人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。


日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2008年11月29日(土)
未曾有にふりがなが必要な昨今

  朝のワイドショーを見ながら、のんびり朝食を食べていた。このところの不況で、契約社員の大量解雇や、内定取り消しなどの深刻な事態が起きている状況について、内定を取り消された若者や、契約社員へのインタビューを交えて報道していた。

 深刻な事態の報道にもかかわらず、ご飯を食べながら画面を見ていた私は、文字通りの「噴飯」状態になってしまった。
 識者の解説の字幕に「未曾有の」という言葉がテロップで出たのだが、そこに「みぞう」とふりがなが着けられていたからだ。

 以前ふりがなは見なかったと思う。テロップは、短くパッと出す必要があるから、ほとんどふりがななどは着いていない。地名や氏名で、余程特殊な読み方があるからとふりがなを付けるくらいで、「未曾有」などと言うたいして特殊でもない読み方の言葉に、ふりがななどは付けていなかったはず。
 それを付けたのは、もちろん先日の麻生首相の「みぞゆう」発言があったからに違いない。
 それが分かっているからこそ文字通りの「噴飯」もので、テーブルに飛ばしたご飯粒の回収に手間を取られたが、一日分笑わせてもらって、テレビ局には感謝したい。

 しかし、どうしてふりがなを振ったのかと、れいの詮索好きがアタマをもたげた。
 一つは、首相でさえ間違える厄介な読み方だから、庶民は間違えて当たり前。正しく覚えてもらうには、ふりがなを振らねばなるまい。との考えで振ったのか。テレビは時の政権を擁護する立場であるべき、との局の姿勢からすれば、あり得るかもしれない。

 一方、誰でも読める「みぞう」を、首相は「みぞゆう」なんて読んだのだ。この前首相が間違えたのは、この字なんですよ。ふりがなを振りましたから、皆さんは間違えないでください。こんな字を読めない首相を、皆さんどう思いますか。という意味で、わざわざふりがなを振ったのか。しかし、これはどちらかといえば「チョウチン放送」する局としてはやらないだろう。

 または、特にメッセージ性があるわけではなく、この間首相が間違えた言葉だから、ふりがなをふっといてやれば、分かりやすいだろうとの、単純な動機でふりがなを振ったのか。
 何にしても、庶民が間違えても、どうということはない漢字が、首相が間違えたとなると、ニュースとして取り上げられる。確かに首相は大変な仕事だ。

 それにしても、首相が間違えたからと、わざわざふりがなを振るテレビ局の人たちは、どういう神経なのだろう。色々推測はするが、やっぱり分からない。 

2008年11月28日(金)
宝くじはギャンブルではないのか

  年末ジャンボ宝くじの発売とかで、ニュースとして取り上げられている。
 どこまで行列が続いているとか、何時間前から並んだとか。はては、どこの売り場が当たりが出やすいとか。11/25に発売開始だそうで、その日が特に騒がしかったが、翌日も翌々日も、ワイドショーでは取り上げられていた。

 3億円とか、ダブルならば6億円とか、想像を超える数字だけの世界になってしまうが、あまりのにぎやかさに、「宝くじを買え買えと煽るようなことを、マスコミがやっていいのか。それってギャンブルを勧めているのと同じじゃないのか。テレビを通してギャンブルを勧めることが、許されるのか」と、テレビに向かって怒鳴りたい気分になってきた。
 
 「宝くじに当たるようなこと」との言い方がされるように、宝くじとは「当たらないもの」の代名詞的存在のはず。それを「こんなに買う人が居ます」とか、「こうすれば当たります」とか「ここは当たりが出た売り場です」などと、ハイテンションのレポーターの大声で言われると、なんだか、周り中の人が買っていて、宝くじを買わない人間は変人だみたいな気分にさせられる。

 「夢を買うのだから、目くじらたてることはない」と言うかもしれないが、千円、2千円などという、子どもの小遣い程度の買い方をする人は、ほとんど居ないらしい。最低でも5千円くらいから、1万、2万と買う人がおおかたのようだ。
 年末ジャンボだけを買う人もいるかもしれないが、ジャンボは色々買っている人もいるだろう。
 1回に1万としても、年に数万、それを何年も買い続けていたら、何十万という金額になる。夢の代償としては、大きすぎるのではないだろうか。

 私は、くじ運が悪いのではなく、偏っている。何でも当たらない場合は「くじ運が悪い」と言えるだろうが、私の場合は、何かもらえるとか、当たると良いことがある場合は当たらない。そのくせ、掃除当番とか、やりたくない役などのように、当たると嫌なことは当たる。
 子どもの時からそうだったので、宝くじなどは絶対に買わない。買っても当たらないで損をするに決まっているから。

 夢がないと言われるかもしれないが、「宝くじに当たる」様なことを「夢」と思っている人たちは、踊らされているような気がしてならない。「富くじ」の昔から、庶民の金を吸い上げる手段として「宝くじ」が存在したのではないか。
 戦時中は、戦費調達のために。戦後は復興資金調達のために。などと、もっともらしい口実を付けて、庶民の金を巻き上げたように思う。
 今は何が名目か分からないが、不景気の怒りを政治からそらすために、「夢」などと聞こえの言い言葉を使っている。そして、庶民の懐から金を吸い上げるということは、昔と変わっていないと思う。
 それのお先棒をテレビが担いでいるようで、不愉快きわまりない。

2008年11月22日(土)
やはりアパ代表の執念があった

   懸賞論文パーティを伝える紙面

 田母神論文を「最優秀賞」にしたアパグループの懸賞論文の問題に、11/1の『はらだち日記』で、社長が空幕長と親交があるそうだから、社長が、はなから空幕長の論文を最優秀にする手はずになっていたのではないかと書いた。
 実際はそれ以上だった。空幕長の書いた論文を社長が取り上げたというよりも、社長が論文募集を考えて、空幕長に書かせたと言っても良いくらいのようだ。

