ツッパリばあさんのはらだち日記
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人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2009年11月30日(月)
「健康幻想」に縛られないとは素晴らしい

  「人間ドックが『病気』を生む」という本を出した渡辺さんという方の話。
 還暦を期に健康診断を全てやめた方だとのこと。ツッパリばあさんとしては、見習うべき方だ。
 この方は、若い時は健康に神経質だったそうだ。人間ドックは欠かさず、結果が出るまでは、心配で半病人状態だったとのこと。ここは私とは、ちょっと違いがある。人間ドックは余りしなかった。せいぜい、職場での健康診断を欠かさず受ける程度だったし、結果が出るまで半病人などということは無かった。「何も言われるはずがない」と信じ切っていたのかもしれない。

 「還暦を期に検診は全てやめた」というほど徹底はしていないのも、この方ほどに立派ではないところ。「早期発見」は大事だと思っているから、一応やれる範囲ではやる。
退職したばかりの時は、市民健康診断のようなことしかなくなって、血液検査と尿検査くらいしか無料では受けられなかった。500円出せばもう少し詳しい検査をしてくれるというので、その範囲でやってもらっていた。人間ドックとはほど遠い状況。

 現役の時にバリウム検査で引っかかって、一度だけ「胃カメラ」になったことがあった。その時も「一度くらい胃カメラをやるのも経験だ」という調子で、体験気分で出掛けた。が、旧式の古いカメラでこりごりして、金輪際胃カメラはやらないぞと誓った。しかし、今年はどうしてもまた胃カメラをやらねばならぬことになった。前回で懲りているから、仕方なしに渋々出掛けたが、今回はずいぶん楽になっていた。これなら必要な時にはやっても良いと考えを変えた。コロリと変わってしまう単細胞が分かる顛末。

 大腸癌検診で引っかかったこともあった。訳知りの同僚によれば、検査機関も引っかかる人を出さねばならぬから、何人かにひとりは引っかかったことにするのだとのこと。
 ホントはどうなのか分からぬが、とにかくカメラを入れることになり、またまた体験気分で出掛けた。ちょうどその頃、研究会の先輩が大腸癌になっていたから、まるっきりの体験気分とはいかなかったが、それでも半病人になるほどではなかった。
 結果はさんざんだった。胃カメラとは比較にならない痛さと気持ち悪さで、2度目に引っかかった時には「検査を受けに行くことで病気になりそうだから」との理由で断ったほど。あれは1回経験すれば結構だ。

 そんなこんなで、渡辺さんほどには徹底できていないが、それでも人間ドックで「異常」と言われるたびにドキドキしなくてはならぬから、受けない方が良いとの論には賛同する。
 高齢者の仲間入りをすれば、全くの「異常なし」になることの方が珍しくなるだろう。今のところ内臓関係は「異常なし」で、胃カメラの結果などは「3年後くらいにまた検査すればいいでしょう」などと、のんきなことを言われる始末だが。

 かたや、腰や膝が痛いとか、具合がわるいとかの話になると「年のせいですから・・・」で片づけられて、ロクロク治療はしてもらえない。自分で何とかしろと言うことらしい。
 足腰にガタが来ても直しようがないのに、内臓ばかり治したら、寝たきりや要介護5などの高齢者が増えていくことになる。足腰が弱り、出歩いたり、自分で日常生活が管理できなくなった頃には、内臓も弱って死に至る。それまではできることを楽しくしていく。という方が人間らしい生き方ではないかと思う。

 それならお前は、どうして検診を中途半端に受けるのかと言われそうだが、内臓系の病気になり、家族や周りの介助が必要な状況で、長く生きてしまうことは避けたいと思うから、というのが理由だろうか。いまはあっさり死なせてくれず、病気を中途半端に治してしまうから、ズルズル生きてしまう場合も多い。早期に見つけて治療すれば、またそれなりに自立した生活ができる。できるだけ迷惑かけずに生きるためには、早期発見での治療も必要だと思うので、残念ながら渡邉さんほどには徹底できない。
 
 何とも歯切れの悪い、中途半端にツッパっているばあさんのていで、今回はカッコ悪いが、これが本音と言うところだろう。
 
 

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2009年11月28日(土)
ロシアの話でなく、東京の話です

