「自分を変えない人は、進歩しない」と、よく聞いてきた。自分への戒めとしても来た。「ツッパリばあさん」は「自分を変えない人」の範疇に入る、という自覚はあるから。
昨日、地域でやっている小さな「朗読の会」の臨時例会に参加した。自分たちの楽しみでやっているから、特に大きな目標はない。しかし、何年か経つうちには、地域での集会があれば、発表する機会も出てきた。
今回も、8月末に開かれる「平和集会」で、平和に関わる物語や詩の朗読をすることになり、それなりには熱を帯びて、臨時の例会を持つことになった。
「みんなでやろう」がモットーだから、1作品を何人かで読むことになる。私は、今回初めて、物語の最初の部分を担当することになり、家で何回か練習して、例会に臨んだ。
自分がいくらかの努力をすると、他人の努力の跡が気になってしまう。
前から気になっていた人だが、アクセントがほとんど標準とずれている人がいる。何でも、音の高低のない平板アクセントの地域で育ったとかで、まるっきりアクセントが分からないのだそうだ。
私は、アクセントが極端に違う関西圏や、東北圏の人間ではなかったから、矯正するのにさほど苦労はなかった。とはいえ、関東圏に来たばかりの頃は、人の話しているのを注意深く聞いたり、自分のアクセントをチェックしてもらったりと、それなりの努力はしてきた。
彼女の場合、教職にあったというのに、標準アクセントに直っていないのが、どうにも納得できない。
子どもたちに「先生のアクセントおかしい」と言われなかったのだろうか。子どもたちと自分とが随分違うことに気づかなかったのだろうか。
同じ物語を読む一人になったので、たまりかねて「アクセントが気になる」と言ってしまった。
すると彼女は、アクセント辞典を引いて、確認して発音している。と言うのだ。すごい勉強家だということは分かった。しかし、「辞典の読み方が違うんじゃないの」と、他の参加者が言ったほど、だれが聞いても、標準からは外れているのが事実なのだ。
「やっぱり、他の人も気になっていたんだ」と、独りよがりの指摘でないことにほっとした。
「そのままで良いわよ」との発言がないなか、彼女は自分は降りると言い出した。周りは「まあまあ、私もひどかったのよ」となだめて、降りることは思いとどまらせた。
発表会がなければ、言うことはなかったと思うが、いくら金を取らない集会とはいえ、聞いてもらうには、それなりの達成度を示さねばならないという気負いがあった。
要求水準をすぐに高くするのが、ツッパリの悪い癖かも。
彼女が自分のアクセントのままで、それなりの自信を持っているのは、「民話の読み聞かせ」をやっているからだということも分かった。
民話の場合は、標準アクセントでないことが、話の味を出す効果があって良いのだろうが、標準語で書かれた本を読む場合は、やはり標準アクセントでないとまずいのではないか。所属する場が違うのではないかと思う。
自分を変えない彼女は、朗読者としては進歩しないように思う。
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