ツッパリばあさんのはらだち日記

人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2009年12月30日(水)
エッチな地名が珍地名か

  「スケベニンゲン」「鼻毛」・・・と「珍地名の歩き方」の見出しに興味をそそられて読んでみた。スケベニンゲンは「スケベニンジン」と読み間違えたが。
 埼玉に住む安居さんという方が、国内外100カ所も旅をして、自身のホームページで紹介したり、『世界でもっとも阿呆な旅』という本まで出版したとのこと。

 日本語読みにすると、少々エッチだったり、吹き出してしまうような名前の土地ばかりを旅しているのだとのことで、本文には「ヤリキレナイ川」「エロマンガ島」「キンタマーニ」「むかつく(向津具)」などの「珍地名」がならぶ。
 
 珍地名旅行が人々の心を捉えるのはなぜかと、精神科医の香山リカさんに聞いた記事も載っていた。
 楽器を作ったり、壁画を描いたりと、人間は昔から、必ずしも生活の役に立つことだけで進化してきたのではない。効率ばかりを重視する今の時代。珍地名旅行は、周囲に「無駄があってもいいんだよ」と気づかせてくれる。
 なるほど。さすが精神科医。きっちり学問的な答を述べている。

 しかし、珍地名となるとなぜエッチな地名になるのか。それについてのコメントはなかった。無駄に見えるふざけたような珍地名ならば「ハラヘッタ」とか「オオアクビ」「ハナクソ」などというものでも良いのではないか。充分珍地名だと思うが。それがなぜエッチ系の言葉になるのかが疑問だ。

 多分、エッチ系の言葉は、通常人前では言わないことになっているからではないのか。ヒソヒソ耳元でささやき、互いが目配せしてニンマリする。そんな言葉が、他国の言語になると、堂々と白日の下で言われているから「えっ?!」ということになり、目に留まる。どちらかというと、男の方がその種の言葉に敏感に反応するようだが。
 今は、通常のことでは面白くも何ともなくなってしまったので、ヒソヒソささやかれていたことが、堂々と言われるようになってきた。そして、そうなると、何か隠微な臭いがする言葉ではなく、ただの面白い言葉になってしまったということらしい。良いのか悪いのか分からないが。

 この種の言葉では「宝田」を思い出す。日本人は堂々と言っているが、聞いた方が赤面する言葉として。
 確か兵庫県の地名だと記憶していたが、ネットで調べたら、その他にも山形県や千葉県にも同名の地があった。宝の田圃という意味だから、日本語としては良い地名だ。たくさんあってもおかしくない。
 しかし、これはドイツ人には珍地名に属するらしい。ホーデンとは、男性の睾丸を指す言葉だから。日本人は赤面しないが、ドイツ人は赤面しながら言わねばならぬ言葉のひとつになると聞いた。

 この種の言葉は、世界を見渡せばゴマンとあるのだろうが、時間をかけて調べる人は少ないと思う。それを調べてその地にまで行ってしまうというのは、確かに立派な「無駄」と言うことになる。「熱中人」として放映されても良いくらいだ。

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2009年12月29日(火)
重度障害者の可能性をどう見るか

  「重度障害者は、将来収入の見込みがないから、逸失利益は0だ」というのはおかしい、とのニュースを見たのはかなり以前だった気がした。「0とは何だ。人間としての価値はないのか」と腹を立てた記憶がある。両親が逸失利益を認めてほしいと提訴したことの記憶は曖昧だが。
 
 札幌地裁に2005年提訴され、損害賠償訴訟の和解が成立したとの記事を目にした。「あの時の裁判に決着がついたのだ」と嬉しくなった。
 従来は軽、中度の知的障害者には、逸失利益が認められた例はあるが、重度障害者には認められた例がなかった逸失利益が、今回は認められたとの報道に「当たり前だろう。人間としての価値に対する逸失利益はあるはずだ。人間であれば、逸失利益のない人間など居るはずがないじゃないか。今までが間違っていたのだ」と思った。

 逸失利益の算定の仕方は、その人が将来得られるはずだった収入を、年齢や職業をもとにしているため、重度障害者の場合は、収入が殆ど見込まれないからと0にされてきた。「仕事」をして収入を得ることが大前提になっているから「仕事」のできない重度障害者の場合は、収入がないと算定されてしまう。そして、逸失利益はないとされてきた。

 重度障害者で、仕事はできなくても、周囲の人の介護が必要な存在でも、絵を描いたり、工芸や陶器を作ったりと、その人にあった色々の活動をするなかで、家族や周囲の人達に喜びや慰めを与えることができる。その人の存在が周囲に光を与えている場合もある。ときには素晴らしい「芸術作品」を生む重度障害者もいる。
 しかし、そういうことは「収入」では計れないから、利益とはみなされない。
 何とも貧しい考え方ではないか。収入に結びつかない活動は無と見なしてしまう「エコノミックアニマル」の国らしい考え方だ。

