人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2008年7月28日(月)
自分を変えようとしない人に進歩はない

  「自分を変えない人は、進歩しない」と、よく聞いてきた。自分への戒めとしても来た。「ツッパリばあさん」は「自分を変えない人」の範疇に入る、という自覚はあるから。
 
 昨日、地域でやっている小さな「朗読の会」の臨時例会に参加した。自分たちの楽しみでやっているから、特に大きな目標はない。しかし、何年か経つうちには、地域での集会があれば、発表する機会も出てきた。
 今回も、8月末に開かれる「平和集会」で、平和に関わる物語や詩の朗読をすることになり、それなりには熱を帯びて、臨時の例会を持つことになった。

 「みんなでやろう」がモットーだから、1作品を何人かで読むことになる。私は、今回初めて、物語の最初の部分を担当することになり、家で何回か練習して、例会に臨んだ。
 自分がいくらかの努力をすると、他人の努力の跡が気になってしまう。
 前から気になっていた人だが、アクセントがほとんど標準とずれている人がいる。何でも、音の高低のない平板アクセントの地域で育ったとかで、まるっきりアクセントが分からないのだそうだ。
 
 私は、アクセントが極端に違う関西圏や、東北圏の人間ではなかったから、矯正するのにさほど苦労はなかった。とはいえ、関東圏に来たばかりの頃は、人の話しているのを注意深く聞いたり、自分のアクセントをチェックしてもらったりと、それなりの努力はしてきた。
 彼女の場合、教職にあったというのに、標準アクセントに直っていないのが、どうにも納得できない。
 子どもたちに「先生のアクセントおかしい」と言われなかったのだろうか。子どもたちと自分とが随分違うことに気づかなかったのだろうか。

 同じ物語を読む一人になったので、たまりかねて「アクセントが気になる」と言ってしまった。
 すると彼女は、アクセント辞典を引いて、確認して発音している。と言うのだ。すごい勉強家だということは分かった。しかし、「辞典の読み方が違うんじゃないの」と、他の参加者が言ったほど、だれが聞いても、標準からは外れているのが事実なのだ。
 「やっぱり、他の人も気になっていたんだ」と、独りよがりの指摘でないことにほっとした。

 「そのままで良いわよ」との発言がないなか、彼女は自分は降りると言い出した。周りは「まあまあ、私もひどかったのよ」となだめて、降りることは思いとどまらせた。
 発表会がなければ、言うことはなかったと思うが、いくら金を取らない集会とはいえ、聞いてもらうには、それなりの達成度を示さねばならないという気負いがあった。
 要求水準をすぐに高くするのが、ツッパリの悪い癖かも。

 彼女が自分のアクセントのままで、それなりの自信を持っているのは、「民話の読み聞かせ」をやっているからだということも分かった。
 民話の場合は、標準アクセントでないことが、話の味を出す効果があって良いのだろうが、標準語で書かれた本を読む場合は、やはり標準アクセントでないとまずいのではないか。所属する場が違うのではないかと思う。
 自分を変えない彼女は、朗読者としては進歩しないように思う。
 

2008年7月24日(木)
緑のカーテン穴だらけ

  窓から見たゴーヤ     小さな実の付いている花

 我が家は西日が入り、夏から九月いっぱいくらいは、蒸し風呂状態になる部屋が2つもある。
 少しでも蒸し風呂を解消しようと、今時はやりの「緑のカーテン」を作ることにした。「花より団子」だからと、アサガオではなく、ゴーヤを植えることに決めた。
 種を播けばいいだろうと気楽に考えていたが、植物に詳しい友達から、「堆肥を埋め込んで一週間くらいしてから・・・」と、講釈をされた。「そうか。先に土を作っておくのか」と、コンポストで作っておいた堆肥を入れて、土作りは完了(のつもり)。

 種を買って播けばいいと、スーパーに買いに行った。袋の指示を読むと、関東地方なら、6月末までに播けばいいと書いてあった。「なるほど。今からでも大丈夫」と、堆肥を入れた土のなかにパラパラと播いた。
 「早く芽を出せ」と、カニの気分で毎日水をやっていると、10日くらい経って、やっと芽が出た。しかし、その時はすでに6月半ばを過ぎていた。

 7月に入り、隣家のキュウリは1、5メートルくらいにも育ち、花が咲いて実がなり始めたというのに、我が家のゴーヤは、まだ50センチにもならない。その上、出たばかりの葉を虫に食われている。「いくら西日しか当たらないとはいえ、これではせっかく張ったネットの上まで伸びないうちに、夏が終わってしまうのではないか」とガックリした。

 それでも、毎日水をやっているうちに、なんとかネットの上まで伸びてきた。伸び始めると加速がついたように、1日にネットの一マスくらいも伸びるようになった。「心配することはない。伸びるものなんだ」と、安心はしたが、緑のカーテンにはほど遠い状態のまま、花をつけてしまった。花をつけるということは、実りに近づいているということだろうから、もう、伸びないことを意味する。

