人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2008年5月28日(水)
ラブホテルにも偽がある

     偽ラブホテルに関する報道

 以前から問題にされていても、いっこうに改善されないものの一つに「偽装ラブホテル」がある。
 ラブホテルという日本独自の「ホテル」の善し悪しを言うつもりはない。不倫にしろ、デイトにしろ、夫婦の息抜きにしろ、日本には必要とされる施設だから、商売として成り立っているのだろうから。

 外国ではラブホテルなるものは存在しないらしい。スウェーデンで聞いたときには、恋人のデイトならば、互いの家に行くから、必要ない。夫婦ならば、完全に密室状態になれる寝室があるから、家族に気兼ねしてわざわざラブホテルなどに行く必要がない。 不倫のような場合は、ラブホテルではなく、ホテルに行くから必要ない。
 それぞれに必要ない条件がそろっているから、結果として「ラブホテル」という施設は商売にならない。

 他の国も、それぞれの事情でないのだろう。中には、婚前、婚外性交渉御法度の国もあるだろう。そういう国では、商売そのものが処罰の対象になる。日本のように、おおっぴらに商売はできない。
 それぞれのお国柄があるから、日本のラブホテルに、目くじらたてても始まらない。

 しかし、偽装ラブホテルは論外だ。
 関東地方には、平均で、届け出たラブホテルの1、5倍もの偽ラブホテルが存在するという。東京は約4倍、神奈川は約3倍、埼玉は約2倍の偽装施設数が存在するとのこと。
 全国では、届け出したラブホテルの数と、同数くらいの偽装ラブホテルが、存在するとのこと。
 子どもたちへの影響を考えて、学校の近くはダメとか、通学路もダメ、図書館、児童福祉施設の周囲200M以内もダメ、などと、細かな規制があるのに、「ビジネスホテル」という看板で許可を取って、営業しているらしい。

 「需要があるから造るんだ」との論理だろうが、自分のもうけのためには、嘘偽りを言ってもかまわないとの姿勢は許せない。
 食品偽装は、マスコミでさんざんたたいたが、ラブホテルになると、あまり騒がない。そういうことに関心を持つこと自体がはばかられる、とでも言いたいのだろうか。
 違法な営業をして平気でいられるのは、暴力団関係者だから、触らぬ神に祟りなしを決め込んでいるのだろうか。
 それとも、食品は直接口に入って、身体の成長に関わる、目に見える問題だからやりやすいが、ラブホテルの問題は、直接見えない心の問題だから、とりあげにくい。ということなのか。心の栄養は、身体の栄養と同等に重要だと思うのだが。
 建てた後でも、使い方が違えば取り締まるくらいの熱意で、取り組んでほしい。次代を担う少子諸君が、おとな不信の状態で育ってほしくない。

2008年5月23日(金)
南京虐殺証言者=生存者 高裁でも勝訴

  南京虐殺生存者の高裁勝訴を伝える紙面

 「南京大虐殺事件」で生き残った中国人女性が『「南京虐殺」の徹底検証』
という著書で、「偽の被害者」と記述され、名誉を毀損されたとして、損害賠償を求めていた訴訟の控訴審判決が、21日に東京高裁で出されたとのこと。裁判長は名誉毀損を認めた一審判決を支持して、著者の東中野修道氏と出版社に400万円の支払いを命じたと報道された。

 東中野氏は、「南京大虐殺」はなかったと主張している学者のひとりらしい。
 ネットで見ると、小林よしのり氏らと共に行動していることが出ている。小林氏は漫画家だから、「トンデモ本」を書いても、まあ仕方ないかで許されるだろうが、学者という分類に入る方が、「トンデモ本」を書くのは許されない。しかも、原文を故意に曲解して、自分に都合の良い論理にすり替えているなど、学者の風上にも置けない人物だと思う。

 大学の教員であれば、学者ということになるらしいが、大学の教員であっても、学者とはいえない人物が、日本にはまま居られる。それを知って利用する人や、知らずに彼らの言説を鵜呑みにする人がまた多くいる。自分の目や耳や頭で、よく考えないと、だまされてしまう。
 「南京大虐殺」についても、全くなかった。あったが「大虐殺」などという規模ではない。30万人の規模で虐殺があった。と、諸説あって、どれが本当なのか分からない。
 分からないことを良いことに、「トンデモ本」が出まわり、嘘が嘘でなくなっていく。 南京に行って、「虐殺記念館」を見た。しかし、日本では「あれは嘘だ」と言う「学者」、「いや。事実だ」と言う「学者」がいて、正直どっちなのかと迷ってしまう。