 しかし、今回は「重度障害者の将来の可能性を認め、最低賃金を算定の根拠にした画期的なもの」と代理人の弁護士が指摘した、全国でも初めての判決となった。
 これが定着していけば、今後は重度障害者でも、逸失利益を認めるのが「普通」になっていくだろう。つまり、重度障害者も、活動し利益を生み出す存在として認められるに違いない。

 「手話は言語」が認められたり、重度障害者の場合でも逸失利益が認められたり、カメの歩みのような速度ではあるが、一歩一歩確実に障害者の権利が拡大していくことは嬉しい。
 「自立支援法」に変わる、新しい障害者の権利擁護の法律が成立すれば、カメの歩みがカバの歩みくらいにはなるだろう。早くその日が来ることを願っている。

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2009年12月27日(日)
外来種被害はどこにもある

  新聞とは言えない11月下旬の古聞がまだ未読だったので開いてみた。
「外来種コイ ミシガン湖に迫る」との見出しに「何のこと?」と読んでみた。
 ミシガン湖に、アジア原産の「ビッグヘッドカープ」「シルバーカープ」などの、繁殖力の強いコイが生殖範囲を広げて、迫っているとのこと。米当局は湖の生態系を守り、釣りや漁業への悪影響を未然に防ごうと、あの手この手で防戦しているが、じりじりと湖に近づいていて、関係者の間には焦燥感が漂っていると書かれている。

 なぜ、外来種のコイがいるのかと思ったら、ご多分にもれず輸入されたからとのこと。1970年代に養殖場の浄化目的で、米南部に輸入されたコイが、洪水で近隣の川へ逃げ出し、イリノイ川などを経て北上し、今やミシガン湖にまで生息範囲を広げようとしているのだと書かれている。

 日本でも、アメリカザリガニだのブラックバスだの、初めは養殖用とかはっきりした目的で、ピンポイント的な場所に飼育されていたものが、川に逃げ出して繁殖し、今や日本古来の種を絶滅させようとしている。
 マングースのように、わざわざ人間が野に放った種もある。生態を充分調べないまま、効用を錯覚したことによるらしいが。

 輸入木材についてきたとか、樹木の中に入っていて知らずに輸入したというのは、ある程度「仕方がない」という気もするが、養殖して金を儲けようとか、釣りの楽しみのためには在来種がどうなってもかまわないなどという理由での、無責任な持ち込みは許せない気がする。
 アメリカザリガニのように、今や日本に従来から居たかと錯覚するほどに増えてしまったものなど「どうしてくれる」と言いたい。
 
 米当局は最後の砦として、ミシガン湖につながる水路に電気でコイを撃退する装置を設置し、12月に予定している保守作業の際には、駆除用の薬剤を入れる計画もしている、と報道は結ばれている。
 あの大きなミシガン湖につながる水路全体に電気装置が設置できるのかどうか分からないが、設置したと書かれているから一応設置したのだろう。その上、薬剤を入れるとなったら、どんな量になるのだろう。それらに費やす経費は相当莫大なものだと思う。

 しかし、そうまでしても外来種を入れまいとする姿勢には頭が下がる。日本で同様のことが行われたと聞いたことがないから。
 在来種の保護は、環境を守る基本のひとつであるはずだが、日本では対策がどうも弱いように思われる。「予算がないから」とお役所は言うだろうが、環境問題に対する姿勢の弱さが、予算の少なさに表れていると思う。
 養殖用に輸入したものであれば、誰がいつ輸入したかが分かるはずだ。密輸入でない限りは、資料が残されているだろう。
 アメリカザリガニや、マングースのように、すでに時効になってしまったような古いものは仕方ないにしても、ブラックバスやカミツキガメ、ワニガメ、アライグマなど、まだ最近と言える範囲のものは、誰がいつを調べて、持ち込んだ者に責任をとらせるべきではないか。広がるまで知らん顔していて、広がってからあれこれ言って税金で処理しようとするのは、お役所の怠慢の表れだと思う。
 何かというと、法律がないからできないとか言うが、新しい法律を次々作って何とかしていくのがお役所ではないのか。在来種保護に反対する国民が居るとは思えない。 

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2009年12月23日(水)
標語板をどうやって盗んだのか

 罰当たりの盗難はどこにでもあることらしい。
 名画の盗難はちょくちょく聞くが、今回は何とポーランドアウシュビッツ強制収容所の門に掲げられていた標語の盗難だとのこと。
 アウシュビッツ強制収容所として世界的に有名になってしまったが、ポーランド語ではオシフィエンチムと言うのだと、ポーランド人の知人から教わった。なぜドイツ人はオシフィエンチムをアウシュビッツにしてしまったのかと尋ねたら、ドイツ語的発音になったからだと教えてくれた。日本がジャパンになってしまったようなことらしい。隣の国でも、ドイツ語とポーランド語では発音がずいぶん違うからだろう。