 あれだけ世間を騒がせて、空幕長の辞職にまでなったのだから・・・と考えるのは「一般人の常識」で、彼らは、あくまで自分の道を突き進む「覚悟」らしい。
 社長は、受賞作品集の「出版記念パーティ」を計画しているらしい。しかも、その発起人には、安倍元首相、森元首相をはじめとする125人に依頼を出したとのこと。そのうち46人は国会議員だとか。多分「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会員である議員に送付したのだろう。

 議員は一種の「客商売」的な面があり、世論の動向には敏感に反応するから、今回は発起人にはひとりもならなかったらしい。森元首相も、社長と同郷だそうで「本当に素敵なご夫婦」と持ち上げた文章を、アパグループの社内報に載せているそうだが、それでも今回は「代表人を断り、開催自体を止めるよう申し上げた」とのコメントを、寄せざるを得なかったようだ。

 安倍元首相も発起人依頼に「今回は発起人になっているわけではない」とのコメントを、事務所を通して出してきているとのこと。社長は、安倍氏の後援会「安晋会」の副会長をしているような人物らしいが、それでも、世論の方が怖いので断ったらしい。どんなことがあろうと議員でいるためには、選挙で勝たねばならないのだから、選挙民の受け止めには敏感にならざるを得ないのだろう。

 社長は、政治家の発起人辞退の、冷えた反応がこたえたのか「発起人は立てないことにしました」との文書を送ったらしい。大物政治家が居なければ、雑魚ばかりの発起人では意味がないということらしい。政治家を巻き込むことで、自分たちの主張を正当化し、特異な思想を広げる足がかりにしようとしているようだ。

 あれほどの問題にならなかったら、安倍も森も発起人になっていたのではないか。安倍は、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」の座長を務めた人物だから、本音では田母神論文に賛成しているに違いない。騒がれなかったら、先頭立って発起人をやりたい気持ちがあるだろう。

 第4コーナーを回った日本国の現状のなかでも、世論の力で、スピードを落とさせる力のあることは分かった。
 しかし、特異な思想を、一般常識にしようとしている勢力が、無くなったわけではない。しっかり見極めて行く必要があるようだ。

2008年11月20日(木)
自然をそのまま残すのは時代の要求

   泡瀬干潟の勝訴を報じる紙面

 役所がやる事業に対して、住民が裁判を通じて反対の申し立てをしても、今まではほとんどが認められなかった。その最たるものは、諫早湾の堤防締め切りだ。
 その上、いったん事が運んでしまうと、絶対にと言っていいほど、戻すことがない。諫早湾はいまだに係争中で、決着がつく頃には、どうにも後戻りができない状況になっていると思われる。お役所はそれをねらって、いつまでも、いじいじ抵抗し続けているのだと思ってしまう。

 今回の判決は、それらの前例からすると、随分思い切った判決に思える。また、裁判長が定年間近の人だったのかと勘ぐってしまう。「名古屋高裁判決」のように、余程運良く定年間近の裁判長にでも当たらないと、役所に逆らった判決は出ないから。

 とはいうものの、地球温暖化に押されての判決かとも思う。地球温暖化が、猶予ならないところまで来ている今、「開発に名を借りた金儲けのための自然破壊より、自然を守る方に軍配を上げることが価値がある」ということに、裁判所も気がつき始めたのかもしれない。
 高尾山の圏央道は押し切られて「代執行」が入ったようだが、あれは都会の交通量という「錦の御旗」を立てられたから、どうしようもなかったのだろう。
 しかし、沖縄の場合は、リゾート開発だということがはっきりしているから、止めやすかったのだろう。

 沖縄は、素晴らしいリゾート地であることは間違いないし、他の産業が思わしくないのだから、リゾートも大事なのだろう。しかし、今までにかなり開発していることと思い合わせれば、貴重な自然をつぶしてまで新たな開発を進めるメリットが、どれほどあるだろうか。
 新しいリゾート地ができても、観光客の数がグーンと増えるわけではないだろうから、客を取り合う結果になり、共倒れになる可能性も否定できない。

 リゾート地を造ることで、工事受注者は潤い、一時的には雇用が増大して、地元にプラスになるかもしれないが、その後が共倒れになるような状況になれば、一時の夢に過ぎない、マイナスにしかならない。
 夢が終わったからと、原状回復を言っても、いったん破壊してしまった自然は、元には戻らない。
 そんなこんなが分かるから、裁判長も「違法」判決を出して、開発を中止に追い込んだのだろう。証拠として提出された資料に不備があるとの理由だが、証拠の採用は裁判長の判断だから、採用せずに「合法」の判決を下すこともできたはず。やはり、裁判長の考えが入っていると思う。

 とはいえ、まだ地裁段階だから、次の高裁、最高裁と、後何年かかって確定するのだろうか。確定するまでは工事が中止されていればいいが、高裁で逆転された時に、直ちに工事を始めるのではないか。最高裁確定までか、高裁確定で諦めるまでか、まだまだ続く裁判闘争を、注目していきたい。
 

2008年11月20日(木)
1万超の感染者が小さいニュース?!
 感染者1万人超の報道と、ジョナサンの本

 たった2段の小さなニュースが目にとまった。
 「HIV感染1万人超」との厚労省の発表だ。感染者数が昨年第4・4半期より増加し、1985年の報告制度開始以来の累積数が1万人を突破したとのこと。新たな発症患者数も、2004年第3・4半期につぐ、2番目の数になるとのこと。