   「埋もれる差別」との大見出しがついている、ロシアの交渉かと思った写真が目に留まった。さらに「実行委『石原都政で政策後退』」との見出しもある。「変だな?!」と思って写真を見かえした。ロシアの話かと思っていたら、東京の話だった。「人権白書Tokyo」実行委員会のメンバーの一人がひげを生やしていたので、ロシアの人のように見えただけと分かって、自分の視力の衰えに愕然とした。よく見れば日本人の顔だった。

 顔はどうでも良いことで、内容はなかなか厳しいものだ。東京都内で活動する21の人権団体が協力して差別の実態をまとめたのが「人権白書Tokyo」なのだとのこと。日常に埋もれがちな差別の断片を報道していたのだった。
 「婚外子差別」はまだ存在することを知った。事実婚の方々が困っている最大の問題だ。そのために出生届と同時に婚姻届を出し、出生届が受理されると離婚届を出すことを繰り返すという例を聞いたこともある。結婚による家族が「家族」で、結婚は「結婚届を出すこと」により認められるという図式が、まだ日本では厳然と生きているようだ。

 一夫一婦制を維持するためには、結婚という形式を踏襲すべきなのかもしれないが「子どもの人権」という視点からは、明らかに人権無視の状況になる。現在ではシングルマザーも増えているし、ステップファミリーも増えている。いちいち婚外子だのなんだのと区別していたら、ややこしくなって訳が分からなくなるのではないか。子どもにとっては、婚外子であろうと無かろうと「子ども」であることには変わりないのだから、子どもの人権は保障する方向で進めてほしい。

 障害者差別として、医療観察法の問題もあげられている。以前に聞いたような気もするが、はっきり何かを知らなかった。犯罪を犯した精神障害者を入院というかたちで収容し、治療を受けさせ、再犯を防ぐための法律とのこと。

 精神障害者が犯す犯罪とは何かよく分からないが、たとえ犯罪を犯した原因が、精神の疾患にあるとしても、その疾患の治療が可能なのかどうなのか疑問に思う。例えば統合失調症での妄想や幻覚・幻聴などのため、傷害や殺人という犯罪を起こしてしまったとする。その人を入院させて、統合失調症の治療をすれば、再び傷害や殺人を起こさないようになるのだろうか。犯罪の原因が果たして病気だけなのかどうかは、誰が判断できるのだろう。
 クスリや電気ショックを与えての治療だけで、通常の社会生活がおくれるまでに回復するのは無理だと思う。投薬に加えて、カウンセリングや周囲の支援など、さまざまな手だてを取って初めて回復すると思うから。
 医療観察法にあげられている治療の手だてが、そこまでのきめ細かさを持っているとは思えない。入院とは名ばかりで、収容施設のようになり、再犯を防ぐためと称して、軟禁状態に置くのではないかと勘ぐってしまう。以前の日本でされていたような、鉄格子のある部屋に押し込めておくという状態に。

 女性差別の内容には、七生養護の性教育問題が載っていた。七生養護の性教育問題が「女性差別」といわれると疑問を感じるが、七生の問題以外の男女混合名簿の使用禁止など、男女共同参画の流れに逆行する動きを都が続けていることは頷ける。石原知事は男女平等が嫌いらしいから。

 提出後の記者会見で、事務局の方は「石原都政下で、都の人権政策は一貫して後退してきた」と批判したと書かれている。なるほど。いくつかあげられた例を読む限りでも、確かに後退していると思われる。
 これまで人権活動と接点のない当事者に白書を通じてメッセージを伝えたいと話したとのこと。しかし、それぞれの当事者はすでに差別を充分感じていると思うが・・・

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2009年11月27日(金)
「手話は言葉」は当たり前

  「手話は言葉に相当」「事故で後遺障害認定」「聴覚障害女性支えた夫感激」などの見出しに目が留まった。
 「手話は言葉に相当」とは何?! 今頃まだそんなことを言っているの?! と思った。
 手話が言語としての「市民権」を得たのは、いまから20年ほど前に「手話通訳士」認定制度がスタートした時からだとしても、すでに20年が経っている。
 厚労省(当時は厚生省だったが)が「手話奉仕員養成制度」を始めた時からだとすれば 、40年ほどになる。今頃になって「手話は言葉に相当」と認めたとは、何という怠慢かと思った。