 種の袋には「間を30センチから50センチ空けろ」と書いてあった。50センチでは芽が出た苗の2/3は間引かねばならぬため、30センチ弱にした。しかし、これが災いした。緑のカーテンは、穴だらけで、とても室温を下げる効果は出そうにない。
 花が咲いたということは、実がなる可能性が出たことだろうが、肝心の緑のカーテンが穴だらけでは、植えた意味は半減する。種の袋の説明は、本格的に実をつけさせるための教授法で、緑のカーテンにするためではないと思い至った。しかし、今更手遅れ。

 初めてのことだから、これくらいで上等だと思えばいいのかもしれないが、何とも残念至極の感。
 これから8月いっぱいで、何とか穴がふさがらないものかと、恨めしく見守る今日この頃。ゴーヤには何の責任もない。よくよく研究しないで始めた自分の責任だとは重々承知しているのだが、何ともいまいましい。

2008年7月21日(月)
「婦人会」がアイデンティティの方々

  「婦人会」の一員として「例会」に出席した。前月の例会で「婦人会」という名称の変更を提案していたので、サボるわけにはいかず、定刻に会場に入った。
 時間を過ぎても、会長以下役員の誰も着席していない。「ギチギチしても仕方がない」と、しばらく待ったが、いっこうに集まる気配がない。しびれを切らした頃、やっと会長が現れたので、「何時に始まるのでしょうか」とていねいに聞いてみた。「もう始まる時間なのですが・・・」と煮え切らない返事。「これはダメだ」と、ちょっとした用事を足して戻ることにした。

 同性として「専業主婦は・・・」と言いたくはないが、家庭で家族とだけすごすことの多い方は、時間の観念が薄らぐような感じがする。常に家族に合わせて時間を過ごしているからだろうが、開会時刻にぴしゃりと合わせることに、神経を使わなくなっているような気がする。外で仕事をしていた者との感覚の違いがある。

 やっと会が始まって、名称の件が論議された。「ここに出されたなかから、いくつか選んで・・・」とまとめの話に入った時、「どうして婦人会のままではいけないのでしょうか」との声があがった。
 「オイオイ。その件は前月に論議が済んでいて、今月は新しい名称について論議して、もう結論が出かかっているのに・・・」と、言いたかったが、新参者だからと、ぐっと我慢した。

 「婦人会として中心的役割を果たしてきたのだという自負もあるし、名称を変更したら、別の会のような印象を受けて、なじめない」が、彼女の言い分。
 変える理由は幾つもある。「婦人」という名称が、専業主婦のイメージがある。それも「姑会」的な、年齢的には上の人たちをイメージし、「若妻会」に結集したい人たちを、引き込むには合わない。専業主婦でない人、特に、年齢的には該当していても、結婚していない人は敬遠しがちな名称。今の時代に合わない。等々。
 理由があるから変更を提案したのだが、それが分かっていない。理由を説明しても、パーティの準備だの、結婚式の準備、お茶の準備、お花の取り替えなど。専業主婦としての資質を生かす分担が数多くある人にとっては、「婦人会」という名称が、それらのすべてを表す言葉なのだろう。
 
 人は誰でも自分を生かしたいと願っているから、当然の希望なのだと理解はできる。
 しかし、それにしがみついていては、時代に取り残されることになるのではないか。専業主婦ではない女性が増え、一人暮らしの女性も増えてきている。今までは少数派で、切り捨てて考えに入れなくても良いとされてきたかもしれないが、これからは、一人ひとりを大事にする時代なのだから、多数派の「婦人」だけが表に出る名称は、やはり変更すべきではないか。自分の郷愁だけで、固執すべきではないと思う。

2008年7月18日(金)
同性愛で元首相が逮捕される国

 元首相の逮捕とスペインの総選挙を伝える紙面

 マレーシアの元副首相が、下院補選への立候補を表明しようとしていた直前に、同性愛容疑で逮捕されたという記事を見つけた。
 同氏は副首相時代にも同様の容疑で逮捕され、服役した後無罪となったそうだ。
 今回の逮捕も、前回と同様で「政治的陰謀」と、本人はコメントしているらしい。野党総裁の妻や、野党側は「でっち上げ」と怒りを募らせ、抗議行動を展開する方針だという。10年前の逮捕時には、支持者による大規模な抗議デモが続けられたそうだ。
 
 同性愛が「政治的陰謀」として使われるのは、マレーシアに「同性愛処罰法」が存在するからだろうが、ネットで調べてもよく分からなかった。イスラム圏では「同性愛」を犯罪視する国も現にあり、死刑まで存在しているのだが。
 マレーシアは、穏健派のイスラムで、処罰は緩いと書いてある。緩いというのは、処罰が無いのではないらしい。死刑のような過激な罰則がないということなのだろう。現にアンワル氏は逮捕されたのだから。