 10/23に『梅毒も急増中』のタイトルで、HIVだけでなく、古典的性病の梅毒も急増しているとの記事を取り上げた。
 梅毒の記事も小さかったが、今回も小さな記事になっている。
 先進諸国の中で、感染者数が増加しているのは日本だけだという現状を、どう考えているのだろうか。累積1万などは、小さなニュースでしかないのか。

 エイズは、今の日本では「死病」ではない。「エイズ予防法」が作られ、マスコミも大騒ぎをした時とは違う。
 あの時は「薬害エイズ」もあり、マスコミも取り上げやすかったのかもしれない。
 1993年、まだ日本では実名公表者が0だった時に、アメリカから来た小学生のジョナサンは、エイズが「怖い病気」ではないとのメッセージを残した。
 ジョナサンに励まされ実名公表し、厚生省(当時)を謝らせたのが川田龍平。
 ジョナサンは、その後コックになり、男の子の父親になった。彼のことは『僕はジョナサン エイズなの』に始まり『ジョナサンの日本日記』ができ、『父親になったジョナサン』として、いずれも大月書店から発刊されている。
 川田龍平は、ドイツへの留学、大学講師などを経て、現在は参院議員になり、堤未果と結婚した。堤未果は龍平の子どもを産みたいと言っているそうだから、そのうち彼も父親になるだろう。

 彼らを知れば、「死病」などではなく、元気に生活できる慢性病の一つだと理解できるだろう。
 しかし、だからといって、感染してもかまわないわけではない。元気に生活するためには、大量の薬を服用しなくてはならず、その副作用にも悩まされる。感染せずに済むならば、それに越したことはない。
 しかも、今の日本では、感染を防ぐことは容易に可能だ。「コンドーム」は手頃な値段で、手軽に買える。発展途上国とはわけが違う。

 予防できる病気がなぜ防げないのか。
 『梅毒・・・』でも書いたが、まともな「性教育」がされていない一方、「ポルノ教育」が野放しになっているからだ。
 性に関心持つのは、若者の「常識」であるにもかかわらず、それに蓋をさせている文部行政の偏りが、公表できない状況を作り、水面下での感染拡大を招いている。

 メタボだ、血糖値だ、認知症だと、中・高年ばかりに目を向けているが、若者の感染を防がないと、10年後、20年後の日本は立ちゆかなくなる。
 HIV感染にともなう、結核や内臓疾患で、医療費が追いつかなくなるかもしれない。目先にばかりとらわれないで、将来を見据えた行政であってほしい。

 マスコミも取り上げやすい項目ばかり追いかけないで、日本の将来を見据えた報道をしてほしい。 
2008年11月17日(月)
やはり「同性婚禁止」に抗議が起きた

 参加者の写真とともに抗議デモを報じる紙面

 オバマ大統領が誕生したと同じ時、カリフォルニア州では、同性婚を禁止する州憲法改正案が、住民投票の結果可決された、との報道を聞いた。
 「ロスやサンフラン(日本ではシスコと言うが、こちらの言い方ではと、現地のガイドさんに聞いた)のあるカリフォルニアで?!」と思った。
 研究会仲間は「シュワルツネッガーが知事の州だから、リベラルなのはロスやシスコだけじゃないの」と言った。なるほど、そうかもしれないと思ったものだ。

 サンフランでは、同性愛のシンボル「レインボーフラッグ」が、そこここにひるがえっている、カストロ通りを見学したり、「こちらでは『いい男』は同性愛の方が多いので、デイトができず残念なんです」などという、ガイドさんの話も聞いた。わざわざ他の州から移ってくる同性愛の方も多いとも聞いた。
 そのカリフォルニア州での「禁止」憲法を、黙って受け入れるのだろうかと思っていたら、案の定、抗議行動が起きたとの報道があった。しかも「全米」での行動で、百万人が参加を表明したそうだ。

 報道によれば、同性婚を認める州は東部2州で、禁止の州は30にのぼるのだとのこと。アメリカは、ヨーロッパに比べると遅れているとは聞いていたが、認める州が2州だけとは思わなかった。同性愛は、大統領選挙の争点になったり、焼き討ち事件が起きたりと、中絶と同じくらい大きな争点になることが、日本にいては理解しがたいところだが、アメリカの人権感覚がたいしたことはないことは、はっきりした。

 そういう日本も同性婚は認めていないから、偉そうなことは言えないが、世界の頂点に立つ「民主主義」の国だと喧伝しているアメリカの、馬脚が表れた感じだ。
 デモ参加者のひとりが「黒人の大統領を選んだ国が、同性婚を認めないのはおかしい。同じ市民権を与えて」と訴えたそうだ。「人種の壁」は突き破ったらしいが、「性的指向」の壁は突き破れない現状があるようだ。

 人種については、聖書には書かれていないから、「人間」として考えると越えられるのだろうが、「同性愛」は聖書が絡んでくるから、越えるのが難しいのかもしれない。しかし、聖書では「同性愛」を禁止しているわけではない。それが証拠に、ヨーロッパでは、同じ聖書に基づきながら「同性愛」を容認している。容認するかしないかは、人権感覚の違いだと思う。アメリカは、ヨーロッパに比べると、まだ人権感覚が未熟なのだろう。

 同性愛を「容認」することは、自分が同性愛になるわけではない。元々同性愛は、「なるもの」ではなく、「なっているもの」だから。たまたま少数者の側に立ったということだけで。ちょうど左利きが「なっているもの」で、少数者であるように。
 右利きが練習を積めば左利きに変われるかというようなもので、生まれた時からの利き手は練習で変われるものではない。練習により、ほぼ同じくらいに使えるようになるかもしれないが、利き手そのものは変わらないはず。
 同性愛も、努力すれば結婚して子どもを作ることはできるが、性的指向は変わらないから、トラブルを生むことになる。