 しかし、実際問題としては、交通事故などで手が不自由になっても、損保会社は「手話は嗜好的なものだから」ということで、手話ができなくなったことを「言語障害」が残ったとは認識せず、身体への障害としてしまい、障害認定が低く抑えられてしまっていたらしい。
 聴覚障害者は絶対的な人数が少ないから、出会うチャンスはかなり限られている。だから、手話が聴覚障害者の「言語手段」として使用されているとの認識が薄くなっているのだろう。 一方、手話は歌手が「振り付け」的に使ったり、聞こえる俳優が演じるドラマのなかで「パフォーマンス」的に使われたりしてきたから、手話が「一人歩き」してきてしまったのだろう。それも「パフォーマンス」のひとつくらいの意味しかない状態で。

 「手話の一人歩き」については、通訳に関わる者達の間では危惧されていたのだが、名古屋地裁の裁判に関する記事を読むと、危惧されていたことが起きていたと分かった。
 障害等級で賠償額が違うわけだが、当初損保側は「後遺障害」を運動障害のみに限定し、11級としたとのこと。原告側は、後遺障害を6級と主張したとのこと。倍というか半分というのか分からないが、とにかく2倍近い開きがあったわけだ。裁判所は「言語能力の14%程度が失われたと認められる」とし、原告側要求額の半分ほどの額を賠償として認めたと書かれている。

 通訳制度ができて「市民権」を得たと思っていた手話だが、最終的には「裁判」の判決で決まることになった。色々の権利の殆どが、最終的には裁判によって決着をつけられるのだから、当然と言えば当然の結果だ。今回の裁判をきっかけに、泣き寝入り状態だった聴覚障害者が次々要求を出してくれば、手話は言語だという認識がもっと一般化するだろう。
 この判決で、手話の障害程度が主張より低く認定されたことでは、まだ不満が残る点があるようだ。「手話は言語」として認めることは認めたが、双手をあげての「賛成」ではなく、聞こえる者に配慮して遠慮がちに「賛成」の表明をしたというところか。

 以前から書いてきたことだが「数は力」で、数の多さによって「正義」が決まるようなことが多い。「少数者の人権を守る」ことができる社会こそが「民主主義社会」のはずだが、そこはまだまだ遠いことになっているようで、残念に思う。

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2009年11月23日(月)
養護施設での虐待は洋の東西を問わずか

 オーストラリアで、1930年代から70年代までに、国内の養護施設で、国内や英国から連れてこられた子どもたちに対して、精神的、肉体的、性的な虐待が行われていた事実を認め、「忘れられたオーストラリア人」とされる当時の入所者50万人もの国民に対し、首相が正式に謝罪したとのニュースを見て驚いた。

 養護施設で虐待のあることは、研究会仲間からの話で知っていたが、オーストラリアにもあるとは知らなかった。しかも、30年代という戦前の話だけでなく、70年代という息子たちが子どもの頃まであったとは。その上50万人というから、数の多さにも驚いた。 首相は、英国の植民地時代から70年代まで、白人社会への同化政策により、アボリジニなど先住民の子どもを親から引き離し、施設などへ収容した問題でも過ちを認めていて、今回の謝罪は、それに続く歴史的謝罪となった。と書かれている。

 とにかく、戦後も30年近く経った70年代に、オーストラリアでは人身売買のようなことがなされ、労働力確保という政策のために黙認されていたらしいことに驚く。
 英国首相も「送りだした立場」として公式謝罪したようだ。「自国民の子どもを、地球の裏側に捨てた史上唯一の国が英国だ」と、被害者のひとりが言っていると書かれている。英国は、アフリカなど植民地に対してひどいことをしてきた国だが、自国民に対してもひどいことをする国なのだと知った。大国とはそういうものかもしれないが。

 移民については、日本でも豊かな生活を謳って中米や南米に送り出した歴史があるから、余り偉そうなことは言えないかもしれないが、それでも自国の子どもをたたき出すようなことはしてこなかったと思う。満州に施設の子どもを送り込んだという話も聞いたことがない。

 当時の英国では、児童施設の予算確保に苦慮していたので、白人移民の増加を望んでいたオーストラリアに対し、国策として養護施設で選抜した子どもを送り込んでいたとのこと。子どもの始末に困った英国と、労働力不足に悩むオーストラリアとの、利害が一致したからやってしまったのだろう。養護施設の子どもといえども、人権を持った大事な国民のひとりであるという意識がなかったのだろうか。

 親に保護されていない子どもは、どこの国でも辛い目に遭わされるらしい。
 「子どもの権利条約」には、日本の立場では「こんな事まで入れる必要があるの」と思う項目があるが、世界中を見渡し、いろんな立場に置かれている子どもたちの全てを拾い上げようとすると、日本には不要と思われる項目も入れる必要があるのだ。

