずしてすぐに切られたのか、どこかに運んでから切られたのかは分からないが、とにかくオリジナルは元のままでないことは確実だ。
 今の技術だから、3つをひとつにつなげることは可能だろう。見た目には前と全く同じ状態にすることも可能かもしれない。元々、長いものだから、いくつかに分けて作られ、最後に繋ぎ合わせて1つにしたのかもしれない。そうであれば、全く当時のままにすることも可能かもしれない。しかし、門に掲げられていたものではなくなってしまった事実は消せない。

 元ネオナチ関係者の関与が浮上したことで、ネオナチ関係者への監視強化の議論が起きる可能性もあるとも書かれている。盗難には各国首脳やユダヤ人団体などから非難の声が出ていたとのこと。
 ドイツでは、ネオナチ組織が、勢力を持ってきていて、国内で軋轢が増している状況があるようだから、監視強化の議論が起きても不思議ではない。日本の右翼などとは比較にならない深刻さなのだろう。

 それにしても、なぜ表示板を盗んだのかの疑問は依然として解決していない。表示板が無くなれば、ナチスのしたことが消えるとでも思ったのだろうか。消えるとは思わないが、どうしても掲げておくことに我慢がならなかっただけなのか。本音の部分が書いてないのは残念。  

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2010年2月15日(月)
当事者が関わって政策立案を進め始めた

 「政策の立案に当事者携わる」「ベースは基本法の改正」「障がい者制度改革推進会議」などの見出しに「これは」と期待を持って読んだ。
 テレビでの報道はされていたが、詳しくは分からなかった。やはり、紙にしっかり書かれたものでないと理解しにくいのは「紙文化」で育った世代のためか。今の若者だったら、電子版でも理解が可能かもしれない。

 政府が障害者政策の抜本的見直しを始動させた。改革を担うのは「障がい者制度改革推進会議」で、構成員24人のうち14人が障害者と家族らであるとのこと。当事者が政府の政策立案に直接携わる画期的試みだと書かれている。
 昨年12月に発足した、全閣僚でつくる「障がい者制度改革推進本部」を設置し、障害者も社会の一員として差別無く生活できる社会を目ざす、としている。その具体的な制度作りを担うのが、その下に置かれた推進会議だとのこと。

 改革のベースになるのが、障害者権利条約批准と、"障害者の憲法"といわれる障害者基本法の改正とのこと。心身の機能のみに着目し、身体、知的、精神の3障害を定義するだけの現在の基本法では、そこからもれた人達への支援が不充分になっている。「条約は、障害者が特別の権利を持つためではなく、一般の人並みになるためのもの」と、推進会議担当室長は言っていると書かれている。

 障害者団体などが会議に参加し、施策立案に自らの意見を反映できることになったのも特徴のひとつで「私たちのことは私たち抜きで決めないで」との障害者の思いが実現したそうだ。
 日本障害者協議会の藤井常務理事は「欧州と比べて日本の障害者施策は30年以上遅れている。今回の会議は画期的なこと」と意気込んでいると書かれている。
 
 課題は、検討すべき項目が多岐に渡り、議論に時間がかかりそうなこと。「しっかり議論しながら、早急に取り組めることから改善して欲しい」と障害者自立支援法が障害者の「自立」を阻んでいるとして提訴、その後国と和解した訴訟原告団の家平さんは切望しているとのこと。
 幅広い関係者にどう参加してもらうかも課題だそうだ。「どれだけ多くの人の意見をまとめ上げていくかが課題」とのこと。

 障害者というレベルでは一致できても、個々の施策とのかねあいでは障害種別による対立が生まれることもある。今までの3障害でもそうだったから、今回のように現在の基本法からはもれてしまう障害者も入れるとなると、果たしてまとまるのだろうかと心配になってくる。担当大臣の福島さんは、夏頃までには骨格案とりまとめを要請したそうだが、そんな短期間でまとまるとは思えない。無理にまとめようとすると、ひずみが起きて、今の自立支援法のようになりかねないのではないか。多数決が最良の手段のように考え勝ちだが、障害者個々の問題となるから、多数決というわけにはいかないだろう。
 どんな案が出てくるか、一応夏には目を配らねば。

