人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2008年12月26日(金)
英枢機卿が資本主義を批判

    枢機卿の批判を伝える紙面

 昨日の新聞にタイトルのような見出しの記事があった。
 イングランド、ウェールズのカトリック司教会議の議長を兼ね、両地域のカトリック司教の最高位にある、ウェストミンスター大司教が、クリスマスのミサで、投機家など特定集団の利益に奉仕する、現在の資本主義のあり方を批判し、公益や道徳を重視するよう訴えたという内容。直接に市場経済の批判はしないとしながらも「市場経済は、道徳的な目的が根本にある場合のみ正しく動く」と発言し、一部の利益に奉仕する資本主義の現状を批判し、その変革を求めたと書かれている。

 カトリック教会は、政治的発言はしない方が良いとか、この頃の日本のカトリック教会は、共産主義のような活動をしているという批判が、カトリック右派と言われる人達から出ている。カトリック教会は、地上の問題には関わらない方が良いという論だ。カトリックの有名人は、残念ながら多くがこの考えらしい。麻生首相もそれかもしれない。

 しかし、人間がこの世で生活している限り、地上の問題に関わらざるを得ないではないか。
 派遣社員が数万人首切りにあっている状況がある。
 日系ブラジル人が首切りにあい、子どもたちは学校に行かれなくなって、毎日教会に来ている状況が生まれている。やむを得ず、教会では勉強の面倒を見たり、昼食を振る舞ったりしている。その費用は全て信者の寄付に頼っている。
 なぜ、首切りが起きたのかを考えれば、投機家の動きに行き着く。しかも、首切りをしながら、役員報酬や株の配当はそのままだったり、増やしたりしている。

 弱者が切り捨てられる状況を見て「おかしい」と感じない人間の方がおかしいのではないか。「それも神の思し召し」だというのだろうか。「この世では困難があるかもしれないが、天国の幸せのためだから我慢しろ」というのだろうか。自分たちはぬくぬくと生活していながら、寒空に家のない人達を見捨てて平気でいられるのが「良き信者」であるとは思えない。

 「私は困っている人達を助けています」という人も、困っている人達に「施し」をすることですまそうとしているように感じる。
 「施し」をしているだけでは、状況の改善にはならない。「施し」を必要としない社会にすることが、真の助けではないのか。
 
 真の助けを考えれば、当然今の資本主義を批判することになる。表現されたものが「共産主義」的に見えても、寄って立つところは全く違う。表現されたものが同じだからと一緒にして「おかしい」と言ってもらっては困る。言うことによって「特定の集団」に奉仕する今の資本主義を擁護することになるのだから。
 日本ではなく、イギリスの教会でも同じことが起きているのは意味深い。日本の教会だけが左傾化しているのではなく、世界各国の教会が現実を見据えていることの証明だから。

2008年12月23日(火)
魔法使いが街を行く

  時々電車に乗って都会に出て行くと、今時の流行りが分かる。
 電車の乗り換えで、ホームや階段を歩く時は、足下が気になるからどうしても下を見て歩くことになる。そのため、周りの人の靴ばかり見るはめになる。

 女性が先のとがった靴を履いているのは「また、昔の流行りが繰り返されている」とあまり気にもとめなかった。
 かつて20代の頃に、トンガリ靴が流行って、エナメルのトンガリ靴をはいた覚えがある。 その後40代になった頃にまた流行りだした。その時は、膝まであるブーツも流行っていて、職場の忘年会に行く途中の靴屋で、先細のブーツを衝動買いしてしまい、その後、もったいないから履いてはいたが、そのたびに足先が痛くなって、衝動買いを後悔していた。今も下駄箱に入ってはいるが、すでに7、8年履いたことがない。
 靴に限らないが、女性の流行は割合はっきりした周期があるから、繰り返されていることが分かる。分かるからあまり驚かない。

 先日は、男性が魔法使いのような靴を履いているのを見た。少し先細の靴を男も履くのは、見慣れた光景だから驚かないが、先日の靴は特別だった。階段を下りているのを見たが、靴が半分くらい段からはみ出ているのだ。降りるから半分出ていても支障はなかったが、あれが上りになったらどうなるだろうかと、いらぬ心配をしてしまった。下りの向きを変えた状況をイメージすると、つま先くらいしか段には入らなくなる計算だ。どうやって階段を上るのだろうかと、後に付いていって確かめたい気分だった。