 「権利条約」で「不要」と思われる項目の多い国は、それだけ子どもの権利が守られていることになる。当たり前の言い方だが。
 日本では不要になる項目がひとつでも多くなるように、見守っていきたい。

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2009年11月18日(水)
性的接触の癌は放置されるべきか

  子宮頸がんの予防ワクチンが厚労省に承認されたとの報道があった。
 東京新聞の社説では、ワクチンを広く普及させ、大切な女性の身体を守るために、国は接種費用への支援を検討すべきだと書いている。

 子宮頸がんは20〜30代の女性に発生する癌のなかで最も多い癌で、毎年新たに3500人が亡くなっているとのこと。原因は性的接触によるヒトパピローマウィルスの感染が原因であることが分かっているから、ウィルス感染の前にワクチンを接種すれば、癌の発生をほぼ完全に防ぐことが可能だと海外の臨床実験で確かめられている、とも書かれている。海外の百カ国以上の国で承認されているとのこと。

 子宮頸がんは発見が遅れれば命に関わるし、助かっても子宮全摘が避けられないから子どもが産めなくなる。ワクチン接種でこうした悲劇を減らすことが可能になる。年末からの国内接種可能をきっかけに普及させたいが、接種費用が3万〜4万と高額だから、接種費用を公費負担にして、中学生年令の接種率を高めることを「日本産婦人科学会」などが提言しているとのこと。それに加え、定期的な検診を実施して、子宮頸がんの撲滅を図りたい、と結ばれている。

 これに対する「反対意見」が聞こえてくる。
 「子宮頸がんは若い女性の性的接触が増えたことによる。結婚まではセックスをしてはいけないとの教育を徹底することこそが、子宮頸がんの予防に有効なのだ。中学生くらいの女子にワクチン接種を公費でするなど、もってのほか。『ワクチン接種しているから、癌になる心配もない。どうぞセックスをおやりなさい』と奨励するようなものだ。国が若者にセックスを奨励するなど、本末転倒としか言いようがない。国は『結婚するまではセックスしてはいけない』と教えるべきだ。過激性教育のお先棒を担ぐような法案など作るべきではない」と。

 「結婚するまではセックスしてはいけない」と教えることに、反対するつもりはない。それはひとつの考え方であるし、宗教的理由でそう教えている場合もある。もっとも安全な行為でもある。
 しかし、今日の日本の現状のなかでは、とうてい説得力を持たないだろう。
 コンビニの週刊誌から、スポーツ新聞から、はては子ども向きの週刊誌、月刊誌、ネット情報に至るまで、あらゆる情報源を使って「早くセックスをおやりなさい。セックスは男にとっては良いことずくめの行為だよ。女だってやりたがっているよ。男に好かれるためにはやった方が良いことだと宣伝しているから、女もその気になってるよ。セックスしないのは遅れているよ」という情報がばらまかれている。これらの情報を野放しにしておいて、女性が子宮頸癌になったら「自業自得」みたいな言い方で、手だても取らずに放置しておいて良いのか。

 民主党は政策集の中で、任意接種に「助成制度」の創設を掲げているとのこと。政権交代のなった今、厚労省が英・独・仏などの諸外国並みの支援体制を目ざしてくれることを願う。政策とは「現実」を見据えたものであるべきだろう。お説教しているだけでは現実は動かない。むしろ、どんどんマイナス方向に進んでしまう。

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2009年11月14日(土)
母語教育は豊かさを生む

  「豊かさ生む母語教育」と「マイノリティーの権利」の見出しに惹かれて読んだ記事。 民族的マイノリティーの子どもたちが母語を学ぶ機会を失っている。日本でもマイノリティーの子どもらに母語教育をせず、不況で学費が払えなくなったブラジル人学校への政府の財政支援はない。国連では「マイノリティー・フォーラム」が新設され、「居住国が母語教育の場を与えるように」と勧告したそうだが。

 「マイノリティー・フォーラム」は、昨年12月に発足した新しい国連フォーラム。第1回テーマは「マイノリティーと教育への権利」で、議論の成果を国連人権理事会にあげ、勧告のかたちで人権基準を具体化するとのこと。
 日本の小・中・高校などに在籍する日本語指導の必要な外国人児童・生徒は、約2万9千人もいるとのこと。3万人近い子どもが母語教育を必要だなどとは、思ってもみなかった。

