人生60年以上やっていれば、良いことばかりではありません。当然いやなこと、腹立たしいことも、多々あります。
「昔は良かった」と、繰り言を言うつもりはありませんが、最近は、腹立たしいことが増えています。
日々、社会の現象を見聞きし「これは?!」と思うことを、あれこれ、綴ってみます。

日記となっていますが、「ズボラ育児室」を主宰するばあさんですから、1日2回書いたり、10日間書かなかったりになると思います。そこはご容赦ください。

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2008年4月30日(水)
日本の司法は非常識?
有罪判決の不当性と、高裁の態度を批判したコラム

 イラク派遣反対ビラ配布に対する、最高裁判決にたいし、有罪判決の不当性を書いた「コラム」を読んだ。
 
 チラシやビラが毎日入れられている今日の状況下で、チラシを入れるために敷地内に入ることの違法性を言うのが、常識的かどうかだ。筆者は、日本の裁判には常識が通用しないと言っている。有罪に疑問を持つ私も同感だ。しかも、警察が恣意的に逮捕するのだから。それにOKが出されたら、徹底的に逮捕してくるだろう。選挙や、重要法案に絡んで。

 敷地内に入ることは違法であると、今回の最高裁判決で確定したからには、ピザ屋の広告から、不動産屋のチラシ、寿司屋のメニューに至るまで、すべてのポスティングは「違法」と言うことになる。業者に違法を徹底させる気はあるのか。また、できるのか。

 以前、息子のポスティングバイトの手伝いをして、チラシを入れたことがある。
 最高裁判決前だったが、政党ビラ配布で逮捕されたというニュースは、聞いていた時だったから、捕まらないかと、ビクビクしながら大急ぎで配った記憶がある。しかし、今後はバイト自体ができないことになるわけだ。
 
 一方、我が家の郵便受けにも、時によってはワンサカと、チラシやビラがいまだに入る。「勝手に入れるのを、徹底的に取り締まらないのか。ゴミを増やして」と、ブツクサ言いながら、廃品回収用の紙袋に入れている。
 
 両方の立場を体験し、「自由」とか、「法の下の平等」という問題を考えた。
 「郵便受けにチラシを入れるな」というのであれば、政党ビラだろうと、不動産屋の広告だろうと、すべてが禁止されるべきである。今後はすべてのビラのポスティングは取り締まりの対象にすべきである。
 しかし、そうなったら、マスメディア以外の情報はほとんど入らなくなり、市民自治活動は死に体になるし、商売にも大いに差し支えが出るだろう。
 一見迷惑ではあっても、「やれる自由」は大事にしなくてはならないと思う。市民自治が死んだときは、民主国家日本も死ぬだろうから。
 
 その後、光市事件の安田弁護士に対する裁判の判決に対するコラムが載った。
 東京高裁が、一審の無罪判決を覆し、罰金刑を言い渡したとのこと。裁判の独立を疑わせるような判決だと書かれている。

 高裁レベルでの権力迎合的判決が目立つとのこと。
 一審勝訴で、高裁敗訴のケースが多すぎる。特に、政治がらみの裁判では、ほとんどといって良い。
 4/18に、「高裁で、イラク派遣『違憲判決』」のタイトルで、これが奇蹟に近い判決だと書いた。奇蹟の理由も含めて。
 奇蹟を望まねばならぬほどに、日本の司法が死にかかっていることを嘆く。 
2008年4月24日(木)
平和の象徴レッサーパンダ?!
 夕方5時台のニュース。テレ朝は、「レッサーパンダの大捕物」を、トップニュースにしていた。
 確かに、きょうは何もなかった。大地震もないし、大津波もない。電車の脱線事故も、火山の噴火もなかった。

 だから、自社だけが掴んだ「大捕物」のニュースを、トップに持ってきたからといって、責められることはないだろう。
 飼育係の方は、いなくなったと涙声になっていた。よそから借りたお嫁さんだとか。よそ様からの借り物がいなくなったのでは、申し訳が立たない。涙声にもなろう。
 市の職員が、通常業務を放り出して、大捜索をしたとか。山狩りのような状況も映し出されていた。
 数時間後に、住宅街の溝のなかから、吹き矢による麻酔銃を撃たれてぐったりした様子で、無事保護されたとの報道がされた。
 この間、テレ朝の報道陣が密着取材したとのこと。他社はいなかったらしい。

 日本は平和だ。とつくづく思った。以前にも、似たような「事件」があり、「日本は平和だ」と書いたような気がする。このところ、素晴らしく「老人力」が着いて、今朝のことも忘れてしまったり、夕方まで憶えていた夜の会合に、行き忘れてしまったりしているから、自信を持っていえないが。 
 今の日本は、地震や大火事でもない限りは、レッサーパンダの逃亡事件が、トップニュースになっても、誰も文句を言わないのだろう。

 大火事や転覆事故はなかったが、PCI元社長が逮捕されたとか、米産牛肉に危険部位が混入されていた。長野の聖火リレーは第1走者しか発表できないなど。それなりに、生活に密着した関心呼ぶニュースはあった。
 「捕獲大作戦」は、トップに持ってくるほどのニュースではないように思う。
 テレ朝側の言い分としては、夕方は6時からがメインで、5時台は前座的意味を持っているので、楽しい話題を提供したかった。ということだろうか。