 同性愛を認めれば、みんなが同性愛になって、人類が滅亡するという「妄想」を抱いている人もいるらしい。今回の反対者のなかにも居るかもしれない。
 くだらない妄想がまかり通るのは、正確な情報が伝えられないからだと思う。
 今回の抗議デモで、禁止の州憲法が覆るのかどうかは分からないが、次の改正案の時には、禁止が解かれる可能性を作ることはできるだろう。
 粘り強い運動で、同性婚が認められることを願う。推移に関する報道が続けられることを期待したい。
 アメリカの多くの州で認められれば、「ポチの国」日本でも認められるだろうから。 

2008年11月17日(月)
ツッパリばあさんの上行く訪問販売

  「浄水器の会社ですが、健康に関するアンケートにご協力を」と電話がかかってきた。電話アンケートはほとんど受けないが、今朝は「きょうは特に予定もないし・・・」と、のんびりしていた時だったので受けてしまった。今にして思えば、これが災難の始まり。こころの一寸したすきにつけ込まれるのだ。「オレオレ詐欺」が、家族を信頼しきれないこころの隙につけ込まれているのと同じだ。

 アンケートが終わると、水をあげるから住所を教えろと来た。「まあ良いか。何が来るのか」と思い教えると、約束通り、1時間ほどして大きな荷物を持った男がやってきた。
 水道に浄水器を取り付けて水を作り、置いていくはずが、なんだかんだと実験のようなことを始めた。「ただの浄水器ではなく、イオンを分解してからだの中を浄化する」のだとのこと。聞いたことのない話だが、オーバーなクサイ演技で次々と実験を続ける。

 「時間がないんですが・・・」と言っても、「ああそうですか」と言いながら、終わる様子がない。たいがいイライラしてきて「それで結論は何ですか」と聞いた時には、1時間が経っていた。
 渋々言い出したことは、特別の浄水器が、単なる浄水器の半額で買えるということ。有名メーカーらしい、高ーい浄水器のカタログを見せて、それの半額だという。それでも50万以上もするとんでもない話。

 この手の話を断る時の常套手段で「息子に相談して決めますから、きょうは申し込みできません」と言う。息子から言われているのではない。ウソの言い訳用常套句。
 さんざん説明したのに契約させられないのでは、ノルマ達成がおぼつかないからだろう。相手も必死に食い下がる。「今契約してもらえれば、手付け金の10万を割り引いて、40数万でできます」と。

 それは屋根の葺き替え詐欺でも使われた手だから、もう引っかからない。「毎月の支払いは1万円以下ですから」と言う。「それでも50万以上の契約だからダメです。10万以上は相談しろとキビシーく言われていますから」と。ああ言えばこう言うでのやり合い。最後は「携帯をお持ちでしょう。それに比べたら・・・」と来たから「携帯は持ってません。金のかかりそうなことは何にもしていません」と締めくくり、退散願った。

今までにも「訪問販売」や「リフォーム詐欺」の痛手を色々受けてきたのに、まだ学習が足りないことを痛感した。「ツッパリ」を気取っていても、実は「お人好し」の「オメデタ人間」なのかもしれない。
 理論的でなく、経験による「生活の知恵」で賢くなってきた身だから、やむを得ないが、同じパターンならば分かっても、パターンが変わるともう分からなくなって、あやうく引っかかる一歩手前まで行ってしまう。
 今回も、電話と訪問という「2段戦法」で来られたから、引っかかってしまった。従来は、突然来てまくし立てるという戦法だったから、それは分かって引っかからなくなったのだが。

 何も実害が出たわけではないが、貴重な時間を付き合わされたのがいまいましい。今後もいろんな方法で、少ない年金暮らしの大事な虎の子を、かすめ取ろうとする輩が来るだろう。平穏無事に暮らせる経済のしくみと、年寄りには手を出させない政治のしくみにしてほしいものだ。 

2008年11月12日(水)
謙虚とは黙ってニコニコしていることか

   尊敬する司祭から『主の道を絶えず歩むために』という、聖書の言葉を自分の生き方に結びつけるための、いくつかの項目からなるテキストを送られた。
 
 毎日1項目ずつ読むのがよいとのことで、ボチボチ読んでいる。
 『謙虚の道』という項目を読んで「ウーン」と壁にぶち当たってしまった。『主は愛である』『聴きなさい』『絶えず祈りなさい』などは、自分なりに「もっともだ」と納得して、読み進めることができる。最後の問いかけに答えることは、なかなか難しいが。

 『謙虚の道』はそうできない。「ツッパリばあさん」として「はらだち日記」などを書いている身は、「謙虚」とは対極にありそうな気がする。子どもの時から「ツッパリ」だったから、どうも「謙虚」はなじまない感じを持っていた。今回もこの項目を読んで「もっともだ」と納得できないものを感じてしまう。「謙虚」は難しい。

 20代で結婚を考えた時も、信者の男は、自己主張をせずに、何でもハイハイ言って、黙ってニコニコしているだけのように見え、それが自分とは合わず、信者の男とは結婚したくないと考えたものだ。
 第2バチカン公会議以後、黙って謝ってばかりいなくても良くなったらしく、きちんと自己主張する男も信者のなかに増えたようで、今では一目で「信者」と分かるような男は少なくなっているが、40年以上前には結構居たものだ。
 
 自己主張することは、神から与えられた「人権」だと思うが、周りからは「わがまま」と取られるようだ。謙虚であるとは「自己主張」をしないことだと考えられているように思う。
 「和をもって尊しと成す」お国柄もあると思うが、自分の考えと違う場合に「それは違う。わたしはこう思う」と言うことが、わがままと取られ、謙虚でない人とのレッテルを貼られることになる。
 職場では「トラブルメーカー」の「奇人・変人」扱いしていた同僚も居た。会議の場で「これくらいで良しにしておこう」と話をまとめようとする時に、「それは、おかしい。筋が通らない」などと言って、30分で終わらせたい会議を1時間にしたりする。いい加減で済ませないから、周りからは迷惑がられた。