 個性を出したい。人と同じではつまらない。自分だけの表現をしたいという気持ちの表れだろうが、結果としては流行に振り回されて、自分に合っているかどうか、機能性はどうなのか、安全性の保障は、などということが抜けてしまっているように思われる。
 あの靴で階段から落ちたら、鉄道会社に補償請求ができるのだろうか。
 足先を踏まれて転んで怪我をしたら、踏んだ相手に補償請求ができるのだろうか。
 車の運転していて事故を起こした時に、補償請求ができるのだろうか。
 過失相殺といわれて、保障がでないか、わずかになるのではないのか。

 人のことだから、いらぬお節介と言われそうだが、ほっておいていい問題なのだろうか。キテレツを好む人間がいるから、それに合わせて作るのだと、メーカーは開き直るのだろう。「ご本人がお選びになるのですから」とか何とかいって、自己責任にしてしまうだろう。しかし、電化製品なら「安全基準」があったり、玩具や家具などには製造責任が科せられるご時世なのだから、安全基準を靴に付けてもおかしくはないだろう。どう考えても安全とは思われない靴を製造しても何も言われないのは、納得できない。
 消費者が選択することで、おかしな物は無くなっていくなどと、悠長なことを言っていていいのか。怪我をするのを待っているので、製造者の責任はとれているのだろうか。 

2008年12月17日(水)
喫煙問題でも「夜明け前の人」

  室内での受動喫煙を防げないと報道する紙面

 JR東日本では、都内の主要駅のホームを全面禁煙にすると発表した。時々利用する渋谷駅や新宿、池袋駅が禁煙になるのは有り難い。渋谷駅などは、乗り換えで階段を上ると、途中から咳が出て、息を止めるようにして駆け上り、ホームの中央に避難していたから随分助かる。煙は上に行くはずなのに、ホーム下に続く階段にたまるのはなぜか、不思議に思ったが、ついに原因を突き止める前に禁煙になるようだ。

 先月の新聞には「ホタル族も受動喫煙の被害を与えている」との記事も出た。ベランダで吸っていると、室内に煙が入ってきて、室内にいる人の受動喫煙を防げないのだとの研究結果が出ていた。

 先週行ったファミレスでは、店内全面禁煙だった。昼食の時間帯のみ全面禁煙の店は知っていたが、店内全面禁煙は初めてだったので、「全面禁煙にして、お客さんが減りませんか」と余計なことを聞いてみた。すると「いくらか減ったかもしれませんが、他の店も同様ですから、ほとんど影響はありません。お客さんも分かっていて、外で吸ってくださいます」との答だった。

 かつて、職場で唯一の「禁煙推進者」だった私としては「40年早く生まれすぎた」の感がある。
 唯一だったため、いろんな嫌がらせを受けた。「公印を捨てられる」という事件まであった。「奇人・変人」の称号も授かった。
 私の場合は、単なる「嫌煙」ではなく、煙を吸い込むと咳が止まらなくなる「実害」があるからの「推進者」だったが、理解してもらえなかった。

 どんな問題にも「夜明け前の人」はついて回るのだろうし、そういう人が居なければ、世の中は変わっていかない。それはよく分かっているが、常に「夜明け前の人」になってしまう巡り合わせは、なかなかしんどいことが多い。
 荒れ地を切り開いて道を造り、家を造り、町を作る。血のにじむような努力の末に町ができると、次々と人がやってくる。そして、町を作った人のことなどまるで関係ないかのように、大きな顔をして町を動かしていく。それが歴史というものの本質かもしれないが。

 とにかく、煙草を吸う人の方が遠慮がちになってきた今日の状況は、かつてを知る者としては感慨深いものがある。禁煙が当たり前になった社会を見ることができるのは、幸せと言うべきかもしれないが。
 「夜明け前」の人の多くは、夜明けを見ずにこの世を去っているのだから、日の出を見られただけでも「果報者」と思わねばなるまい。
 街には歩行禁煙のゾーンができ、建物内は全面禁煙、自宅のベランダでも喫煙できないとなると、愛煙家の皆さんは、どこで吸うのだろうか。吸う場が無くなる時まで、見届けたいものだ。 

2008年12月12日(金)
エイズなんてチョロいもんよ?!