 世界では人口全体の20%がマイノリティーに属するという。20%もが異文化のなかで生活していることになる。今まで気にもとめなかったが。
 国連の考え方は「少数者の言葉や文化は『多様であることの豊かさ』を社会にもたらす。多くの国が多様性を持っている。母語教育も特別な子どもたちへの支援ではなく、社会そのものに豊かさを生むことになる」と明快だ。と書かれている。

 母語教育にこだわりがあるのは、聾者にとっての「母語」とは何かを考える必要があったからだ。
 聞こえない子ども、特に生まれた時から、または2才以前に聞こえなくなった子どもにとっては「音声日本語」は「母語」にはなり得ないからだ。
 「母語」とは、生まれてから3才頃までに聞かされて、本人の思考ベースになる言語をいうと考えるが、聞こえない子どもにとっては「聞かされる言葉」はないに等しい。

 以前は、または今でも、聞こえない子どもは、いち早く補聴器をつけて「聞こえる世界」に目覚めさせ、聞こえる環境を作って「音声日本語」の獲得に励ませる。
 しかし、その結果が「能力的に高い子ども」は、どうにか学習について行かれる程度の日本語獲得ができるが「能力的には普通の子ども」は、全員が劣等生に近くなってしまうという状況があった。今もあると思う。

 「聾者の母語は『手話』だ」との考え方がいくらかずつ広まってきてはいるが、まだまだ壁は厚い。それは、聞こえない子どもの大多数の親は聞こえるからだ。
 聞こえる親にとって、自分たちとは違う「民族」のようになってしまう「手話を母語とする子ども」の存在を認めることは難しい。
 「手話」が市民権を得てからずいぶんたつが、いざ我が子が・・・となった場合の親の受け止めはまた違うから厄介だ。
 手話が母語として認められる日はいつになるだろうか。

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2009年11月14日(土)
都心で「不満」を歌いたかった

  9/15の「日記」に「不平の合唱団」の公募があり、趣旨に大賛成だから応募したと書いた。その時、くじ運が悪いから抽選に外れるかもしれないとも書いた。
 案の定「残念ながら今回は・・・」とのメールが来て、抽選に外れた。おかげで、夜の練習に行くこともなく、早寝早起きの「健康優良児」のような生活を乱されることはなくて、今日に至った。

 健康上の心配があったので、夜の練習があるものには行かない方が良いとの「天の配剤」と思い、だんだん記憶から遠ざかっていた。
 しかし、きょうの新聞で「都心で不満を歌う」との記事が出たので、抽選に外れた残念さがよみがえった。「私もこの写真の中にいたかもしれない」と思うと、気分は良くない。
 
 各人が出した「不平」の例が出ていた。
 「すべての就活生に内定をください」これは女子大生。なるほど。実感がこもっている。
 「派遣契約 三ヶ月ごとにドキドキだ」これは深刻な不平だ。取り上げられて当然。
 「部屋が狭い 家賃が高い」これはそれほど深刻とは思えないが、取り上げられたのか。 「政治家は税金でキャバクラに行くな」キャバクラなんぞたいした問題とは思えない。税金でというならば、キャバクラなんぞでなく、袖の下をもらうなとか、自分の名声のために、利益誘導するなくらいは言ってほしい。

 いくつもの不平の中から、記者の独断と偏見で選んだとは思うが、それぞれ実感はこもっているものの、深刻な問題は少なかったのかなと感じてしまう。
 そうなると、私が書いた不平は深刻すぎて基準に合わなかったのかもしれない。日常感じているごく小さな個人的な不平を書いた方が、審査員のめがねにかなったのかもしれない。
 そう考えると、私は抽選で落とされたのではなく、審査員のめがねにかなわなかったから落とされたのかもしれない。どういうレベルの不平を書けばいいのか分からなかったから、できるだけ深刻に考えている大きな不平を書いてしまったのだが。

 公募による合唱団員は、7才から75才の男女約100人だそうだ。写真に写っているのは60人くらいのようだから、両側にあと20人ずつ居たのだろう。数回の練習と本番は一生の思い出に残るような活動だったと思う。
 参加できなかったのは残念だったが、六本木ヒルズという東京のど真ん中で「不平」を高らかに歌えるのは、日本が平和だという証拠だろう。オバマさんの来日で厳戒態勢の都心だが、中止にはさせられなかったのだから。
 平和だからこそ「不平」も言える。そのありがたさも参加者は分かっただろうか。