 今回、裁判所が「証言者」=生存者の勝訴を導いたことは、少なくとも、虐殺など無かったとする考えを退けたことになる。原告の夏さんの「虐殺被害者を代表し、事件の事実が認められたことを心から嬉しく思う」とのコメントを、真摯に受け止めるべきだろう。
 
 それにしても、一般新聞の扱いがいかにも小さい。東京新聞は、社会面の隅っこにちょこっと載せただけ。写真もなければ、見出しも2段抜きで、見落としてしまいそうな紙面。他の新聞も似たような大きさなのではないか。
 南京大虐殺事件は、すでに風化してしまったというのだろうか。それとも、下手に取り上げると、右翼が街宣車で押しかけるから、小さな扱いにしておこうというのだろうか。 
 毎日新聞が取り上げたことは、ネット検索で分かったが、他の新聞については不明。
 ニュースとして取り上げなかった新聞もあるだろう。取り上げてないとの書き込みは見つからないので、どの新聞が取り上げなかったかも不明だが。

 中国側の言い分を認める判決は、承伏できないという感情論から、小さな扱いにしたならば、それもおかしい。事実は事実なのだから、認めるべきだ。認めないのは、日本人としての潔さがない気がする。ご都合主義と言われても仕方がないのではないか。
 論争になっている問題だからこそ、はっきりした態度を取ってもらいたい。

2008年5月22日(木)
「怒る○○」に通じる『怒る富士』

   観劇のチラシと、劇評を載せた紙面

 生まれて初めて「国立劇場」で観劇の機会を得た。開場から25年以上経っているはずの劇場だが、機会が無くて入場することがなかった。

 前進座の『怒る富士』の鑑賞。誘ってくれた連れの話によれば、最も前進座らしい芝居だとのこと。
 前進座の芝居は、市民劇場で何回か観ている。昨年は『髪結い新三』を見た。歌舞伎の出し物をやると、どうしても団十郎とか、染五郎、玉三郎などという「梨園」出身者による「歌舞伎」に比べ見劣りがする。伝統の違いなのだろうが、重みが今ひとつ足りない気がして、残念に思っていた。

 『怒る富士』を見終わっての感想。なるほど。確かに「歌舞伎」ではない。かといって「新劇」の人たちがやる「時代劇もの」でもない。歌舞伎の流れに沿った「型」と、新劇にある「時代性」が融合されていて、見事なできばえだった。群像の扱いがうまく、迫力ある舞台を作っていた。
 赤旗の劇評によく書かれているのは、もっともだと思われる。

 劇中の変なところで、何回も涙がこみ上げてきた。自分でも理由が分からなかったが。
 富士の噴火で灰に埋まった村の、餓死寸前の村人を救うため、米倉を開けさせた。幕府の命を受けずに、自分の裁量で行ったことにされ、切腹していく主人公。死ぬ場面で涙するのは当然。物理的に切腹はしていないが、杉原千畝のことをふっと思い出した。現場の自己判断で旅券を発行し、その後外務省を追われた。外交官として生きようとした杉原は「死んだ」のだから、実態としては切腹したようなものだ。いつの世も、役人は上の言うままに行動しないと、切り捨てられるということらしい。
 しかし、涙したのは、その場面だけではない。恋人と駆け落ちしようとしていた村の若者が、村人のために直訴してくる場面や、半左衛門が村の娘と話す場面など、一見どうということはない場面で涙したのだ。強いて理由を探れば、他者のために犠牲を払っている姿に感動したのかも。

 劇評には「新田次郎の原作を忠実に描く中・・・」とあるから、原作にない場面を創作したのではないらしい。
 新田次郎は『八甲田山死の彷徨』とか『強力伝』、『富士に死す』などの書名を知っているだけで、山の小説を書いている作家くらいの知識しかなかった。今回の観劇で、再評価した。民衆の立場に立って、史実ではあるらしい「伊奈半左衛門」の姿を、リアルに現代によみがえらせたのだから。

