枢機卿の批判を伝える紙面
昨日の新聞にタイトルのような見出しの記事があった。
イングランド、ウェールズのカトリック司教会議の議長を兼ね、両地域のカトリック司教の最高位にある、ウェストミンスター大司教が、クリスマスのミサで、投機家など特定集団の利益に奉仕する、現在の資本主義のあり方を批判し、公益や道徳を重視するよう訴えたという内容。直接に市場経済の批判はしないとしながらも「市場経済は、道徳的な目的が根本にある場合のみ正しく動く」と発言し、一部の利益に奉仕する資本主義の現状を批判し、その変革を求めたと書かれている。
カトリック教会は、政治的発言はしない方が良いとか、この頃の日本のカトリック教会は、共産主義のような活動をしているという批判が、カトリック右派と言われる人達から出ている。カトリック教会は、地上の問題には関わらない方が良いという論だ。カトリックの有名人は、残念ながら多くがこの考えらしい。麻生首相もそれかもしれない。
しかし、人間がこの世で生活している限り、地上の問題に関わらざるを得ないではないか。
派遣社員が数万人首切りにあっている状況がある。
日系ブラジル人が首切りにあい、子どもたちは学校に行かれなくなって、毎日教会に来ている状況が生まれている。やむを得ず、教会では勉強の面倒を見たり、昼食を振る舞ったりしている。その費用は全て信者の寄付に頼っている。
なぜ、首切りが起きたのかを考えれば、投機家の動きに行き着く。しかも、首切りをしながら、役員報酬や株の配当はそのままだったり、増やしたりしている。
弱者が切り捨てられる状況を見て「おかしい」と感じない人間の方がおかしいのではないか。「それも神の思し召し」だというのだろうか。「この世では困難があるかもしれないが、天国の幸せのためだから我慢しろ」というのだろうか。自分たちはぬくぬくと生活していながら、寒空に家のない人達を見捨てて平気でいられるのが「良き信者」であるとは思えない。
「私は困っている人達を助けています」という人も、困っている人達に「施し」をすることですまそうとしているように感じる。
「施し」をしているだけでは、状況の改善にはならない。「施し」を必要としない社会にすることが、真の助けではないのか。
真の助けを考えれば、当然今の資本主義を批判することになる。表現されたものが「共産主義」的に見えても、寄って立つところは全く違う。表現されたものが同じだからと一緒にして「おかしい」と言ってもらっては困る。言うことによって「特定の集団」に奉仕する今の資本主義を擁護することになるのだから。
日本ではなく、イギリスの教会でも同じことが起きているのは意味深い。日本の教会だけが左傾化しているのではなく、世界各国の教会が現実を見据えていることの証明だから。
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