2010年2月6日(土)
日本の歌手はなぜしないのだろうか
   大物歌手の録音風景を伝える紙面

 ハイチ大地震の被災者に救いの手をさしのべようと、大物歌手らがチャリティソング「ウィー・アー・ザ・ワールド」のリメーク録音を行ったとの記事があった。
 この曲は25年前にアフリカの飢餓救済のために、マイケル・ジャクソンやボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンらが参加して作られ、6300万ドルを集めた曲だとのこと。

 今回のリメーク板はオンラインショップや小売店で購入でき、収益の全額が地震の被災者支援に充てられるとのこと。
 つまり、歌手は全員がボランティアでの参加ということになる。1ステージ数万ドルになる歌手もいると思われるが、そういう歌手が殆ど無償で録音に集まり、アピールしたわけだ。

 英国でも売れっ子の歌手が集まり、新たに曲が録音され、公開されたとのこと。この収益もハノイ大地震の支援団体に寄付されるとのこと。さらに、大地震への寄付だからとブラウン首相も支持し、税金は免除されるとのこと。

 時々海外の歌手が、今回のようにチャリティでCDを制作したり、チャリティコンサートを開いたりするという報道がされる。
 しかし、日本の歌手が同様の活動をしたという話を聞かない。今回のハイチ大地震は、アメリカにとっては「隣の国」だからやったのだという人が居るかもしれない。
 それならば、四川大地震の時に日本の歌手が「大地震被災者支援」のコンサートを開いたか。CDを制作したか。と聞きたい。やってはいないと思う。

 なぜ、欧米の歌手はチャリティに関わるのに、日本の歌手は関わらないのだろう。
 日本の歌手は、所属事務所の縛りがきつくて、本人はやりたくてもやれない仕組みができているのだろうか。そうだとするならば、なぜ事務所は関わらせないのだろうか。
 売れるときに稼いでもらわねばならないから、金にならないチャリティなどに関わらせたくないのだろうか。

 事務所の意向があったとしても、365日事務所に拘束されているわけではないだろう。本人の自由になる時間はあるはずだ。その時間を使って、チャリティの録音をしようと思えばできるのではないか。本人にやる気があれば、何とでもなるのではないか。

 昔のように、外国の状況があまり知られないときならば、日本の伝統になかったチャリティなどは、やらないのが当たり前かもしれない。しかし、今は情報が充分はいってきている。歌手は歌を歌っているだけの人ではいられないはずなのに、いまだに新しい動きがないのはなぜなのか、分からない。民族性なのか。単に経済上の問題なのか。

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2010年2月5日(金)
衣装強制にノンか、イスラム教にノンか

  「妻にイスラム衣装強制」「帰化『ノン』」「仏移民相が申請却下」の見出しに「何のこと?」と見当がつかなかったので、読んでみた。
 フランスの移民相が、フランス人女性と結婚して、同国の国籍取得を申請した外国人男性に対し、妻にイスラム教徒の女性が全身を覆う衣装ブルカの着用を強制していたため、申請を却下したと発表した記事だった。

 フランス人の妻にブルカを強制したから申請が却下されたようだが、フランス人でなく、イスラム教国の女性だったらどうなっていたのだろうかと考えた。イスラム教徒の女性であっても、ブルカを強制されている場合もあるのではないか。特に夫から強制されている場合はあるに違いないと思う。その場合も帰化の申請は却下されるだろうか。フランス人でなければ、干渉せずでそのままになるのだろうか。

 フランスでは、ブルカだけでなく、スカーフをかぶることについても議論が起きているとの報道が以前あった。公共の場でスカーフをかぶることについては、特定の宗教を認めることになり、政教分離の法律に抵触するということらしい。
 イスラム教の場合、女性にだけ服装の制約をつけているようで、納得できない感じは持っているが、取ることを法律で定めるとなると「行き過ぎじゃないの」という気分になる。日本人的な「和」の精神が、まだ体内に残っていることの表れかもしれないが。

 ただ、宗教によると言いながら、スカーフをかぶることについては、厳しく強制している国や宗派と、特に強制していない国や宗派があるようだから、コーランに書いてあることではなく、その宗派としての教義ではないかと思う。女性に対する考え方が指導者のなかでどうなっているかによって、強制したりしなかったりするような気がする。そこがどうも納得できない理由のひとつだが、法律で定めて良いかどうかは分からない。