 逮捕の理由は、23歳の元スタッフが、同性愛行為をされたと警察に届け出たことにあるらしい。
 どうやって行為の有無を立証するのか。難しい問題だと思う。
 幼児性虐待裁判のマイケルジャクソンも、立証はなかなか困難だったらしい。優秀な弁護士を雇い、無罪にはなったようだが、それは法律的に罰せられないということで、性虐待有無の真実とは別。真実を知っているのは、マイケル自身と少年だけなのだから。性行為は、プライバシー中のプライバシーだから、本人と相手にしか、真実は分からない。

 今回の元首相が有罪か無罪かは今後のことになる。陰謀だとすれば、元スタッフが偽証していることになる。そもそもこのスタッフは、スパイだったかもしれない。初めから警察に届け出ることが目的で、スタッフに加わった可能性もある。
 それとも、アンワル氏はバイセクシュアルかもしれない。結婚しているからといって、同性愛行為がないとは言い切れない。

 スペインでは「同性愛」を巡って、保革が激突しての総選挙になっているとの報道が、4月にあった。こちらはイスラムではなく、カトリックだが。
 とにかく、日本では考えられない状況が、世界にはある。イスラム、カトリックといえば、世界の3大宗教の一翼を担っている宗教で、昨日今日出てきた新興宗教とは訳が違う。 それだけに、それぞれの国の中で、深く広く文化として浸透している考え方になるから、良いとか悪いとかを簡単には決められない。

 そうは言っても、個人の趣味趣向ではなく、神が「同性愛」を作られたことは確かなのだから、宗教がそれを理由に人権侵害を正当化するのは納得できない。

2008年7月11日(金)
やはり国は控訴した。諫早湾は死ぬ

    控訴に抗議する漁民を伝える紙面

 佐賀地裁の判決を検討していた政府は、潮受け堤防開門を受け入れず、高裁に控訴した。 「やっぱり控訴したか!」という思いだ。

 国は良い。控訴したからって、訴訟費用は税金でまかなえばいいのだから。証人喚問だの、被告尋問だのあったところで「業務」としてやっていけばいいのだから、時間は充分ある。腹も痛まなければ、手足に枷をはめられることもない。

 一方の漁民はどうなる。勝訴しない限りは、訴訟費用は自分持ち。裁判の傍聴も身銭を切って行かねばならぬ。腹も痛めば、手足の枷も大きい。

 ゾウにネズミが闘いを挑むような状況だ。それでも訴訟ができるだけ「自由の国」だと言えるのだろうか。
 C型肝炎訴訟は、珍しくも勝訴したが、その他の訴訟で「勝訴」した例は、ほとんど無い。国や地方公共団体に勝訴することは、「ラクダが針の穴を通る」ことなみに難しい。
 
 「お上の言うことを聞く」という「国」が、60年前の敗戦で消滅し、「国民が主人公」の国が生まれたはず。それが60年以上経ち、人間で言えば「還暦」もすぎた今になっても、まだ「お上の国」が生きているのだろうか。
 それとも、「還暦」で昔に返ってしまったのだろうか。

 国がいったん決めたことは、何が何でも変えないとの考えは、どこから来るのだろうか。「朝令暮改」では、国民が安定した暮らしができないから、してもらっては困るが、十年一昔といったのは、かなり前までのことで、科学技術の進歩からすれば、五年一昔くらいになっているのが現在の日本国のありよう。それを、15年、20年以上前の決定を、金科玉条のごとくに扱い、事を進めてもらっては、国民は浮かばれない。

 控訴すると言ったからには、控訴するので、後5年くらいは、開門されないだろう。高裁でも負けたら、次は最高裁になるのだろうか。
 そうなれば、後10年は開門されないだろう。最高裁で国の敗訴が決まっても、もはや手遅れで、死んだ海は生き返らないだろう。その時に、誰が責任を取るのだろうか。
 今控訴を決めた、福田総理と若林農水相が、責任を取るだろうか。仮に責任を取るとしても、総理も農水相も辞めているだろうから、責任のとりようはないだろう。私財をなげうつとしても、死んだ海を生き返らせることはできない。

 死んだ海は生き返らないことを肝に銘じて、控訴を決めたのだろうか。法律だの、政府のメンツだのしか考えていないのではないか。机上でものを考えることに慣れてしまった身では、現地の方々の気持ちなど、とても推し量れないのではないか。

2008年7月6日(日)
またビラ配布書類送検

   ビラ弾圧と、ビビる自・民を報じる紙面

 ビラ配布弾圧事件が相次いでいる。今回もまた政党のビラ配布だ。
 マンションの場合は、どこからが「住居侵入」になるのか。そもそも、住居侵入とはどこからを言うのか。正当な理由とは何か。