 自分が正しいと思うと妥協しないため、わがままだと思われていた。そのためか、自分は謙虚でない人間、わがままな人間と思うようになっている。そして「謙虚でないダメ人間」と自分を責める。しかし、自分を責め続けるのは辛いことだから「私はわたしよ。これしかできないのよ」と開き直る。

 そんなことを繰り返して今日に至った。開き直りの結果が「ツッパリばあさん」であり「はらだち日記」になっている。どうせ「わがまま」で、「自己中」の人間ならば、それを「ウリ」にしてしまえという、半ばやけっぱちのネーミング。
 それでも、できることならば「謙虚」な人だと言われたい望みは捨てきれない。

 父は「神のみ旨のままに成れかし」の言葉がすきだったとかで、娘の名前に付けたような熱心な信者だったらしい。何しろ初誕生後10日ほどで「戦死」してしまったから、「らしい」という伝聞でしか表現できないが。
 見たことのない父に会う時に「名前の通りに生きてくれたね」と言われたい気はある。
 「謙虚」とは黙ってニコニコしていることなのか。すぐに「ごめんね。私が悪いのよ」と謝ってばかりいることなのだろうか。
  

2008年11月9日(日)
「奇蹟」は存在するかしないか

 教会で互いを知り合い、積極的に教会活動に参加するための集会が開かれた。
 同じグループのなかで2人の方から、奇蹟のような出来事があったという体験が出された。2人とも病気に関わる出来事だった。

 ひとりは、洗礼を受けた次の月に、21年間待ち望んでいた「臓器移植」を受けられる機会が訪れ、投薬は続けて生活に制限が色々あるが、こうして外出もできるようになった。家族も明るくなり、幸せを感じられる毎日を過ごさせていただいている。という内容。
 二人目は、自覚症状が全くない時に、小さな出血から無理にCTを撮ってもらって「脳腫瘍」が見つかり、10時間に及ぶ手術の結果、後遺症としての視野障害は残ったが、仕事にも復帰でき、生活は支障なくおくれている。という内容。

 グループの参加者は「奇蹟ですね。神様のお恵みですね」と、異口同音に応えた。
 神の存在を信じている者の集まりだから、それに異を唱える者はいなかったが、神の存在を信じていない者だったら、どう答えるだろうか。 「それは単なる偶然です。神の導きでも何でもありません」と言うだろう。

 「聖霊の働き」を伝えている司祭の話では、ある集会で聖霊の働きを願って祈った結果、ひとりの参加者が20年来の眼病が治った。しかし、それを報告に行った病院では「やっと薬が効いて直ったのです」と言われたとのこと。20年来治療しても、全く回復の兆しの無かった眼病が、突然治癒することなど科学的にはあり得ないにもかかわらず、医者は治療の結果だと言い、「霊の働き」を信じようとはしなかったらしい。

 日本の医者は唯物論者でどうもならんなどと言うつもりはない。しかし、WHOでも取り上げることになった「霊の働き」と病気の回復の問題について、関心を持つ医者が少なすぎるように思う。WHOの動きについての話を聞いたところでは、同じ病気になっても、霊の働きの有無によって、回復に差が生じているとのことであった。

 「奇蹟」の定義が難しいが、偶然として片づけるにはあまりに「不思議」の度合いが強い場合に「奇蹟」というか、「神の計らい」だと感じることは多々ある。
 駅などで知った人に「偶然」会うことは、間々あることだから、これを「神の計らい」とは思わない。人間にとっての「偶然」も、神にとっては全て計画のうちだから、全ては「神の計らい」だと言う人はいるが、そこまで言い切ってしまうと「イワシのアタマも信心から」に近い「御利益宗教」に取り込まれる素地を作るような気がする。

 10年ほど前の私の体験を検証してみると、それは私には「神の計らい」だとしか思えないできごとだった。
 親しい同僚が死んだ日に、時々乗り換えで通る駅で、それまでに、そこでは全く会ったことのない元の同僚と、転勤して以来会っていなかったかつての同僚の3人が、示し合わせたように出会った。それも乗り換えの1、2分の間のこと。3人で亡くなった同僚のことを話し、10分足らずで別れた。その後何年も同じ駅を同じ頃に通っていたが、再びふたりに会うことはなかった。あれは「偶然の産物」であったとは思えない。亡くなった彼女が呼び集めたと言う人もいるだろうが、私としては、彼女を悼むために3人を会わせた「神の計らい」だと感じる。

 人間の知恵を越えた「神の計らい」は、あるのではないか。信じるか信じないかは、個人のこころの有り様だが、信じることによって安らかに生きられるように思う。

2008年11月8日(土)
リズムは身体で覚えるもの

  市民館の講座で公園体操を教えることになり、20人弱の受講者相手に1時間汗を流した。冷や汗も少々含まれていたが。
 受講者のなかに、男性は2人しかいなかった。シニア相手の講座だから、男性シニアがもっと参加して良いはずなのに、少ない。体操だからというのではなく、何の講座でも男性は少数派だそうだ。シニアの男性は何をしているのだろう。

 体操の話に戻ると、前半は寝た状態のストレッチだから、こちらから受講者は見えず、分からなかった。しかし、後半はウォーキングで、対面で指導するから、受講者の動きがよく見えた。
 きょうの受講者に限ったことではないが、リズムに合わせてとなると、男女差がはっきり出る。女性の参加者は「8呼間右に、8呼間戻って」と言えばその通りについてくる。しかし、男性はほとんどついてこられない。加えて、手を横に開いた時に足も横に開くという、最も単純な身体の動きを示したのだが、手足を一緒に動かすことができない。女性はすぐにできるのに。