 彼女に案内されて2度目の収容所見学に行ったのは、今から13年くらい前のことになってしまった。
 「働けば自由になる」という嘘っぱちの標語を作らされた職人が、せめてものレジスタンス精神で、Bの字の上下の大きさを変えたという話を思い出しながら、感慨深く眺めたものだった。門の上に取り付けられていたから、ずいぶん高いところにあったという記憶が残っている。しかも、門の端から端の長さだから、一人二人で持ちきれるものではないと思う。

 強制収容所跡の国立博物館では、10万ズロチ(約300万円)の報奨金を約束して、有力情報を募っているとのことだが、コソッと隠せるほどの大きさではないのだから、持ち去ってもすぐに見つかってしまうだろう。トラックにでも積んで運んだのだろうが、小型トラックでははみ出してしまう大きさだと思う。

 誰が何のために盗んだのだろうか。名画の場合ならば、収集家が居て、盗品と分かっていても高値で買うそうだから盗む意味があるが、標語板など、もし買ったとしてもどうやって飾るのだろうか。でかい家の中に飾って、名画を見るようにひとり悦に入るとも思えない。
 「強制収容所は無かった」と言いたいネオナチの仕業か。それでも標語板だけ持ち去っても、収容所の存在自体を消し去ることはできないだろう。収容所を丸ごと消してしまうことなどできるわけがないから。

 すぐに複製板が取り付けられたそうだ。新しすぎて時代を感じさせないようだが、それでもないままにはできないから取り付けたのだろう。複製板をちゃんと用意してあったのはご立派。盗難を考えたかどうかは分からないが、風雨にさらされているから、腐食してしまうことは考えていただろう。そのときのために作っておいたのかもしれない。

 とにかく、とんだ罰当たりの盗人が早く捕まって、何のために盗んだのかを聞きたいものだ。どうにも合点がいかないから。 

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2009年12月16日(水)
モスクワかローマかは過去の話となった

 「バチカンとロシア 全面的外交関係樹立へ」の見出しに「えっ、もう和解していたはずじゃなかった?」と思って読んでみた。
 1990年から、両国間で「教皇庁大使」と「ロシア大使」の肩書で、外交関係が始まったのだが、使節交換だけにとどまっていた。全面的関係の樹立には至っていなかった。のだそうだ。

 両国が過去に全面的外交関係が結べなかったのは、ロシア正教会とカトリック教会の間に緊張があったことも一因で、今回の政治的前進には、両教会の改善した関係が寄与したことは事実だと代理大使は述べた。と書かれている。しかし「両教会は実際的には直接的な関係はなく、ただ、より親密で友好的な関係になったという雰囲気が感じられているに過ぎない」と、今回の前進に関して付け加えた。と結ばれている。

 ロシア正教会との関係で、外交関係が結べなかったとは知らなかった。旧ソ連時代は特に、宗教と政治は別と考え、宗教を敵視したり、無視したりしていたのがロシアだと思っていたから。
 より親密で友好的な関係になったというのは分かる。カトリック教会が「エキュメニズム」を提唱していることは知っていたから。
 カトリック教会は「エキュメニカル運動」という、キリスト教会の一致運動を1910年から始めており、来年は100周年記念に当たるということで、『キリスト教一致祈祷週刊』という小冊子を発行したり、記念行事も計画されているとのこと。エキュメニズムという「一致運動」があり、活動していることくらいは知っていたが、来年100周年だとは知らなかった。勉強不足が多いと反省しきり。

 来年に備えてというわけではないと思うが、ロシア正教会との一致についても、働きかけをしていたことは知っていた。互いの理解を深めて一致できれば、それは素晴らしいことだ。キリスト教は、世界中に広がっている一大宗教ではあるが、カトリック、プロテスタント、ロシア正教、ギリシャ正教など、大きく分けても3つにも4つにも分かれている。さらに枝分かれまで合わせたら、どれだけが「キリスト」の名を持つ宗教になるのか分からないくらいだ。

 中には「モルモン教」「キリストの幕屋」などの「新興宗教」と呼ばれるものも、キリストを名乗っている。
「エホバの証人」「ものみの塔」あたりになると「異端」性が強くなるし、「統一協会」のように「キリスト」を名乗りながら犯罪行為をしている、とんでもない「新興宗教」まである。
 
 とにかく、子どもの頃には「バチカンかモスクワか」と言われて、信者であればモスクワとは関係を持つなという感じであった国と、外交関係が樹立されたのだから、時代は変わったものだ。これからも変わっていくだろう。それが良い方向への変化であることを期待したい。

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2009年12月15日(火)
神学と科学は対立する問題ではない