 とはいえ、前進座という劇団の公演であることが、大きいのだろう。
 今時、中央政権に抵抗する役人の話を取り上げて、感動的なドラマとして上演する劇団は希少価値だと思う。
 市民劇場でも、骨のある演目は、ほとんど上演されなくなっているのが現状。「世の中に、不満や不安がいっぱいだからこそ、あえて舞台でまでそんなものを見せてほしくない。できれば、観ている間だけでも楽しくて、肩のこらない演目が良い」という会員の声が強くなって、市民劇場を維持していくためには、その声を聞かざるを得ないらしい。
 しかし、そうやって迎合していけば、やがて骨のある芝居を観たがっている会員が去っていくことになり、自滅していくのではないか。4/19に書いた「ストリップ劇場」のように。かくいう私も、来年も会員でいるかどうかを思案中なのだ。
 

2008年5月22日(木)
好奇心持つことは、病気を悪化させる?!

  国立劇場での観劇の帰り、隣の最高裁を見学。と言っても、外観を見ただけだが。
 これがそうだと言われたが、テレビで見ているのと違う。よく見たら門柱に「東門」と書いてあった。道理でテレビと違うはず。テレビは正門を写しているのだから。立っている守衛さんに聞くと、50Mくらい離れた所が正門とのこと。何回か見ているという連れを待たせて、駆け足で正門へ。

 「これこれ。これがテレビに映っている最高裁の表示だ。なるほど。ここから写しているのか。それで下に松が写るんだな」。テレビの画面でしか見なかった景色のなかに自分が居ることに満足。
 中の様子をのぞき見すると、日章旗と韓国の旗が揚がっていた。日章旗は国の機関で当然だが、韓国は何だ?
 疑問に思うと、そのままにできないのが、杉下右京さんと同じで、ツッパリばあさんの「悪い癖」。早速守衛さんに質問。話しかけてはいけないような、厳しい顔でもなかったし、暇そうだったからいいかっと。誰にでも怖じけずに、にこにこと接してしまうのが、黒柳徹子さん同様、ツッパリばあさんの真骨頂。

「どうして韓国の旗が揚がってるんですか」「これはですね。3日前に訪日された韓国の・・・・」。要約すると、韓国から最高裁長官のような方が訪日されたので、掲げているのだとのこと。なるほど。お客さん用だったのか。
 「この石垣は、向かいの江戸城の石垣と同じですか」。ついでだから不思議に思っていた石垣についても聞いた。結果、分かったのは、向かいの江戸城石垣の雰囲気に併せるべく、最高裁の建物を造ったときに、石垣を組んだのだそうだ。なるほど。景観にも配慮しての建設だったのだ。

 大満足で駆け戻る。東門の守衛さんは、Vサインで戻ってきたのを見て、「いいとしこいてまあ・・・」という顔で苦笑いしていた。「すいませんね。お上りさんだものですから」と言って、ごまかした。「いいとしこいてまあ・・・とはなんだ。大きなお世話だ」というのも、大人げないと思ったので。
 連れに「知ってました?」と聞くと、両方とも知らなかったとのこと。ただ何回も前を通っただけでは、知らないままになってしまう。雑学は、機会を捉えてすぐに研究することで得られるものだ。
 どうして、みんなは疑問を持たないのだろう。疑問に思ったら質問しないのだろう。それが私には理解できない。

 危ない。危ない。はっと気が付いた。国内でさえこうだから、海外に行くことは危ない。
 「どうして?」「なぜ?」を連発し、何にでも興味を示して、1日中休むことを知らないで、動き回り、質問しまくってしまう。その結果、帰国後に落ち込んでしまうというパターンを繰り返していた。
 今年もまだ、海外には行かない方が良さそうだ。寂しいことだが、やむを得ない。

2008年5月17日(土)
聴覚障害者の運転は蝶のよう?