 今の若者たちはそうではないかもしれないが、我々世代の男性は、リズムに合わせて身体を動かすという経験が、極端に少なかったのではないかと思う。70代後半の方は戦争中で「リズムに合わせて身体を動かすなど、おんな子どものやることで、男子たるものはそんな女々しいことは・・・」と教育されたのではなかろうか。
 そのすぐ下の世代で、「高齢者」のとばくちに立った者たちは、少年野球世代だから、課外で習うフォークダンスを熱心にやった者は、リズム感が育っただろうが、逃げていた者達は、やれないままにおとなになったのだろう。8、8、4、4、2、2というような、単純なリズムの変化でさえ、身体がすぐにはついてこないのだ。

 リズムと言えばすぐに「音楽」と思いがちだが、リズムは耳から体得するのではなく、身体で覚えるものだ。その証拠に、耳の聞こえない者達も、教えればリズムはうまく取れるようになる。耳が聞こえて音楽になじめる者の方がリズムの習得は早いが、聞こえなくて「音階」が分からず、メロディが歌えない者でも、リズムは充分体得できることは、経験上分かっている。

 手は上下に動かし、足は左右に動かすなど、手足を別に動かすことも苦手だ。「踊り」は、ほとんど全てが別だから、たとえ盆踊りでも良いから、経験しておいたら違ったのだろうが、これも学校教育のなかでは取り入れられてこなかったから、ダメのままシニアになってしまった方が多いようだ。

 シニア世代の受けた学校教育のなかでは、こと身体を動かすことになると、「男女別カリキュラム」がはっきりしていた。
 そのため、女子は武道をやらなかったし、サッカーや野球も男子の専売特許になっていた。一方男子は、教科のなかでダンスをやっていない。その結果が、リズム音痴のような男性を生んでいるのではないかと思う。

 リズム音痴の男性は、動きが堅いから疲れるし、けがをする率も高くなる。身体を動かす教科での「男女共学」の徹底は、シニアになってから生きてくる。
 「女の子がサッカー?!」とか「男のくせにダンス?!」などと目を三角にせず、生涯教育の立場で見てもらいたいものだ。

2008年11月5日(水)
「差別化」は差別に繋がらないか

  テレビの朝のニュース番組の特集で、不景気の今だからこそ、新しい「便利商品」を紹介していた。
 それぞれ知恵と工夫を寄せ集めて、お客さんに買ってもらおうと一生懸命の様子に「大変なんだなあ。よく努力しているんだ」と感心しながら見ていた。

 ある店のオーナーが、インタビューに答えて「差別しなくちゃ、売れませんから」と言ったので「差別?!区別じゃないの?!」と、引っかかった。
 「他の製品を差別するんじゃなくて、他の製品と区別するんじゃないの」と思ったのだ。
 ネットで調べたら「差別化」という企業用語があり、「同業種の他社との違いを明確にして、自社の売り込みをはかる」様な時に使う言葉だということが分かった。なぜ「区別化」としないで「差別化」としたのかは、書かれていなかった。企業人の言語力不足ではないのかと思ってしまうが。「他社よりも自社の製品が優位に立つ」という意味を含めたくて、単に「分けた別のもの」という意味の「区別」ではなく、優劣に差がある意味で「差別」を使うのだろうと推測はできる。

 多分、インタビューに答えた方は、この「差別化」が頭にあり、化が抜けて「差別」になってしまったのだろう。
 「差別」という言葉を、「区別する」の意味で使っていることは、以前からあって、言葉を聞くたびに引っかかってしまっていた。
 「差別」は単独で用いられるよりも「障害者差別」、「男女差別」、「人種差別」、「民族差別」など、差異のために、人権侵害が起きたり、不利益を被ったりすることがついて回っている言葉だったし、今もそういう言葉だと思う。

 10/31に書いた「カミングアウト」にも通じるのかもしれないが、言葉が本来持っている「重み」を、いかにも軽々と放り投げて、新しい解釈の言葉に転換してしまう。
 それが暗い「重み」を消すのならば、歓迎すべきことなのかもしれないが、そうではないように思う。

 「差別」とは無縁の立場にいた者が、「差別って区別みたいなことでしょ。区別っていうと、ありがたみがないみたいな感じだから、差別って言ってみたのよ。その方がインパクトがあるみたいだから」などという、いかにも軽薄な理由で使われているとしたら、「冗談じゃない」と言いたい。

 何でも以前とはちょっと違う「目新しいこと」を追い求めて、次から次へと手当たり次第に、何でもかんでも踏みつけにしていく。飽きればポイッと放り出して、また次のものへ移っていく。
 そういう軽薄な者達に使われたら「差別」の実態を無くそうと、懸命に努力している者は救われない。ポイッポイッと、次々渡り歩ける者はかまわないだろうが、そこに留まり、這い出すために血のにじむような努力を重ねている者を、結果としてけ落としてしまうことになることを、分かっているのだろうか。
 「差別」という重い言葉を、気楽に使ってほしくない。気楽に使えば、差別がなくなるのならば別だが。

2008年11月2日(日)
死刑廃止検討勧告が日本に出された

日本に死刑廃止検討勧告が出されたと報ずる紙面。

 小さい記事で見逃しそうだったが、10.28の「はらだち日記」に書いた「正平協」の全国集会参加記事で、シスターが書いている「死刑廃止問題」に関わる記事を見つけた。
 国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会が、30日に、日本政府に対し「死刑制度の廃止を世論調査と関係なく、前向きに検討すべきだ」と勧告する、審査報告書を発表したとのこと。同委員会の日本に対する審査は、10年ぶりとのこと。