 「エイズ予防の今」と、「啓発コンサートを続けるジャズベーシスト紹介」の紙面

 12/1は、世界エイズデーだった。だから何かあったかというと、何もなかったような気がする。
 一時は、有名人がコンドームを持ったり、薬害エイズで厚労省前のデモがあったりと、随分エイズについての情報が出まわっていた。しかし、薬害エイズが和解を見たあとからは、「性感染症」としてのエイズになり、マスコミも取り上げ難くなったのか、あまり情報がマスコミに出なくなってきているように思う。

 先進国のなかでは唯一、患者・感染者が増えているのにと気になっていたが、取り上げなくなった理由の一つになるような記事を見つけた。
 「めざましい治療の進歩」、「薬で発症抑え日常生活も」との見出しに見られるように、治療の進歩で、初期のような「不治の病」でなくなったことから「エイズなんてチョロい。薬を飲めばいいんでしょ」と安易に考える人が増えているのだとのこと。

 なるほど。以前のように「不治の病」となれば、怖さでそれなりに用心したり、安易な性交にブレーキをかける人が増えただろうが、薬を飲めば死ぬことはないと分かって、そうそう気を付ける必要はないと、安易に考える人が増えて来ているのだ。
 今時の日本人の「危険」に対するのんきさ加減がよく分かる。

 不治の病だと恐れるあまり、感染者に対する差別や偏見が強くて、薬害エイズであるにも関わらず、名乗れなかった時代を知っている身としては「薬を飲めばいいんでしょ」と言える今日の状況を、どう受け止めたらいいのか、とまどってしまう。
 「梅毒」「淋病」「クラミジア」などと、同列に「エイズ」が置かれる日の来ることを、願ってはいた。しかし、「薬を飲めばいいんでしょ」と片づけられてしまうと、「オイオイ。そんな簡単なものじゃないよ」と言いたくなる。

 性交渉で感染した当人は、薬を飲めばいいんでしょですむかもしれない。しかし、安易に考えている感染者だから、少し体調の変化があっても診察を受けず、知らずに性交渉を続け、何人もの人に感染させる可能性が高い。そのあげく、HIV感染を飛び越えて「いきなりエイズ」になってしまう例が増えているらしい。近所迷惑も良いところで、迷惑などと言う軽いものではすまない。

 「いきなりエイズ」は、中高年に目立つというのも、「うん?!」と思うところだ。発症までに10年くらいかかることからすると、90年代頃に30代40代の働き盛りだった人達ということになる。当時は、バブル期からその後の崩壊期にあたるから、海外も含めた出張や、単身赴任も多かっただろう。外国で感染してきたのではないだろうか。1996年の「薬害エイズ」の和解があった頃だから、国内での性感染症としてのHIVは、それほど多くはなかったと思う。
  企業戦士がちょっと息抜きした結果感染し、感染に気づかず妻に感染させる。国内でも「援交」して、若い女性に感染させる。さんざん広げたあげく、自分は「いきなりエイズ」になってしまう。当時の働き盛りが、国内の風俗や援交で感染させられたとは考えにくいから、海外から持ち帰ったと推理するのだが。

 企業のエイズ対策は、どうなっているのだろうか。一時期パスポートを持ったポスターが問題になったが、国内向けにしっかり続けられているのだろうか。
 そのなかで、性教育はしっかり根付いているのだろうか。「薬を飲めばいいんでしょ」では済まない問題なのだから、たとえ景気が悪くなっても続けてもらわねばならない。 

2008年12月6日(土)
真面目な男はどうやって性を学ぶのか

  市民館で「夫婦の問い直し」についての講座を開いた。「家庭内別居」とまでは行かなくても、長年連れ添った夫婦で、しっくりいってないカップルは結構多い。そんな夫婦にとっては、互いを再度見直して、ふたりの関係性を改善することは意味があると思っての講座開催。

 ふたりの関係性となれば、当然「性」についても話は及ぶ。従来は男性中心で、男のペースでことが進められていたが、それでは互いの関係がうまく行くはずはない。
 性が女性にとってどんな意味があるのか、互いが心地よさを感ずるためには何が必要かなど、問い直すことは多くある。