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2009年11月12日(木)
統一協会の犯罪認定される

  「統一協会の犯罪認定」との見出しに目が留まった。
 統一協会は、現役時代に関わらざるを得なかった団体なので、その後も消息に注意していたが、なりを潜めたのか、あまりに日常的になってマスコミの目に留まらなくなったのか、余り表に出てくることがなかった。

 久しぶりに出てきた事件ではあるが「新世」という別名での犯行で「統一協会」として裁かれたわけではないのが不満と言えば不満。
 「統一協会」は、いろんな名前を使って「犯罪」を重ねてきた。障害者をだしにして「野の花会」とかいう団体名で、スカーフだのなんだのを訪問販売したし、大学関係者に対しては「○○アカデミー」などと名乗って勧誘した。両者ともかつて我が家で被害を受けたり受けそうになったりした団体名だ。
 「○○を憂うる母の会」とか言って、学校に乗り込み「過激性教育」批判をして、自分たちの教理に基づく冊子を使っての授業をさせようとしたりもした。今もしているかもしれない。

 そんなこんなで大迷惑の「統一協会」だが、印鑑やつぼを売りつけるという本質的な犯罪性が暴かれた点では前進だった。
 「信仰と混然一体となっているマニュアル」をもとに「統一協会の信者を増やすことをも目的」として行われた犯罪で「相当高度な組織性が認められる継続的犯行」だと認定したそうだ。
 「統一協会信者」の被告側弁護士は「控訴しない」と述べたそうだから、特定商取引法違反は確定するらしい。今後は同様の「犯行」はやりにくくなるだろうから、資金面では打撃だろう。

 霊感商法が社会問題化してから30年近くになるとの記事も載っている。行政・司法が放置し続けてきた異常性を弁護士は指摘し、今回の判決が「潮目変える 意義大きい判決」と述べた。と書かれている。
 1987年の結成以来、全国弁連がまとめた被害相談だけで約3万件、1062億円。実被害は1兆円を超すとのこと。最近も全国の信者に「日本に殿堂を建てる」の名目で一人140万円の献金を指示したと言われている。

 新興宗教が色々出てきて、何かというと「献金」をさせるようだ。どこまでを「新興宗教」というのかよく分からないが、創価学会などもずいぶん立派な「会館」を持っている。あれも信者の「献金」だろう。
 「統一協会」はまだ「殿堂」を持っていなかったらしいが、ひとり140万も出させればすぐにできるだろう。いったん立派な「殿堂」ができると、それがまた集客効果を発揮してますます大きな団体になっていくのではないか。しかし、140万の献金をどうやって信者は出すのだろうか。そのための犯罪が起きないかと余計な心配をしてしまう。

 自民党などの政治家が「統一協会」を選挙活動に利用していたから、取り締まりに消極的になっていたとの噂を聞いたこともある。今回政権交代したから、こういう問題でもきっちり指導力を発揮してもらいたいものだ。
 宗教を否定するわけではないが、金儲けのために宗教を利用することは許せない。

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2009年11月7日(土)
死者の日はガイコツを飾る?!

  大きな骸骨の写真と「ガイコツあふれる『死者の日』」の見出しにつられて読んだ記事。 メキシコでは「死者の日」にはガイコツを飾る風習があるらしい。
 「死者の日」を11月第1日曜日にしているのはカトリックで、死者を記念する日という意味では「お盆」と似ているかもしれないが、先祖が帰ってくる日というよりは、死者一般を記念する日だから「お盆」よりも広い感じがする。

 メキシコはカトリック国だから「死者の日」を国を挙げて祝うのは分かる。しかし、カトリック国が全てガイコツを飾るわけではないから、ガイコツはメキシコ独自の風習に違いない。多分、メキシコの土俗信仰と混じったものだろう。

 「死者の日」は、我が家でも久しぶりに息子たちと母の眠る墓地に行った。具合が悪いとか、忙しいとか、色々理由をこじつけて、なかなか行き出さなかったので、母の遺骨を納めた我が家の墓は、どこからか侵入したササに覆われ、墓石も見えない状態になっていた。「アリャーっ」と周りを見回すと、後の墓も我が家と同様。しかし、前も隣もきれいさっぱりしている。どれくらい来なかったかの通信簿をもらった気分。あわてて剪定をし、何とかこざっぱりさせた。

 「死者の日」のミサが墓地にある聖堂であるからと、時間を合わせて参列した。用心して30分も前に行ったので、前の方の席に座れた。時間ぎりぎりに来た方は、椅子が無くて立って参列していた。1時間ばかりのミサだから立っていても何とかなるが、それでも座っての参列の方が落ち着いていられた。