 従軍慰安婦問題についても、「法的責任を認め、被害者の多数が受け入れられる形で謝罪すべきだ」と、初めて勧告したとも報じられている。
 慰安婦問題は、女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会に続き、官権する人権条約の管轄機関による勧告が出そろったことになるとのこと。
 国連の委員会については詳しく知らないが、それぞれ専門的に個別の課題を審査し、勧告を出しているらしい。
 
 アムネスティ・インターナショナル日本の事務局長によれば「日本の人権に対する国際社会の目は厳しさを増している」とのこと。
 日本政府は「日本の立場について、説明を尽くしたが、充分理解が得られず残念だ」とのコメントを出したようだ。

 捕鯨の是非などで、日本の文化と欧米の文化が相容れず、理解が得られないというのは分かるが、死刑問題や慰安婦問題で、日本固有の論理があるのだろうか。
 「我が国が侵略国家だなどというのは、ぬれぎぬだ」という論がまかり通ろうとしているお国柄だから、「慰安婦は商行為に過ぎず、軍の関与はない問題だ」とか、「仇討ちは日本の文化だから、殺人者を死刑にするのは当然」とかの論を展開したのだろうか。

 今は、情報が少なく、「殺した奴は殺されて当たり前」と単純に考える人が多いかもしれないが、「なぜ死刑が問題なのか」について、マスコミを動員して説明に当たれば、「なるほど。確かに死刑は廃止した方が良い。欧米で廃止しているのには意味がある」と、廃止賛成に変わる市民も多いだろう。
 何の努力もせず、廃止している国が世界のどれだけの国にのぼっているか、などの情報も流さず、世論が死刑を望んでいるからというのでは、話にならない。
 政府は、死刑廃止を考えていない、または死刑を存続させることにより、安易な抑止力としたいと考えているとしか思えない。
 
 「死刑が最も重い罰だろうか」というタイトルで、'08.2.11の「はらだち日記」に、「死ぬより辛い・・・」ということもある。死ぬまで罪の意識を持たされ続けて生きながらえるのは、ひと思いに死刑になるよりも苦しく辛いことではないか。簡単に死刑にしてしまって良いのだろうかと書いた。
 日本にはない「終身刑」を考えることと合わせて、死刑の問題を考えていきたい。

2008年11月2日(日)
「応益負担は違憲」訴訟をついに立ち上げる

 自立支援法廃止のデモと違憲訴訟を報じる紙面

 余り記事が多すぎて、1日では書ききれなかった。昨日の続きを2つほど。
 1つ目は、障害者問題。ずっと関わってきたので、どうしても目にはいってしまう。

 「もうやめようよ!障害者自立支援法  10.31全国大フォーラム」が、日比谷野音で開かれ、全国各地から6500人が参加したとの報道。
 さすがにこれは、NHKの夜のニュースでも取り上げられていた。車いすの方がズラッと並ぶのは絵になるから、テレビでも取り上げやすいのだろう。
 主催者代表として、全日ろう連の石野副理事長が、自立支援法の廃止を訴えたとのこと。聾者が訴えをするのも絵になるから、テレビで取り上げられやすいだろう。

 絵になるかならないかなどと、不謹慎なことを言ってと思われそうだが、マスコミで取り上げられるかどうかは、今の運動では重要な問題だと思うからだ。どんなに正論を言っても、世論を味方に付けなければ、実現しない。
 今、世論を味方に付けるためには、パフォーマンスが大事なのだ。アメリカ大統領選挙でさえ、パフォーマンスのオンパレードになっているではないか。

 世論を味方に付けて、自分たちの正当性をアピールし、要求を通す。これは、障害者運動に関わっている者の「常識」にする必要がある。とかく「真面目」人間が多いから、「そんなことをしては・・・」とか、「我々はそんな者とは違う」みたいな論が通りやすいが、そんなことを言っていては、いつまで経っても差別は無くならないし、苦しい生活から抜け出せない。

 自立支援法の諸悪の根元である「応益負担」を「違憲」だとして提訴したとの報もあった。やっとそこまで来たかという思いだ。
 「応益負担」は、障害者という狭い範囲に限った問題ではない。老人介護の現場でも同様のことが起きている。「弱者」と言われる全ての人に関わる問題だ。
 '06.10.23の「はらだち日記」で「応益負担は殺人者を増やす」という物騒なタイトルの文章を書いた。応益負担は、親殺しを増やすとして、反対の意見表明をしたのだ。

 「違憲」判断には、今後長い年月がかかるだろう。その間に、場合によっては提訴者が亡くなってしまうという事態も起こりうる。提訴した方々のなかには、重い障害を負っている方も居られるだろうから、体調管理が充分できない状況に置かれれば、寿命を全うできずに亡くなることは、あり得るだろう。そうならないことを願うが。
 かつて「朝日訴訟」として、人間らしい暮らしを要求した大先輩が居られた。残念ながら裁判には負けた。しかし、裁判がきっかけとなり、生活保護行政の見直しが始まり、その後の人々に多大の貢献をされた。
 今回の裁判が、勝訴するかどうかは分からないが、たとえ敗訴に終わっても、行政の姿勢を変えさせる力にはなるはず。今後の経過を見守り応援していきたい。
 

2008年11月1日(土)
空幕長更迭も、選挙対策では?!