 「ガリレオの天体望遠鏡から進化論的宇宙学へー科学と哲学、神学の対話」と題された異分野間会議が、教皇庁立ラテラノ大学主催で開かれたとの記事が目に留まった。
 バチカン教皇庁が大学を持っていることも知らなかったし、異文化間会議なるものが開かれたことも知らなかった。日本にいては知らないことが、ヨーロッパには数多くあることをまた知った。

 ガリレオは有名な「地動説」で宗教裁判にかけられ有罪になり、その後バチカンが公式に裁判の誤りを認めて、ガリレオに謝罪したのは1992年で、その間370年以上もの間認めていなかったことになる。
 そのガリレオを持ち出しての会議が、教皇庁立大学で開かれたというので「教会も変わってきているのだ」と感じた。
 ガリレオ自身は、敬虔なカトリック教徒で「深い宗教意識」があったそうだから、「地動説」という考え方では、当時の教会と対立するようなことになったかもしれないが、自然科学や物理化学だけでは不充分だということを、理解していたと考えられる。

 教皇は、ガリレオが確立した、現代科学的な観測手法と仮説検証によって、今日の飛躍的な科学進歩が可能になったと指摘した。と書かれている。さらに「望遠鏡を用いて観測できることだけにとどまらず、さらに進んで、すべての創造の意味と目的を検証するべく努力しなければなりません」とメッセージに付け加えた。と結ばれている。

 日本の科学者の多数派は、どうもこの点が弱いように思う。科学者であることと、信仰者であることは両立しないと考えている節があり、科学こそが万能だというおごりも感じられる。科学的であることは大事だが、科学では満足な答が見いだせない問題があることを認めず、ひどい場合は、答が見いだせない問題があると、問題の存在を否定してしまう場合さえあるように思う。

 今の時代に書かれたとしたら、旧約聖書の「天地創造」の書き方は違っていたのではないかと思う。「ビックバン」も取り入れて、個々の創造について「7日間で・・・」などと述べるのではなく、進化の法則を与えたという言い方にしたのではないか。2000年前、3000年前の人類が理解しうる言い方で聖書を書いたから、おとぎ話か寓話に取れる書き方になったのではないか。と素人考えで思う。

 ただし「ビックバン」を認めても、なぜビックバンガ起こったのかの説明はつかない。ビックバンは現象にしか過ぎないのだから、現象にともなう理由づけが必要だが、現在は残念ながら、まだされていない。やはり、自然科学や物理学だけでは説明つかない問題になる。ことほど左様で、現象の説明はできても、その理由づけはできていない問題は多い。現象は「発見」されるものだから、どこまで行っても「すでにあること」「今まで存在に気づかなかったこと」を明らかにするだけにとどまってしまう。
 その場合に、科学者のやることは、すべての現象を偶然の産物にしてしまうことだが、そうするには余りにも偶然が多すぎて、科学的とは言い難い。やはり科学を超えた考え方が必要だと思う。
 もっと科学が進めば、それ以上の存在が証明できるのではないかと期待している。 

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2009年12月15日(火)
エイズデーに向けて教会の取り組みがあった

 教皇ベネディクト16世が、12/1のエイズデー前に「教会は、その関連機関と人員をあげて最善を尽くし、エイズとの闘いを続けていきます」と、バチカンでの「昼の祈り」の前に語ったとの報道を読んだ。「HIVにより苦しむ人が、慰めと希望を与えてくださる主の存在を感じられるためです」とも述べたと、書かれている。

 「苦しむ人は私の元へ来なさい。私が慰めてあげよう」という意味の聖書の言葉があるのだから、エイズで苦しんでいる人に、慰めを与えるのは当然かもしれないが、エイズが「性感染症」であることから、教会が積極的になれないのではないかとの思いこみがあった。「この病気に苦しんでいるすべての人」とは言っているが「特に子どもたちや最も貧しい人々、社会から拒絶された人々」と続く文脈からは、母子感染や、輸血、医療器具による感染など、性行動以外の感染者を強調しているようには感じられる。

 とはいえ、イスラム教国では、いまだにエイズがタブー視され、公式発表では感染者が0であったりする国もあるようだから、それに比べればずっとましな対応と言える。
 しかも、修道会などが積極的にエイズ患者・感染者の治療や予防活動に関わっているのだから、胸を張っても良いのかもしれない。

 東京ではプロテスタントの教団・教会が中心になって、記念礼拝が行われたとのこと。当事者支援団体から関係者など約40人が集まったと書かれている。式のなかで陽性者の支援や病気の予防啓発活動を続けている「プレイス東京」の方が「HIVが発見されて25年余り経つのに、ここのところに来て相談件数は増えている。90年代から、薬を飲めば普通に生活できるようになっているが、数少ない拠点病院でしか見てもらえず、周囲に病気を告白できない人も多い。1万7千人ほどが日本でHIVとともに生きており、私たちの周りには実は苦しんでいる人はいる。すべての人が安心して生きていける世の中になったらいい」と語ったと結ばれている。