 日本はメキシコのようにカトリック国ではないから「死者の日」にミサをあげていることなど知られてはいないだろう。カトリックは先祖を祀らないと言われたこともある。「お盆」と時期は違うが、死者に対する礼は粗末にはしていないと強調したい。

 日本では「死者の日」の前夜にある「ハロウィン」の方が有名になりつつある。
 クリスマスもそうだが、お祭り騒ぎをしたり、商売になったりという行事はどんどん広がっていくが、静かにすごすとか、金儲けにならないことはなかなか広がっていかない。何とも不思議な国だ。

 戦後の教育が悪かったなどと言ったら、右の方を喜ばせることになりそうだが、宗教教育の禁止を誤って捉え、人間を越えた存在についての畏敬の念まで消してしまったようだ。 人が見ていなければ何をしても良い。分からなければ悪いことをしてもかまわない。という風潮は「天知る 地知る」という、人智を越えた見えない存在を意識しないところから生まれてきたのではないだろうか。
 「死者の日」は、そんなことを考える日でもあった。

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2009年11月7日(土)
リズムは身体で感じるもの

  「手話でダンス!」の見出しにつられて読んだ記事。「聴覚障害者が音楽イベント」とある。川崎の「クラブチッタ」で開催するそうだ。
 写真はリハーサルではなく、昨年の「'DLIVE(ドライブ)」(デフライブを縮めて、もじっているようだ)の時のものだと書かれている。今年、同様の舞台があるかどうかは分からない。14組の出演者があるとのこと。大学の手話サークルも応援出演するらしい。

 「コヤマドライビングスクール」が主催するイベントで、今年で6回目だそうだ。自動車学校がなぜ主催するのかと思ってネットで調べてみると、この自動車学校の指導員は手話ができる人が多いらしい。そんな関係で聴覚障害者のイベントを考えついたようだ。
 
 今年で6回目だというが、今まで知らなかった。新聞などで取り上げられたことはなかったのか、見落としていたのか。イベント収益の一部はデフリンピックなどの活動資金に寄付されるそうだが、それにしても入場料をS席では3000円も取る。一般席でも2500円も取るようなイベントにもかかわらず、今までに4500人も動員したとのこと。毎回900人くらいの入場者があったということになる。7割は健聴者だそうだが、どんな人が見に行くのだろう。若者が多いのか。2500円出して若者が行かれるのか。景気低迷で若者の懐は厳しい秋風だろうが。
 どんな舞台かを見たい気持ちはあるが、12/5は他の行事とぶつかっているから行かれそうにない。残念だが来年に期待しよう。

 聴覚障害者が音楽イベントというと「できるのか?!」と思う人もいるかもしれない。聞こえないのに音楽とはと。確かに「メロディ」は不可能に近い。残念ながら音程を聞き分ける聴力はない。しかし、音楽はメロディだけではない。もっと大事なリズムがある。リズムは本来身体で感じるもので、耳だけで感じるものではないから、聴力に障害があっても充分身につけることはできる。

 今回はなのか、今回もなのか分からないが、ステージ最前列のカウントマンの指示に従ってリズミカルに踊りと手話を披露するとのことだが、多分曲に合わせる必要があることと、出演者が動きを合わせる必要があるためだろう。ひとりで曲に合わせる必要がなければカウントマンは必要ないはずだ。自分のリズムで充分表現可能だから。
 ともかく、観客の健聴者にとっては、カウントマンの存在は感じられないだろう。踊り込んでいるはずだから、出演者の意気は合っているだろうし、出だしが分かれば後は自分たちでこなして行かれるだろう。アマかプロかでいらくらの差はあるだろうが、1年に1度の晴舞台になるはずだから、気合いを入れて練習していることだろう。

 手話狂言、手話劇、手話落語映画制作、など、など。聴覚障害者も独自の文化を創り出してきている。生きるのに精一杯、仕事をするだけで満足すべきと思われていた時代からは隔世の感がある。やっと文化を享受できるところまでに、力をつけてきたということで嬉しい限りだ。

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2009年11月5日(木)
"レインボーカレッジ"ができていた

  学生の性的マイノリティーのネットワーク「レインボーカレッジ」があり、今回150を超える大学や専門学校で、セクハラ防止規定の有無や内容について調査した結果を明らかにした。との記事が目に留まった。
 