  聴覚障害者運転標識について報じる紙面

 今までは難聴者でなければ認められなかった運転免許が、全く聞こえなくても認められるようになったとの記事を見つけた。
 運動を開始して、何十年がたったろうか。私の知る限りでも40年近く経っている。

 今の若い聾者の実情からすれば、聾学校で、補聴器をつけての聴覚訓練を受けているから、全く聞こえなくて、運転免許取得の資格を取れない人は、ほとんど居ない。
 しかし、年配の聾者には、補聴器を使いこなせず聞き取れない人がいる。また、聴神経に障害を受けたり、大脳の聴覚領に障害を受けたりした聴覚障害者は、全く聞こえないから、免許を取得するための条件を満たさず、悔しい思いをしていた方が居るはずだ。

 運転免許問題に熱心だった河合さんも、自身は全く聞こえず、免許が取れなかった。やっと望みが叶うときが来たが、これから免許を取得できるだろうか。10年ほど前に60代くらいだったから、今は70代になられていると思う。お元気だろうから、今から取ればとれないことはないだろうが、免許返納を勧められる、例の後期高齢者の仲間入りをされるような年になってしまわれていると思う。実際問題としては、免許を取得して運転できたとしても、その期間は、ごく限られてしまう。

 障害があるからということで、いろんな制限を受けてきた障害者達。
 少数者故に、なかなか実情の理解が進まず、制限されることに慣らされてしまってきた観もある。
 そんななかで、何年も、何十年もかかって、一つひとつの制限や差別の解消をはかって運動してきた方々。
 しかし、実際には、運動の成果を自身のものにすることができない。運動などしても、自分のためにはならないから、やるだけ損だという論法が持ち出されそうだ。

 きょう運動したら、明日には良くなる。来年には解決する。などという要求は少ない。
国中が大騒ぎするような、後期高齢者医療費でさえ、来年までにメドが立つかどうか分からない。国民全部に関わるような大問題でさえ、そうなのだ。まして、障害者などという少数者の要求など、握りつぶされてしまうのがおちだ。
 それをされないためには、つぶされてもつぶされても出し続ける執念しかない。

 聾者の車識別マークが、なぜ黄色の蝶に決まったのかは、短い紙面からは分からない。
 初心者マークは、運転し始めの若葉のようなという意味で、若葉マークに決まったのだろうから、蝶のマークにも意味があるはずだ。「音もなく、華麗に飛ぶ蝶のような運転者」の意味か。などと、勝手な想像をしてしまう。

 いろいろあった運動の成果として、やっと免許取得が可能になった。まずはめでたいと言っておこう。 

2008年5月12日(月)
今後無いように、どう努めるのだろう

   教師のわいせつ行為を報じる紙面

 このところ、教師のわいせつ行為がテレビをにぎわせた。
 教頭とか、校長とか、ヒラ教師ではなく、管理職が加害者になっているから、余計大々的に取り上げられたのだろう。
 性は生だから、ヒラだろうと管理職だろうと、若かろうが年配だろうが、起こす人は起こす。今更驚くには当たらない。

 気になるのは、「不祥事」に対処する教育委員会などの監督者が、会見で言うお決まりのセリフのほう。「今後このような不祥事が起きぬよう、努めて参ります」だ。

 マニュアルにそって言っているとしか思えないこのセリフに、どんな意味があるのだろう。何回過去の場面を見ている。ということは、こう言っても無くならないことを意味しているのではないか。
 監督官庁としては「不祥事を起こさぬよう、厳重に注意せよ」との「通達」を出すくらいしか、やれることがない。私の現職時代から、同様の通達は、時々来ていた。
 現場では、朝の打ち合わせなどで「不祥事がないよう注意してください」と言うだけだろう。それ以外にできることがあるとは思えない。

 他の犯罪のことは分からないが、性に関する犯罪については少し分かる。
 性については、AVだの、ポルノ雑誌だので、男性の性衝動を刺激するだけの情報が、あふれかえっている。教師だとて、人の子であり、聖人君子ではないから、偏った情報にさらされれば、考え方が偏ってしまうのは、理の当然。
 その上、管理職ともなると、毎日がストレスとの闘いになっていることだろう。モンスターペアレントへの対応から、不登校教師への指導、地域からの要望の対処、などなど。気の休まる暇がない。自身が鬱になるか、胃や肝臓をやられるか、何かが起きるだろう。

 そういうおかしな精神状態のなかで、性的な逸脱行動が起きているのだと思う。それを正すのには、厳罰だけでは意味がない。教育=性教育しかない。
 「日本鬼子」となっていた日本軍兵士を「真人間」に生まれ変わらせたのは、撫順戦犯管理所の処遇だったと聞く。
 辛い労働とか、厳罰を与えるのではなく、文化的環境を整えることで、自分のしてきたことが、いかに極悪非道のことであったかを、自分の内側から悟り、自分から謝罪するようになったと聞く。その方々が「中帰連」を結成して、今日まで平和活動を続けている。
 