 プレイス東京は、15年くらい前に活動を開始した団体のはず。その頃は代表の池上さんとも面識があったが、その後は関わってこなかったので、活動がまだ続いていることも知らなかった。NPOではあるが、委託事業という形をとっているようだから、財政的基盤もしっかりしているし、職員も配置できているのだろう。今後も活動を続けてほしい。

 爆発感染を心配されていたが、タイとかアフリカ諸国のような爆発感染は今のところ見られていないようだ。しかし、先進国では唯一の、感染者数が増加している国であることは間違いないのだから、感染者・患者への支援と、予防啓発活動は幅広く、息長く続けて行かねばならないと思う。
 ほとんどの教会では、全く話が出ていない状況があるように思う。関心を持ってもらうために新聞の教皇メッセージが力になればと期待する。

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2009年12月14日(月)
「別れさせ屋」とは驚きの仕事

  「人の仲カネで請け負う『別れさせ屋』」「ドラマを地で行く工作」「行きすぎ逮捕者も」などの見出しに「何だ?」と目をとめた。
 2001年に放映されたテレビドラマに『別れさせ屋』というのがあったらしい。それで知られるようになったと書かれているが、全く知らなかった。結びつけることには敏感になっていたが、別れさせる方には神経が行っていなかったかもしれない。

 「別れさせ屋」への依頼は、不倫中の女性から相手の男性を離婚させてほしいというのが多いとか。一般的には、相手の妻に調査員が近づいて不倫の状況を作り、男に離婚を決断させるのが多いとのこと。
 この国はどうなってしまったのかと思う。何でもカネで解決する風潮が、人間の心までカネで操作しようとするところまで来たように思う。

 そもそも、不倫を正当化しようという動きがおかしさの始まりだろうが、相手の夫婦関係を壊してまで、自分との結婚を決断させようとするなどは、どうかしている。もし、それが成功して結婚できたとしても、今度は自分が同じ立場に置かれて、不安や疑心暗鬼を生じないではいられないだろう。「私がそうやって結婚した男だから、今度は私がそうされるかも・・・」とは思わずに済むのだろうか。

 探偵会社が「別れさせ屋」になるらしい。日本調査業協会なる業界団体も「別れさせ行為は公序良俗に反する」として、自主規制を促しているそうだが、探偵会社も競争が厳しくて、どんな依頼でも受けなければやっていけないということだろうか。それにしても、依頼する方もする方なら、やる方もやる方だという気がする。人権も人間性も踏みにじった行為をしても、金儲けになればかまわないということなのか。ゆがんだ社会の縮図のような気がする。

 人は人との関係で人間になっていくとは、良く言われている言葉だが、直接相手と向き合わないで、第三者が間に入ってしまうと、罪悪感が薄れてしまうらしい。相手の苦しさや悩みを目で見たり、聞いたりして受けとめないからだろうが。
 片や商売でやっている第三者だから、これまた罪悪感が薄れているのだろう。
 ネットだメールだと、直接向き合わないで事を済ませるツールが一般化したことで、人間の心もゆがんできたのではないか。
 人と人とが向き合う文化を復権させないと、ますますおかしな状況が生まれると思う。 

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2009年12月10日(木)
老いらくの恋は人間だけではないらしい

 「恋求めサル」「出世・地位捨て・・・別の群れへ」との見出しに「何々っ?」と読んでみた。「恋」とか「愛」とか「性」という言葉には敏感になっているから、大きな記事ではなくても目に留まってしまう。

 大分市の高崎山で、人間ならば86才ほどにもなる雄ザルが、群れbRの地位を捨てて、別の群れに移ったとのこと。群れのなかで地位が上がると、雌ザルに敬遠されるそうで、移った別の群れでは、若いサルに威嚇されながらも、新参者として、雌ザルには気にかけられている様子が見られる。来春には子どもが見られるかも、と結ばれている。

 地位の上がったボスザルよりも、新参者の方が遺伝的に遠いから、雌ザルが関心を持つらしい。近親婚になって、遺伝的なトラブルが発生する確率を下げる作用が働くのだろう。自然の巧妙さに感心させられる。
 以前、トドか何かでも、一夫多妻でハーレムに君臨する強い雄の子を、全部の雌が産むかと思いきや、近くに来ているはぶせになった雄の子を、ボスの目をかすめて生む雌がいると、テレビで見た覚えがある。

 86才の雄ザルの行動に対して、案内係が「もう年なんだから控えめにしておけば」と苦笑しながら、彼女さがしを温かく見守っていると書いてある。
 猿も年とってくれば、彼女さがしは控えめになるのだろうかと疑問を持った。
 雌ザルの出産については、人間ならば孫が生まれるほどの年令で出産しているという話をよく聞く。象なども同様だ。
 高齢になって寿命が来ている頃になっても出産をしているようで、人間のように出産しなくなってから何十年も生きている方が珍しい、とも聞いた覚えがある。