 レインボーは同性愛者のシンボル「レインボーフラッグ」から取ったのだろうとは推察できるが、学生たちが自らネットワークを作っていることは知らなかった。
 40年以上前だろうか。同性愛であるとカムアウトした南さんが、ゲイ向けの雑誌を創刊した。あの頃を「第1世代」とするならば、今は第3世代か第4世代になっているのだろう。

 余りにも差別が強くてカムアウトなどできず、同性愛者でありながら結婚し、子どもを育て、熟年期どころか老年期になってやっとカムアウトする状況だった第1世代から見たら、現在の状況は隔世の感だろう。「私は早く生まれすぎた」と言うかもしれない。
 第1世代の奮闘があり、第2世代に受け継がれ、現在では「みんなのキャンパス〜LGBTのための学生生活ガイド」がネット上に作られるまでになった。

 思春期の自殺のなかに「自分は同性愛だ」という理由があったのは過去のことになりつつあるのだろうか。
 息子たちがまだ大学生だった頃、同性愛についてどう思うか聞いたことがあった。3人とも「別にどうということはない」という調子の受け答えだった記憶がある。特に1年間アメリカに行っていた次男は「向こうでは『僕同性愛です』という学生が居た」と言っていた。その時に「時代は変わっている」と感じたものだが、今ではネットという強い味方ができたから、変わり方が急だと思う。

 早稲田大学で、教授がゲイを侮蔑した発言をしたことで不快な思いをし、セクハラ防止委員会に行くと、初めてで知識がないと言われ"みんなのキャンパス"を活用し、他大学では規定があることを説明し、規定に加えてほしいと訴えた。その後、教授向け規定に「性的指向差別をしてはならない」と書き加えさせた。との発言があったと書かれている。
 教授というからには年配者なのだろう。大学教授などとあがめられているが、専門外のことには疎く、時代の流れも掴んでいない場合が多い。特にセクシュアリティの面では何ともいただけない方も多い。早く考えを改めてもらうには「規定」の変更も有効なのだろう。本人が気づいて変えることはなかなか困難だろうから。

 今時の学生は無気力で・・・というが、自分が直面している問題があれば、それをなんとかしようと活動する。性的マイノリティであることは、大きなハンディではあるかもしれないが、自分が活動することで社会を変えることができることを学ぶことができる有利な存在でもある。そう考えて、今後も変革のために活動を続けてほしい。

2009年11月2日(月)
"さよなら自立支援法"の実現を

     集会のもようを伝える紙面

 10/30に「日本障害者協議会」「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動実行委員会」「全日本ろうあ連盟」などで作る「実行委員会」主催の「10・30全国大フォーラム」が開かれ、全国各地から約1万人が東京日比谷野外音楽堂に集まったとの記事が目に留まった。

 これは毎年この時期に開かれている大集会だが、今年は政権交代があり、長妻厚労相が来賓として出席し「自立支援法廃止は決断している。4年間の政権担当期間で、応益負担から応能負担に切り替えたい」と発言した。と書かれている。参加者の意気が上がったと推測される。反貧困の湯浅氏や自立支援法違憲訴訟の原告も発言したとのこと。
 「応益負担を応能負担に」は、障害者だけの問題ではない。高齢者の問題でもあり、弱者全体の問題でもある。障害者が先頭に立って弱者に対する「冷たい政治」の変革を図ろうとしている。そんな気持ちで見るせいか、紙面に写っている障害者の顔がりりしく見える。
 障害者新法の作成には「当事者」の参加を要求している。障害者のための法律なのだから、障害者が参加するのは当然だと思うが、今までは「法律」ということで「法律の専門家」が作っていたようだ。そうなれば、当然当事者の不便さや困難さには思いが至らないから、机上の空論での法律ができてしまう。
 「自立していくためには1割くらいの負担があって当然」とされたのだろうが、小規模作業で働く障害者が、35000円の負担を強いられ、作業の工賃は10000円にしかならないような状況など思いが及ばなかっただろう。

 障害者の定義も改訂が必要だろう。古典的な「身体障害」「知的障害」に加え「内部障害」に色々の障害が新たに加えられねばならない。「精神障害」はやっと市民権を得るまでになったが、まだまだ社会的認知度は低いと思う。差別の問題は一向に改善されていないようにも思う。
 障害の幅を広げると予算を食われるようになるから、できるだけ幅を狭くしようとしていたのが今までの自公政権のやり方だった。今回の政権交代でそれはどれくらい広げられるだろうか。今後の動きに注目して行かねば。

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