 ネットで調べたら、目的がはっきりしていれば、正当な理由になるらしい。ピザ屋のチラシも、不動産屋のチラシも、目的ははっきりしているから良いのだろうか。政党ビラなど、もっと目的がはっきりして居るではないか。
 住居は建物らしいが、敷地内に入るのもダメらしい。そうなると、マンションのエントランスはダメだということになる。

 今回は、住人がビラ入れに納得しなかったことから、被害届が出され、被害届は取り下げられたにもかかわらず、書類送検されたらしい。
 自分と主張の違う政党のビラだからと、被害届を出すまでに至ったらしい。被害届を出すと、書類送検になるのだろうか。取り下げれば即不起訴ではないのか。テレビドラマではそうなるはずだが。
 不動産屋のビラも、しつこくて不愉快だからと、被害届を出したら、不動産屋が書類送検されるのだろうか。それとも、直接配ったバイトのお兄さんが送検されるのだろうか。

 商売のチラシの場合は、住人の方が我慢して、政党ビラの場合には、住人が言えば即送検になるのか。そんなことが、警察の判断で決められるものなのだろうか。
 警察は、法律に基づいて検挙する権限はあるだろうが、こっちはまあまあ黙認する範囲で、これは絶対に送検に持ち込もうという、判断をする権限まであるのだろうか。
 
 共産党だけが狙い打ちされているのが現状だと思うが、実は民主党もビビっていると紙面には書かれている。その上、与党で安泰、関係無しのはずの自民党まで、行き過ぎだと警戒しているらしい。それならおかしいと言えばいいのに、脛にキズ持つから、言ったら袋だたきに合ってしまって言えないのだと、紙面に載った議員は言っている。
 警察は、時の権力に忠実な働き手のはず。自民党に不利なことはしないはず。それにもかかわらずビビって居るのはどうしたことか。と思う。

 警察は何を目的に働いているのか。警察権力で、社会を牛耳っていこうというのか。言論の自由は、民主主義の根幹に関わることだから、ここを叩いて萎縮させれば、市民は「聞かざる」にされ、思いのままになるということか。
 そんなやり方で、犯罪の少ない、住みやすい国作りができると、思っているのだろうか。時の権力である自民党の議員がビビるような「恐怖警察」の後にくるのは何だろう。

 うそ寒い社会になりつつある不気味さを感じる。 

2008年7月4日(金)
教育は犯罪を防ぐ

  朝のワイドショー番組で、女子少年院(この言い方はおかしいが)で、教育の一環として、オペレッタを取り入れ、舞台を作り上げ、最後の発表会では保護者も感激するまでを「特集」に組んで放映した。

 全国で一カ所だけの施設とかで、以前にも別の「特集」を見た記憶がある。そこでは矯正教育に取り組んでいることは知っていた。しかし、表現活動に熱を入れていることは、今回初めて知った。
 
 女子少年院が、全国で一つだけだというのが、腑に落ちなかった。男子少年院はもっとたくさんあるはず。
 そう思ってネットで調べたら、全国には53の少年院があると分かった。釧路には女子少年院があるとも載っていた。全国で1つではないようだ。

 オペレッタに取り組むことで、自分の想いを表現したり、自分の想いを分析したりする。それが、社会に戻ったときによい作用をもたらすのが力を入れて取り組んでいる理由だとのこと。
 まるで芝居など関係なかった子どもが、練習を進めるなかで変わっていった様子が、短い時間内によくまとめられていた。

 ネットで調べたところでは、女子の方が男子より矯正率が高いのだとのこと。番組でも言っていたが、女子が非行に走る背景には、家族の愛情が不足していることが大きいらしい。少年院での教官や入所者との交流の中で、愛情を注がれていることを実感し、それを支えに社会復帰をはかっていくのだとのこと。

 男子少年院の更正プログラムをネットで調べたが、個別的プログラムを取っていると強調されているだけで、集団教育プログラムがあるとは書かれていなかった。
 男女の特性の違いがあるのかもしれないが、社会の規律やことの善悪を頭で考えさせるだけでは、身に付かないように思う。
 集団で、感性に訴えるような教育プログラムを与えることで、人は変わっていくのではないかと思う。
 その点で、今回の「特集」に出た少年院は、効果的な教育方法をとっていると思った。

 演劇だけに限らないが、芸術的なプログラムを与えることが、人間改造には効果的なことは、「撫順戦犯収容所」での例が示していると思う。「殺人ロボット」のようになっていた兵士達を転向させ、帰国後は「中国帰還者の会」に結集して、平和のために活動する人間にしたのだから。
 男子少年院の更正プログラムにも、芸術活動が入ればと思う。

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