 雌が高齢出産するのだから、雄が高齢でも交尾活動をするのは当然ではないのか。それとも、高齢になると交尾活動は控えめになるのだろうか。
 そこはよく分からないが、出世や地位を捨てて別の群れに移ってまで、交尾活動することは珍しいのかもしれない。

 人間は、出世や地位が彼女を得る条件になる場合も多いのに、サルの世界では、新参者の方がもてるというのは愉快だ。地位という外側の善し悪しで見るのではなく、丈夫で健康な子どもを産めるかどうかで判断しているわけだから。外側に騙されないサルの方が、人間よりずっと賢いとも言えそうだ。
 3高はすでに昔の話で、今は婚活の時代だとか言われているが、それでも「外側はどうでもいい。問題は中身だ」とは言っていないのではないか。
 
 出世だ地位だと言わないで、純粋に相手のなかみで互いが選ぶ社会になれば、もう少し住みよい社会になるのではないかなどと考えさせられた。

2009年12月10日(木)
漢字で遊べる人はうらやましい

 年末恒例の「創作四字熟語」の審査が終わって「優秀作品」が発表された。四字熟語は受験に備えて覚えたから、それなりに理解はしているが、ネットで見ながら「どうしてこんな言葉が作れるのか」と感心する作品ばかり。
 ツッパリばあさんの面目躍如となるような「四字熟語」を作りたいとは思うが、頭が固いせいか、ひねりのきいた言葉が浮かんでこない。今から励んでも来年への応募はできそうにない。
 「秋休五日」「一票両断」「司民参加」など、今年の状況を的確に捉えている。「顔面総白」は何かと思ったが、新型インフルがらみと分かったら「なるほど!」とうなった。「五輪夢終」には、「そうだその通り。もう一度などと言うな」とエールを送りたい。「判官判民」は優秀作品ではないが、言い得て妙。優秀作品にしても良かったと思う。「司民参加」があって割を食ったのかも。

 四字熟語は逆立ちしてもダメそうだが、「おり句」ならばまだ何とかなる。
 絵手紙を描いているが、なかなか画材の特徴を掴んだ絵が描けない。「下手でいい」「下手がいい」というキャッチコピーにつられて始めたとはいえ、描いたものが何か分からず「何を描いたの」と言われるのもいまいましい。絵の横に「ピーマン」とか「リンゴ」、「白菜」などと書いておくのも業腹だ。というわけで、思いついたのが画材を頭につけた「おり句」にすることだった。絵手紙には絵の他に文字も入れることになっているから、文字が入ってもおかしくはない。

 今は賀状用の絵手紙を考案中。画材を選ぶのがなかなか難しい。白菜のような大きなものを描こうとすると、葉書が2枚必要になる。春菊とか、小松菜だと、緑一色になって面白くない。ユズではおり句ができない。最低3文字、最高5文字でないと「おり句」にならない。3文字なら5、7、5にする。4文字なら7、7、7、5に、5文字なら5、7、5、7、7にというぐあい。俳句とか、短歌とか呼べる代物にはならないから、字数を借りて「句」の体裁にしているだけ。

 色と形で、カボチャと洋ナシが候補に挙がっている。ユズはダメだがシシユズなら何とかなりそうだとも考えている。
 カボチャならば、かずある国が ぼーダーレスで ち球のあした やく束す にするか、最後をやすんじるにするか、かくなき世界 ぼくらの理想 ち球のあした やすんじる もいいかなと思いついた。
 洋ナシならば、よの中変える うん動続ける なん年か後 しあわせに を思いついた。

 今までで、なかなかのできと思っているのは、こう福夢見て まかせた政治 つもる恨みだ なめんなよ / ざい政を くみ変えさせる ろう人力 / ぴったり上着に いれ歯もぴたり まだまだ若いぞ んとこしょ / とし甲斐もなく うかれた気分 きみを待つ間の びヤホール などがある。
 ツッパラがって、政権への反骨ばかり書いていては「またか」と思われて、読んでもらえないかもしれないと考え、たまには滑稽みのある句も作るよう心がけているが、ツッパリばあさんとしては、なかなかできないのが苦労の種。
 どれが賀状になるかは、もらった人のみぞ知るヒ・ミ・ツ  

2009年12月7日(月)
国連の場で不当判決を訴えたいと表明

 日比谷集会と橋本さんの記事を載せた紙面

 12/3の「ビラ配布弾圧事件」翌日、日比谷公会堂に1600人以上が集まり『言論・表現の自由を求める12.4日比谷集会』が開かれたと報じられた。夜でなければ参加したかったが、残念ながら参加はできなかった。
 