 性教育を受けていないはずの加害者達に、まっとうな性教育を受けさせることで、自分の加害性を、内側から反省させること。これしかないのではないか。
 いくら厳罰を与えたとしても、それは外側からのもので、自分の内なる加害性が消えたとは考えられない。
 加害性そのものは消えなくても、加害性をコントロールして生きていく。大部分の人間はそうして生きている。性に対してのコントロール力をつけるのが性教育だ。
 性犯罪者が出るたびに思うことだが、性犯罪を根絶するためには、厳罰ではなく性教育が必要なのに、それがちっとも理解されていない。残念だ。 

2008年5月12日(月)
ともに居るからこその孤独

  きのうは母の日だった。毎年5月の第2日曜日と決まっているのだから当然のこと。
 すでに100年以上の歴史を持つ祝いの日だから、特にどうこう言うことではないだろうが、マスコミはこぞって「母の日」の世間の状況を報道してくれた。
 お祝いグッズも目新しいものが次々出ている。今年は、相場の決まったカーネーションの花に、目や鼻をつけて「キティちゃん」だの「ミッフィちゃん」だのというキャラクターにしてみるとか、テリヤだのシーズーなどの犬や動物にしてみる、などが売れ筋らしい。

 喜んでくれるだろうと買っていく客が画面に写る。次の画面では、もらった側の母の顔が登場する。毎年おきまりのシーンで、「またか」とは思うが、何となく、世の中すべての母親が、プレゼントをもらって喜んでいるような錯覚に陥る。
 しかし、考えてみれば、母親が亡くなってプレゼントをあげる相手のいない人も多いだろうし、子どもがいないから、プレゼントをもらえない人も多いのではないか。そんな人たちは、どんな気持ちで画面を見ているのだろう。

 もらう相手やあげる相手の居ない人は、まだあきらめもつきやすいが、一番厄介なのは、子どもが居てももらえない母親だ。もらえない理由はいろいろあるだろうが、仲違いしていてもらえないよりも始末が悪いのは、無視されている場合だろう。
 無視している子どもの側にも、いろいろ理由があるだろう。母親は憎しみの対象だったという人は、少ないにしても、日々の自分たちの生活に精一杯で、親のことまで考えるゆとりがない。とか。自分たちが楽しむのに忙しく、親のことなど考えていられない。とか。なかには、甘やかされて育ったので、親はしてくれる存在で、自分が何かをしてあげる存在とは思っていない子どももいるかも。

 一般論を長々書いたが、言いたいのは一般論ではない。自分自身が「もらえない親」なのだ。人のことをどうこういう間に、自分のことを考えねばならないだろう。
 30代半ばすぎた息子は、今時の企業では当たり前だろうが、午前様でのご帰宅が日常の、企業戦士の端くれ。おまけに、連れ合いも働いている。マンションの支払いがあるし、子どもには習い事もさせたいしとなれば、共働きになるのは理の当然。結婚したばかりの頃は、「母の日プレゼント」など、贈ってきていたが、今では「自分たちの生活が忙しく、親のことまで考えるゆとりがない」という現状だろう。

 理屈としては納得できる。別に疎遠に扱っているとは思わない。しかし、人間理屈だけではないから、感情の部分での納得ができにくい。
 姑には贈らなくても、実家には贈っているだろうな。とか、孫の入学祝いはしてやったのに・・・とか。ついつい愚痴が出る。

 このまま載せようとしていたら、宅急便が届いた。「お母さんありがとう」の帯が着いた菓子折だった。母の日当日になって、贈ってくれたらしい。共働きで忙しかったときの自分を思い起こした。姑さんは、きのうの私のような気持ちでいたのだろうなと。
 すぐにひがみ根性で考えてはいけないと知らされた。 

2008年5月10日(土)
また東京の自然破壊が・・・

可憐に咲くキンランの写真と破壊への疑問記事

 日本の人口の1割超が住んでいる東京だから、自然を守ることなどできはしない、という論法なのだろうが、また、自然破壊の工事が開始されようとしているらしい。

 『キンラン咲く雑木林守ろう』とのタイトルに惹かれて記事を読んだ。
 私が所属している「里山の会」会報で、「キンランが咲きました」の記事を書いたばかりだったので、「同じだ」と目にとまった。
 当方のキンランは、「里山」と呼んでいる斜面緑地の「絶滅危惧種」になっていて、保全活動開始後1年目に1株だけ見つけたのが、今年は数株に増えた。さらに増えるよう保全活動に励もうと、今月号の会報では述べている。