 市民館の講座だから、当然市民館の職員も話を聞いた。講座開催に関わった立場では、どういう反応があるのか知りたかったから、聞いてみた。
 すると「初めて聞いた話です」との答が返ってきた。市民館の職員ということは公務員ということになる。いかにも「公務員」という感じの「真面目がネクタイ締めている」様な男性だが、それにしても結婚しているようには見える。初めて知ったとなると、子作りについてはどこで学んだのだろう。それとも、今はやりのセックスレスなのだろうか。

 真面目な男性は「ポルノ情報」から学ぶことに抵抗があるだろう。そうなると、何から学ぶことになるのか。「ポルノ情報」から学んだ友達から知識を仕入れるのだろうか。
 いずれにしても、真面目な男性といえども、今日の日本国にいる限り、ポルノ情報から逃れることはできない。直接か間接かの違いで、性についてはポルノ情報しか、入手の手段がないのだろうから。

 学校で性教育ができなくなった今日、真面目な男までポルノに取り込まれることになってしまった。結果としては、互いの関係性を親密にし、癒しと活力を与えるような性行動は育たないことになる。
 シニアのための夫婦関係見直し講座ではなく、若者のための夫婦関係構築講座の開催が必要だろう。
 本来は、学校のなかでそれがされるべきであるのに、できないままで放置して良いのだろうか。世の若者は、それでもかまわないのか。世のおとな達は、不幸を招くことに手を貸していることに気が付かないのだろうか。

 10年後に取り返しの付かないことになった時、まともな性教育をさせないようにした政府要人は、どう釈明するのだろうか。その頃には、責任問題になることはないとタカをくくっているのだろうか。「不作為」の責任があることを、考えていないのだろうか。
 あの人、この人と名前が分かっている人たちには、直接会って考えを聞きたいものだ。 

2008年12月2日(火)
柔らかいことが旨いことか

  毎日毎日「よくも飽きずに」と思うが、料理番組、グルメ番組が、テレビの画面から出てくる。
 年金生活では、「フォアグラ」「キャビア」などはいうに及ばず、「せきさば」だの「クロマグロ」なども、まるで縁がないから、見るだけ時間の無駄と、できるだけ見ないようにしている。

 8/22の『はらだち日記』では、グルメと栄養は両立しないのではないかと書いた。栄養素を捨てて、うまさを取るよりは、多少まずくても栄養素がしっかり入っている物を食べて、健康に生活できる方が良いのではないかと。負け犬の遠吠えに近い論理かもしれないが、「憎まれっ子世にはばかる」とあわせて、80過ぎになった時「どうだ。正しかっただろう」と言ってやりたいと思っている。
 
 もう一つうまさで気になるのは「柔らかいことがうまいこと」という風潮だ。
 美味しいと言われている物を食べた時の、レポーターによるコメントの決まり文句が「柔らかくておいしいですね」だ。
ほとんど何を食べても「柔らかいですね。美味しいですね」となる。柔らかいことがうまさの必要条件のようだ。

 柔らかいことがうまいこととほぼ同義語になったのは、いつからだろうか。テレビで料理やグルメ番組が盛んになったのは、そんなに古いことではないと思う。そして、本当に舌の肥えた料理通とは言えない、若さだけがウリだったり、イケメンだけで勝負しているようなにわかレポーター達が、争って「旨い物」レポートを始めた頃から、「柔らかいですね。美味しいですね」になってきたように思う。つまり、本当の微妙なうまさを表現する言葉を持たないレポーターが、自分にできる表現として「柔らかいですね」を言い出したのではないか。
 
 むかし、なかなか美味しいものも柔らかいものも口に入らぬ庶民は、堅いものを噛んで生活したからあごが発達した。しかし、貴族などは柔らかい物ばかり食べていたから、あごが発達せずとがったあごになっていたという話を聞いたことがある。
 今の若者も、とがったあごになってきて、歯並びの悪い若者が増えているとも聞いている。
 老人が柔らかいものを好むのは、歯が痛んできているからだが、まだまだ若いと思う連中まで、柔らかい物ばかり食べるようになったら、この先どうなるのか。あごがしっかりせず、ぐっと歯を食いしばれないような人間が多くなったら、我が日本国の将来は危ういのではないか。歯を食いしばらねばならぬ事態が、続々起きてくることを予感させる昨今の情勢なのだから。
 願わくば、柔らかいことがうまいこととの風潮は、改めてもらいたいものだ。

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