 脚本家のジェームス三木さんが『かけがえのない表現の自由ー憲法を語る』と題して講演をしたとのこと。三木さんの講演は聴いたことがないが、脚本のおもしろさは知っているので、ぜひ生で聞いてみたかった。表現の自由をどう解釈しているだろうか。一時プライベートで叩かれた三木さんだから、その経験も踏まえての話になっただろうか。

 不当判決が出たばかりの葛飾ビラ配布弾圧事件についての報告が弁護士からあったとも書かれている。「憲法上の重要な論点について、全く検討した形跡もない。最低の判決だ」と批判し、今後は「国連自由権規約委員会の個人通報制度を日本で実現し、国連の場に不当判決を訴えたい」とのべると、会場は大きな拍手に包まれたそうだ。「日本で実現し・・・ 」ということは、制度を実現させないと、訴えられないということか。そうなると、時間がかかりそうだが・・・

 荒川さん以外にも、国公法での弾圧を受けている堀越さんや宇治橋さんも登壇して決意を語ったとのこと。
 堀越さんの場合は、公安警察が尾行したり、違法の盗み撮りしたりして「微罪」を「事件」に仕立て上げているのだから、戦前の特高警察のようなものだ。戦後60年以上経っても、特高警察の系譜は受け継がれているということなのか。「社会の変革を狙っている団体は、弾圧するべきだ」との思想が根を張っているのだろうか。
 オウムのような団体や、詐欺商法で庶民をたぶらかす団体は、厳重に取り締まってもらわねばならないが、合法的な思想団体を狙い撃ちするなどは、許されることではない。

 「一枚のビラで・・・」という歌を作った、シンガーソングライター橋本さんの談話が載っていた。、「一枚のビラで・・・」は、ポストに入った一枚のビラで「生活苦からの自殺を思いとどまった」とか「ビラで区政を知ることができた」など、荒川さんのもとに届いた励ましの声をもとに作った歌だとのこと。残念ながら、橋本さんの名前も歌も知らなかった。歌を聞く機会がほとんどないので、良い歌があっても聞き逃しているらしい。CDが出されているのなら、ぜひ聞いてみたい。

 自由法曹団団長菊池さんの談話では、不当判決には力が無く、社会の現実のなかでは力を持たないとのこと。今回の判決理由では、マンションの7階から3階までの廊下に立ち入ったから住居侵入だとしていて、集合ポストへの配布については別のこととしているそうだ。集合ポストへのビラ入れで起訴されている事件の判決はどうなるのか。自衛隊シラク派遣のビラ入れは有罪になったが、あれは自衛隊の官舎だから、集合ポストではないかもしれない。

 いずれにしても、共産党のビラに弾圧が集中しているのは、この国を反動的に再編するために、人々の抵抗を力ずくで押さえ込もうという強い意志が働いていることで、共産党が草の根の言論を通じて、憲法改悪などの悪性を許さない力になっているからに他ならないとしている。なるほど。なるほど。政権は交代しても、現政権には都合が悪い存在だとよく分かった。都合が悪いからと弾圧すれば、消えるほどのヤワな団体とは思えないが。 

2009年12月4日(金)
国内では認められなくても、国際的には常識です
不当判決に抗議する荒川さんについての報道

 やはり思った通り、荒川さんは有罪が確定した。地裁では勝利しても、高裁、最高裁と進めば有罪になるだろうと予想していたから、判決を聞いてもさして驚きはしなかった。「やっぱりね」という冷めた感想しか持てなかった。

 ビラを入れられる立場になれば、迷惑に感じてはいるだろう。以前書いたが、我が家にも不動産屋だの、宅配ピザ、すし、中華料理などの食べ物関係だの、集会へのお誘いのチラシだのが、毎日のように入る。「いい加減にしろ」と言いたい気持ちにもなる。
 選挙が近くなれば、支持政党以外のチラシが入る。「何を入れても支持は変わらないぞ」と言ってやりたいが、入れるところに立ち会わないとそれもできない。

 住民が迷惑だと思ったら迷惑なんだという論法らしい。しかし、迷惑だと思いながらも、「商売だから仕方ないね」とか「選挙だから入れたいだろうね」と我慢している人が殆どではないか。たまたま、通報するほどに先鋭的な反対側の支持者宅に入れてしまったから、騒動になっただけのことではないのか。

 草薙剛の「公園ハダカ事件」と同じで、通報で駆けつけたお巡りさんが「住民の方が迷惑がっていますから、入れないですぐに立ち去ってください」と言えば、それで済んだことではないのか。草薙さんの場合も「ここは公園ですから、ハダカはまずいですよ。服を着て家に帰ってください」と言えば済んだことなのに、交番に引っ張っていったりするから、大騒動になってしまったのだ。融通が利かないというか、杓子定規というか、法律だけを鵜呑みにして、運用を考えないお巡りさんだったのではないかと思ったものだ。