 「フランスの価値観を尊重しない人を拒絶するのが、フランスの法律だ」と述べて、政教分離と男女平等を理由に、移民相の決定を追認する意志を首相が表明した、とも書かれている。
 自由・平等・博愛がフランス革命のスローガンで、フランスと言えば「自由の国」の元祖のように考えていたが、自分たちの価値観が絶対で、それに従わない者は国民として認めないような口ぶりには、いささか納得がいかない感を持つ。

 フランスの法律は、フランス人の価値観を表明するものだという論理でいくと、フランスに住むフランス人でない人達の価値観はどうなるのだろう。外国人としてフランスに住んでいる分には、フランスの法律に縛られることなく生活してかまわないということなのか。それにしては、スカーフ問題は外国人にも押しつけているように思われるのだが。帰化するためにはフランス人の価値観を持てということなのか。

 以前シン・スゴさんが帰化しない理由を聞いたことがあった。理由の一つがシン・スゴという名前をそのまま使えないことだと言っていた。帰化するには日本名にする必要があるらしい。しかし、名前は自分の人権に属することだから、それへの妥協はできないと言っていた。話を聞いた時、もっともだと思った。なぜ日本名にしなくてはならないのか理解できなかった。役所の考えは、韓国併合時代と変わっていないらしい。
 日本でもフランスと同様のことがあるのだから、あまり大きなことは言えないのかもしれない。

 日本では考えにくいことだが、欧米や中東諸国では、宗教がらみの問題が、大きくその国を左右するような問題に発展することが間々ある。
 今回の問題が、妻への強制に重きを置くならば納得できるが、イスラム教に対する偏見に基づくとしたら、大国フランスのエゴと写ってしまう。今後の動向を見なくてはなるまい。

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2010年2月3日(水)
「ペット服反対」を撤回しようと思う

 昨日、山田太一氏講演の感想を書いたなかに「ペットに洋服着せるなんて・・・」という山田氏に共感したというくだりがある。片方では、人間が着の身着のままの状況で居るのに、ペットに何千円も何万円もする洋服着せて喜んでいる人には納得できない、という気持ちから書いた。

 きょうの新聞を読んでみると、先日の言は撤回した方が良さそうだと考えが変わった。
 ペットに洋服着せて喜んでいる人に「そんな金があったら、着の身着のままの人に洋服買ってやってほしい」と言いたい気持ちに変わりはないが、そういう人が居ることで、中小零細の繊維業者が生活できていくのだと知ったから。
 「かごに乗る人 担ぐ人 そのまたわらじを作る人」のように、ペットを飼って洋服着せて喜ぶ人が居るからこそ、繊維業界の起死回生策になるかもしれないのだと知れば「あんなもの止めてしまえばいい」とは言いにくくなった。何しろ、権力にはバカな抵抗をしても、弱者には逆らえないのがツッパリばあさんのよわいところだ。

 報道によれば、江戸川区では、中国などで大量生産されて流入する安価な衣類には、ペット服は少ないことに目をつけ、輸入品の攻勢が少ない「すきま産業」として、商品開発を進めようとしているとのこと。
 少子高齢化でペットブームは今後も続き、販路が見込まれると判断したようだ。
 区内の専門学校生にデザインを依頼し、流通業者、ペットショップ店主らを審査員にコンペを実施し、選ばれた型紙をもとに「江戸川ブランド」のオリジナル商品を協力して開発する計画だとのこと。

 繊維業界は、中小零細業者が多い上、韓国、中国、ベトナムなどの攻勢を受けて、会社が次々に姿を消しているという話は、以前から報道されて知ってはいた。ユニクロのような大手が中国あたりで安い商品を開発して売り出してくるから、資本力の小さい業者はつぶれていくより仕方がない状況も、何回か報道されている。
 行政には自由競争を止める力はないから、何とかしたいと思っても何もできないらしいと思っていた。しかし、何とかしたいと思ったら、何とかすることができる事もあることを知った。住民のための行政とはこういう事を言うのではないかと言ったら、褒めすぎになるか。

 我が家のネコに洋服を買って着せる気にはなれないが、洋服着せて喜んでいる人に対しては「『すきま産業』に貢献されていて、偉いですね」と言うことにしよう。「ぜひ国産のペット服を買ってくださいね」とか「時季時季で、やはり何枚もの服がないと、ペットも飽きるでしょうから」などとも言おう。買う気のある飼い主、買える飼い主にはせっせと買ってもらって、繊維振興に貢献してもらうことを考えてみよう。