 東京のキンランは、写真で見る限りではかなりの「群落」を作っているようだ。昔の里山では、春になるキンランの帯ができたそうだから、それに近いものがあるのだろう。  小さな記事のため、雑木林の真ん中に、16メートル道路を造る理由は、分からない。都立の老人ホームの敷地内だそうだから、都が地権者であり、作ろうと思えばすぐにも作れる。しかし、老人ホームの他にも医療センターなどがある、医療と福祉の中心になっている場所のど真ん中に、道路を造ろうという神経が分からない。
 他の場所に道路を造ると、地権者ともめて時間がかかるから、自前の土地に作ってしまえということなのだろう。随分おごった考えに思えてしまう。

 東京に限らず、都会では常に「どちらを優先すべきか」という選択のなかで、事を運ばねばならない。そして、必ず反対が起き、意見の通らなかった方からの突き上げが来る。だからといって、何でもやったもん勝ちのように、ごり押ししてくる東京都のやり方は、納得できない。石原都政が永久に続くのではないから、終わりになったときのことを考えておいた方がいいと思う。大きな付けが返ってくるはずだから。

 何が何でも道路を造れば良しの時代は終わっている。今は、環境・自然に配慮することが求められている時代だ。
 大きな道路を造って、子孫に渡したら喜ばれる時代ではない。こんなに自然を破壊して、もう取り返しが着かないのに、どうしてくれるのだと怒られる時代なのだ。
 
 行政に携わる方々には、時代を読む能力を磨いてもらいたいものだ。

2008年5月8日(木)
ビラ弾圧事件は、今回も有罪?!

   荒川さんについて書かれた紙面

 立川ビラ配布裁判では、最高裁で有罪が確定した。マンションの敷地内に入ることは住居侵入だとのこと。たとえそれが、短時間であり、住民に対する迷惑がほとんど無くてもダメだということらしい。
 おかしな判決と思い、4/14に、恣意的にビラ配布を取り締まることに、お墨付きを与えるものだと書いた。
 4/30には、判決がおかしいとの意見が載った新聞を取り上げた。

 今回は、最高裁判決がこれから出される、葛飾ビラ配布事件についてだ。被告の荒川さんを取材し、インタビュー記事も載せている。
 荒川さんは「無罪になれば済む話ではない。逮捕・拘留だけでも、言論活動に大きな萎縮効果が出かねないことを考えてほしい」と言っておられるが、当局側はそれが狙いなのだから、狙い通りの効果が上がっているとほくそ笑んでいるだろう。現体制に批判的な言論を封じることが目的だから、スケープゴードは誰でも良かったと思う。たまたま、今回は荒川さんになってしまっただけのこと。できるだけ萎縮効果が大きければ、それで成功なのだろう。

 結果として何年もかかって、被告とされた人が無罪になったとしても、その間の損失は計り知れない。
 取り締まる側は、仕事でやっているのだから、何年かかろうが、いくらかかろうが、痛くも痒くもない。しかし、被告になった側は大痛手をくう。その上、支援する周りの人間も痛手となる。裁判の支援活動のため、本来的な活動の時間を取られる。金もかかり、支えきれないようになる場合もあるだろう。

 権力を持っているということは、批判する人間に対し、どういう手段を執っても、沈黙させられるということなのか。
 封建時代の領主や代官よりはましになっただろうが、今の日本がどれだけましになったのかと、疑問を持たざるを得ない。
 警察が恣意的に逮捕している現実を、内部告発する勇気ある警察関係者はいないのだろうか。政治的ビラ配布などに限って逮捕される事実を見れば、ビラ配布逮捕は、警察の恣意的行動であることは明白だが、「住民からの通報で」とか「たまたま配布している現場を目撃したので」とか、もっともらしい口実を並べることで、恣意性をカモフラージュしているから、内部告発でもなければ、証明は不可能だろう。

 現体制を批判する力を根絶やしにしたら、その後はやりたい放題ができて、満足なのだろうか。ずっとそれが続けられると考えているのだろうか。
 国民を見ないで、権力をもてあそぶ体制が、長続きするとは思えないのだが。 

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