 今回は「共産党のビラを入れている」という通報で、押っ取り刀で駆けつけたのではないか。警察は「共産党」と聞くと異常反応をするらしい。荒川さんだけでなく、何人もが「微罪」で捕まっている。社会常識からすれば、めいっぱい拘留して、家宅捜索して、起訴に持ち込むほどの行為ではないはずなのに、それを敢えてやるのは「言論弾圧」をしたいからだと勘ぐってしまう。特に時の政権に都合の悪いことをズバズバ言うから、共産党は煙たい存在なのだろう。資本主義とは相容れない思想であるから、邪魔な存在なのだろう。しかし、それも容認するのが「民主主義」のはず。反対意見は弾圧するのではファッショになってしまう。
 
 ピザ屋や不動産屋は取り締まらないから大丈夫だという情報が、流れているのではないか。荒川さんの事件があっても縮小された気配はない。そうやって分断するのも手なのだろうが「俺たち関係ねえ」とたかをくくっていると、そのうち取り締まりの対象になってしまい、サークルのお誘いや、フリマの宣伝までできない世の中になるかもしれない。全てを色分けして、時の政権に都合の悪いことをしていると判断された団体の活動は、徹底的につぶされる社会がこないとも限らない。
 
 ドイツの神学者、マルチン・ニーメラーの『今こそ立ち上がるとき』の詩を再度読み返したい。

 今こそ 立ち上がるとき / 共産党が迫害された / 私は党員でないから黙っていた / 社会党が迫害された / やはり私は党員でないから黙っていた / 学校や図書館、労働組合が弾圧された / ユダヤ人が迫害された / 私は不安だったが、やはりじっとしていた / 協会が迫害された / 私は牧師だから行動に立ち上がった / だが そのときは もう遅すぎた

 日本の常識、世界の非常識であることは、はっきりしている。中から変えられないならば、外圧に頼るほかない。国連自由権規約委員会は日本に勧告を出しているとのこと。国連への提訴が勝利するよう期待したい。
2009年12月4日(金)
本物の『さんしょう太夫』を観た

  市民劇場今年最後の舞台は『さんしょう太夫』だった。さんしょう太夫とは、子ども時代に読んだ本か、森鴎外の有名な小説でのつきあいだから、今更前進座がどうして取り上げる必要があるのかと思っていた。

 プログラムによれば「説教節」の『さんしょう太夫』だとなっている。説教節とは、仏教の教えを分かりやすく伝えるために考案された物語という記憶があり、森鴎外とは違うかもしれないと、いくらかの期待を持った。ストーリーの分かっている芝居を観るのはつまらないという気持ちが強いから、いくらかでも違っていれば興味を持続できるとの理由から。
 
 見終わっての感想は、久しぶりに『芝居』を堪能した気分だと言える。「さすが前進座」と思える群像劇のおもしろさを十二分に出していた。
 近頃はギャラの関係から、3、4人とか、5、6人しか出ない芝居が多い。舞台は大きいのだから、人間が少ないとやはり迫力に欠ける。それなりに面白いできになってはいても、客席に迫ってくるような迫力がない。そのため、俳優さんの力量が相当ないと、つまらない芝居になってしまう。
 その点では、厳しい芸の修行をしている前進座の面々が、20人近くも出演するのだから、迫力満点。重厚な舞台を堪能できた。1年の終わりを締めくくるにふさわしい見応えある芝居だった。近頃つまらなくなった市民劇場の会員を続けていて良かったと思えた。

 ストーリーはおおむね森鴎外と同じだったが、細部が異なっていた。大きく違ったのは、弟を逃がしたあと、安寿が池に身を投げるのではなく、責め殺されるところだろうか。
 この設定が、後半、立派に国司となって帰ってきた厨子王が、さんしょう太夫を鋸引きの刑にすることを納得させた。確かに姉が自殺してしまっても、その原因はさんしょう太夫にあるのだから、極刑にする意味はあるが、姉が責め殺されたからこそ、それと同等の責めを負わせる意味で、鋸引きなどという、厨子王の優しさからは想像できかねる極刑を加えさせたことが、納得できる。鴎外作品で納得できなかったことだった。

 芝居全体から浮き出てきたのは、観音様の御利益ということも、鴎外とは違う。説教節が、仏教の教えを民衆に伝える目的で作られているのだから、観音様の御利益が前面に出てこなければ意味がないことになる。説教節とは何かを正確に表現した舞台だったと思う。
 前進座の案内では、民衆の悲しみと怒りを伝えたかったようだが、それは強烈には伝わってこなかった。観音様を信仰していると、こんなに苦しい境遇に置かれても、きっと幸せが訪れるのだから、一心に信仰しなさいと語りかける「説教節」として印象に残った。

 民衆を大事にする前進座としては「信仰していると良いことがあります」を感じられては不本意かもしれないが、説教節とはなんぞやを再現している点では成功なのではなかろうか。それでは、ふじたあさやさんは不満だろうか。

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