人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

トップページに戻る      ご意見、ご質問はこちらから

<<前のページ | 次のページ>>
2009年1月9日(金)
観光案内はきめ細かくお願いしたい

  昨年の暮れに、高校時代の恩師が亡くなった。
 父のいなかった私にとっては、父親のような兄貴のような存在の方だった。かといって、卒業後は、進学、就職、結婚、子育てと、自分の毎日を処理していくことで精一杯だったから、離れた地に移ったこともあり、足繁くお邪魔することはなかったが。

 往復で5、6時間かかる所にお住まいだったので、通夜や葬儀には行かれなかった。
 けじめをつけるには一度伺わねばと、正月になってから出かけた。葬儀とその後の慌ただしさが一段落していたので、顔を知っているお連れ合いから、いろいろ話を聞くことができた。

 10年ほど前に、4、5人の同級生達と伺った時には、すでに肺の病気が進行していたため、出歩くことにも支障がある状況だった。「ヘビースモーカーだったから仕方ない。自業自得だよ」と言われていた。
 しかし、昨年の夏に同期会をした時には、気候が良くないので参加できないが、気候がよい時に開催すれば行きたい。との話だったから、今年は気候の良い時にすればお会いできるかと思っていた。

 亡くなったとの報を聞いた時には、肺炎にでもなられたのかと思っていたが、肺ガンだったとのこと。医者にはずっと掛かっていたのに、医者も本人も家族も気づかず、分かった時点では手遅れになっていたとのこと。母の場合も同様だった。医学が進歩して、検査をすれば分かるようにはなったが、検査をしようと決めるのは医師だから、そこが気を回してくれないと、どうしようもない。

 せっかく来たからと、帰りに新しい観光名所になったという「水門」を見に行った。港に津波が押し寄せた時に防ぐための水門だそうで、高さがあるから眺めは素晴らしかった。 観光案内には、港までバスがあると書かれていたから、バスに乗って駅まで行こうと、バス停に向かった。
 時刻表を見て驚いた。1時間に1本どころではない。午前中に数本のバスがあるだけで、午後のバスは0なのだ。
 港は街から外れているから、少し歩いて街の中に入れば、バスがあるだろうとのんきに構えて、歩き出した。

 2、3カ所のバス停を通り過ぎたが、通過時刻の書かれた時刻表はいっこうに表れない。そのうち、町中を流れている川沿いの「プロムナード」に出てしまった。そこには駅名の表示があったので、ネットの観光案内に書かれていたコースの一つだと思いだし、川沿いの道をテクテクと20分以上歩いて、駅に着いた。
 観光案内を見るだけでなく、問い合わせをすべきなのかもしれないが、行きは良いよいのような案内は不親切だと感じた。「帰りはバスがないので・・・」と書いてくれる方が親切だと思うのだが。そんなことを書いては、観光客が来なくなるから書けるはずがないか。

2009年1月3日(土)
救急隊員は、家族より詳しい?!

  正月だというのに、と言うのは当たらず、正月だからかもしれない。救急車のサイレンが聞こえた。
 それでヒョイと思い出したことがある。

 3年前の夏、息子が突然倒れて救急車を呼んだ。その時は、自分で救急車を呼ぶことは初めてだったので、ハイハイと救急隊員の言われるままに動いていた。どういう状況かを説明し、救急車に乗って病院に向かった。
 病院に着くと「そちらで待っていてください」と言われ、待合室で待たされた。2時間近くも待たされてから呼ばれて、医師から説明を受けた。

 昨年の秋、また息子が倒れて救急車を呼ぶ羽目になった。
 救急車はすぐに来てくれたが、受け入れ病院が見つからず、40分くらいも車内に缶詰になり「済みません。トイレに行って来ます」という事態も起きた。車内で、状況をいろいろ説明するが、救急隊員の受け取り方は曖昧で「よく分かってないみたいだけど、大丈夫かいな」と思った。

 やっと受け入れ先が決まって、救急車を呼んでから1時間後くらいに、どうにか見てくれるという病院にたどり着いた。それでも退院時に乗った福祉タクシーの担当者の話では、まだ良い方らしい。退院に付き合ったケースでは、2市も離れている病院に運ばれた例があるとのことだ。この3年間で救急医療が悪化していることを身をもって知った。

 病院に着くと、またもや「こちらでお待ちください」になった。今回は服用している薬の副作用だと思われるので、意識のない息子に代わって状況説明する必要があるはずなのに、家族は医師に説明できない。とぎれとぎれに聞いた救急隊員の話から判断することになってしまった。
 一緒にいて、本人の通常の状態をよく知っていて、どう変化したかも掴めている家族よりも、たまたまその時に行き会わせて、その時の状況だけを聞いている救急隊員の方が、客観的で適切な状況説明ができるということなのだろうか。

 家族は身びいきがあったりして、客観的に状況を説明できない。救急車を呼ぶような状況になって気が動転しているから、冷静な状況説明は困難である。蘇生、気管切開、器具の挿入など、家族が見ていては充分治療することができない状況になるから、家族は邪魔である。

 理由は様々あるのだろうが、医療現場では、家族は素人で、救急隊員や医師、看護士はプロだから、プロのやることに素人の口を挟ませない。という姿勢の表れではないかと勘ぐってしまう。
医師と患者が手を組んで、ともに病気と闘う同志になるのだとか聞くが、まだまだ、そうはなっていないように思う。
 今年は、医師不足問題と合わせて、患者と家族、医師の間の意思疎通についても論議されたら嬉しい。

トップページに戻る    ご意見、ご質問はこちらから