2010年2月2日(火)
「祝老歌」を聞いた(山田太一氏講演「祝老歌」)

  先日、山田太一さんの講演を聞いた。タイトルは「祝老歌」というのだ。「老いを祝う歌とはなんぞや」と思ったが、司会の方の説明で納得した。「祝婚歌」に引っかけて、講演を聞きに来るであろう層の大半が「老人」だからと「祝老歌」にしたらしい。
 説明後に場内を見渡すと、確かにそれらしい方が多かった。かなり後の席に座ったので、前の方々がよく見えたが、男性は白髪や禿頭が多く、女性も白髪や白髪を染めている方がかなりの割合を占めていた。

 平日の午後ではなく土曜日の午後だから、来ようと思えば若い方々も来られる時間だ。しかし「山田太一」と聞いて来る気になるのは、80年代に青春時代を過ごし「不揃いのリンゴたち」に共感を寄せた「アラ還」世代以上ということになるのだろうか。今、テレビドラマで売れっ子というわけではないから、若い世代は「誰?この人」「『不揃いのリンゴたち』って何? 知らない。行く気にならない」ということになるのだろう。

 主催者もそれを見越して、アラ還の皆さんに合うテーマでの話をリクエストしておいたのだろう。私は初めての参加だったが、今年初めての企画ではなく、何年も同様の企画をしているから、聴衆がどういう傾向にあるかを掴んでいるのだろう。
 山田さんは主催者の要望にそうタイトルを付けたわけだ。

 山田さんの講演を生で聞くのは2回目。とはいえ、前回聞いたのは、もう16、7年も以前になる。その時印象に残っている言葉は「近頃はテレビドラマの依頼が減ってしまった。ドラマを見る人が少なくなっている」というようなことだった。会場からの質問を受け付けたので「若い人はテレビドラマを見なくなったかもしれないが、年配者はテレビをよく見る。年配者の見られるドラマを作るように頑張ってほしい」と発言した。それに対して「年配者の出るドラマを作りたいが、良い俳優さんが居ない。年配の良い俳優さんが居たら、ドラマが作れるのだが」というような回答があったと記憶している。
 あれから16、7年経ち「良い俳優さん」が次々出てきているように思う。今なら年配者を主人公に据えたドラマが書けるのではないかと思った。質問してみたかったが、会場からの質問受付はなかったので聞かれなかった。残念に思った。

 本来の「祝婚歌」は歌うのだが「祝老歌」に歌はなかった。しかし、内容的には散文詩のように、あれこれの内容を話しながら、その底に流れるのは「老い」に対する肯定感だった。いくつか「そうそう」と感じるフレーズがあった。

 高齢期に健康で暇があったら地獄の苦しみになる。あちこち悪い所があった方がよい。神が、自ら作った人間に苦労させるのは、人々の魂を目覚めさせる意味がある。ひどい目に遭ってない人間は魂が眠っている。いろんな苦労があることは、魂を浄化させるための恵みだと考える。弱さを知ることは悲しみを知ることという発想の転換が必要。人の為と書くと「偽り」になるように、魂にひだがよらない人間は、人のためになると思いこんで、自分だけいい気になっている場合も多い。
 人間は何でもできるなどと言うが、それはできない人をおとしめることになる。
 「楽しい老後」などと言うが、楽しいだけの老後などあり得ない。 
 定年でリセットすると言うが、リセットしてはもったいない。リセットなどできないと、ネガティブになるのではなく、リセットしないでやるのが良い。
 友が死ぬことは悲しいが、天国で待っていると思えば気が楽になる。本当の悲しみを知っている世代はある年令以上の世代である。「悲しみを忘れよう」ではなく、味わい深いものとして、魂をよくすることに繋がると考える。
 この他にも、まだまだどれも含蓄のあるフレーズがあった。

 それとは別に、話のなかで「自身で防衛できているはずの犬に洋服着せているのはどうも・・・」と言われたのには、拍手を送りたかった。着の身着のままの人間が寒空にふるえている現実があるのに、我が家のペットに何千円とか、何万円とかする服を着せて喜んでいる面々には、どうしても納得できない思いがあったが「山田さんも同じようなことを感じているのだ」と分かり、嬉しくなった。ツッパリばあさんの独りよがりではなかったことが証明されたような気分がして、親近感を持った。  

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