       空幕長更迭を報ずる紙面

 2つ目の記事は、大きな方の記事。
 「真の近現代史観」の最優秀賞になった論文で「我が国が侵略国家だったなどというのはまさにぬれぎぬ」などと主張したのが、現職の空幕長で、それが分かったから更迭したというニュース。「政府見解と明らかに異なる意見で、きわめて不適切。空幕長という要職にとどまることは好ましくない」との理由で、即日更迭した。

 異例の早さに「選挙対策?!」と、思わずテレビに向かって声を上げた。
 航空自衛隊のトップだから、政府要人ではあるが、閣僚とか、長官レベルほどには「要人」ではない位置の人物にもかかわらず、論文を書いたというだけで即日更迭は、国会審議に引っかからないための、国民世論の盛り上がり前にことの決着を付けることが見え見え。選挙が近くなければ、それは個人の・・・とか、論文に過ぎないから・・・とか、何とかカントカ言って、1ヶ月やそこら「世論の動向」を見てから対応するだろうに。

 それにしても、最近はこの手の言動が多すぎる。ついこの間、中山大臣が辞めたばかりではないか。
 「イタチの最後っぺ」ではないかもしれないが、次の政権がどうなるか分からないから、今のうちに言いたいことは全部言っておこう。との気運が盛り上がっているのではないだろうか。
 全く個人的な考えで行動しているとは思えない。中山大臣にしても、空幕長にしても「同士」がそれなりの数後にいるのだろう。だから、強気に発言できるのだろう。「職をなげうっても自論を展開した」となれば「英雄」として迎える「同士」がいるのだろう。
 職をなげうつマイナスと「英雄」になるプラスとを勘案して「英雄」の方をとったのではないのか。

 空幕長が即更迭になると思っていたかどうかは疑問はあるが。テレビでのインタビューでは「こんな大騒ぎになるとは思っていなかった」みたいな発言だったから、更迭されるとは思わなかったかもしれない。厳重注意とか、戒告くらいで済むと思っていたのかも。 しかし、中山大臣の方は、大臣ではいられないことは覚悟のうえだったろう。

 もう一つ気になったのは「真の近現代史観」懸賞論文を募集した「アパグループ」なる存在だ。ネットで調べたら、元谷外志雄なる人物が社長で、彼は金沢時代から空幕長とつきあいがあるらしい。そうなると、懸賞論文とか言って、一般公募のような形をとりながら、その実、はなから空幕長の論文を、最優秀にする手はずになっていたのではないかと疑いたくなる。「真の・・・」などと枕詞がついていること自体が、怪しげだ。

 言論の自由は最大限尊重されるべきだと『沖縄ノート』の正当性を書いたばかりだから、「侵略はぬれぎぬ」と書いても「止めろ」とは言いにくい。
 しかし、一般人が書くのではなく、政府要人の立場で「政府見解」に反する論文を書くのは、絶対に許されるべきではない。どうしても書きたいのなら、空幕長を辞してから書いて発表すべきだったと思う。

2008年11月1日(土)
『沖縄ノート』高裁でも勝訴

 『沖縄ノート』高裁でも勝訴を伝える紙面

 月が変わった日に、書きたい記事が重なった。このところ、読む気もしない記事ばかりだったが。
 まずは小さい記事から。
 大江健三郎さんが書かれた『沖縄ノート』で「自決を命じたと書かれ名誉を傷つけられた」として、大江さんと出版社である岩波書店を相手に、出版差し止めなどを求めた訴訟の控訴審判決が出た。大阪高裁は、請求を退けた一審判決を支持し、元守備隊長らの控訴を棄却したと報じられた。

 「『決して自決するでない』と命じた」との元守備隊長の主張を「とうてい採用できない」と否定した。原告側が提出した「自決してはならないと厳命した」との一住民の証言は「明らかに虚言である」と断定した。と書かれている。
 名誉侵害を主張する者が、新しい資料の出現ごとに、争いを蒸し返せることになれば、「言論を萎縮させる恐れがある」として、自由な言論を保障する立場からの判決となったようだ。高裁の態度は、「言論の自由」を尊重する最低の線だと思う。

 言論の自由は、民主主義の根幹を成すものだから、充分すぎる保障が必要であるのは、常識であるはず。にもかかわらず、時の為政者に都合の悪い言論に対しては、何とかして封じようとする動きが絶えない。
 行きつ戻りつしながら、やっとのことで「加害責任」や「軍の姿勢」についての批判が世に出るようになったのに、たちまちそれをつぶし、押さえ込もうとする動きが出てくる。

 どんな国も戦争になれば、相手国に対して、平時では考えられないような行為をする。自国民を敵にまわすようなことも、場合によってはすることがある。
 しかし、大日本帝国の軍隊は、「国」が大事だと教えられていたから、自国民より「国」をとる行動に出たのだろう。沖縄戦では、そういう不幸な例として、自国民を殺したのだ。 
 たまたま沖縄だからそうなったわけではない。満州でも、住民を置き去りにして、自分たちは逃げている。大日本帝国の軍隊とは、そも何であったかは、自明であろう。その軍人の生き残りが、自分のしたことを正当化しようと裁判を起こす。彼は戦後60余年をどう生きてきたのだろうか。「生き残れと厳命した」と言いきれるのは、どんな根拠に基づくのだろう。

 彼の言動を支持している勢力が作ったビラには、生き残れと厳命したのに、大江健三郎が虚偽のことがらを書いている。「沖縄ノート」の裁判で虚偽が暴かれるようにと、元隊長の無罪を求める裁判長宛の署名を集めている。
 署名を集めるのも自由だから、集めるなとは言えないが、自分たちが虚偽の証拠をでっち上げながら、大江健三郎さんの書いたことは虚偽の証言に基づくものだなどという。いかにも厚かましい感がある。どちらの「証言」を正とするかは、その人の思想・信条に関わることかもしれないが。

 今の日本国に「司法の良心」がまだ残っているならば、最高裁でも勝訴し、『沖縄ノート』の正当性が認められることを願う。

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