 それでも、いくら自社のスクープとはいえ、トップに持って来ることはないと思う。
 楽しい話題で、テレビ画面にスリッパ投げたくなるようなニュースでないことは確かだ。
 しかし、こんな「大捕物」を見ながら、笑っていていいのだろうかと、後ろめたい気持ちになってしまった。「大捕物」をするならば、もっと別のことがあるだろうと。

 笑わせられている裏で、着々と進められているであろう「言論の不自由な時代」の到来に、背筋が寒くなった。「会議は踊る」という古い映画のテーマが、頭をよぎった。
2008年4月19日(土)
全国には、まだ百軒以上のストリップ劇場があった

    ストリップ劇場激減を報ずる紙面

 性文化のひとつである「ストリップ劇場」が、4年間で、1/3になったという記事を見つけた。

 子どもの頃にすんでいた街には、ストリップ劇場があり、その地方では有名なのだと聞いたことがあった。しかし、一度も入ることなく、街を離れてしまった。今は「劇場」跡地は、マンションになっている。
 25年くらい昔。職場の親睦旅行で温泉地に行ったとき、男性の同僚達と、一度だけ入ったことがある。「劇場」というより、「小屋」という方が当たっている所だったという記憶だけで、内容については憶えていない。
 性教育のツアーで、オランダやアメリカの「劇場」に入ったこともある。日本と違ってしっかりした「劇場」だった。

 近頃は、ストリップ劇場についての情報を耳にしたことがなかったので、とっくの昔に無くなっていたのかと思っていた。一度だけ入った、かつての「小屋」の時代でさえ、観客はまばらで、営業が成り立つとは思えなかったから。
 しかし、全国に180軒あるとなると、単純に平均すれば、1県3軒ちょいくらいになる。随分珍しい存在で、「性風俗博物館」があれば、今にも入りそうな数ではあるが、しっかり存在していたのだ。

 激減した理由が、営業許可の基準が厳しくなったことに加え、従来の「ストリップ」という語源でもある、少しずつ服を脱いでいく様を楽しむことが無くなり、アダルトビデオのような過激な演出が求められ、質が変わってしまったことで、客離れが加速した。ということらしい。

 ビデオは、作り物だが、ストリップは実演だから、ビデオのような過激な演出をしたら、飽きてしまうのではないか。刺激だけを求めていたら、どこかで壁にぶち当たり、自滅するしかないと思う。
 オランダで見たときは、挿入まで見せていたが、まるで無機質で、器械体操でも見ているような気分になった。まわりの客もシラーっとしていた。後で、同行の男性諸君は「日本とは全く違う」と言っていた。

 日本には、日本らしいしっとりしたストリップがあったはず。着物の裾から赤いけ出しをちらっと見せたり、着物を脱いで襦袢になっていく過程を楽しんだり。
 そもそも、見えない所がちらっと見えるからワクワクするので、初めから全裸で出てきたのでは、ワクワクの気分もなくなってしまうのではないか。
 男の裸で女があまりワクワクしないのは、男の裸を見慣れてしまっていることも、原因のひとつにあるのではないかと思う。

 ともあれ、ストリップ劇場がなくなるというのは、日本の性文化が、ますます幅の狭いものになっていくことの象徴のように思う。 

2008年4月18日(金)
高裁で、空自イラク派遣「違憲」判決

   イラク派遣「違憲」を伝える紙面

 空自イラク派遣に、高裁が「異議あり」を発した。しかも、憲法9条に正面から向き合っての判決として。憲法に向き合っての判決は、1973年の自衛隊違憲判決以来、35年ぶりの画期的な内容だとのこと。
 憲法9条違反とはしても、原告側の差し止め請求は棄却されたため、国側としては形式上は勝訴になり、上告はできないとのこと。原告側も、憲法違反に踏み込んだ判決で、控訴はしないため、高裁判決で決定するとのこと。

 差し止め請求棄却で、形式的には国の行動が認められたから当然だが、首相は、空自派遣は続行するとの見解を出した。

 議論が分かれる問題だから、各紙がどう取り上げているのかと、ネットを覗いた。
 こういう場合の定石通りの社説が載っていた。
 朝日は「イラク判決 違憲とされた自衛隊派遣」のタイトルで、一審に続いて、差し止め請求は棄却されても、憲法判断に踏み込んだことを評価している。
 読売は「イラク空自判決 兵輸送は武力行使ではない」のタイトルで、憲法判断などを、判決文に入れるべきではない。とし、イラク派遣は国際協力だから、進めるべきだとしている。

 これが、新聞社の姿勢であり、それを知ったうえで読者は、新聞を選ぶべきであろう。しかし、現実は、ジャイアンツに惹かれてとか、景品がいいから読売新聞にするとか、新聞社の立場とか、ポリシーなどとは無縁のところで、選んでいる人が多いのではないか。そして、その結果、いつの間にか、その新聞の主張が自分の主張になってしまっている。
怖い話だ。

 地裁では勝訴しても、高裁、最高裁と、上告すれば敗訴になるケースが多いなかで、地裁の判決を覆しての勝利判決とは、奇蹟に近い。
 なぜ奇蹟が起きたのか。奇蹟の元は裁判長の立場だった。判決を書いた裁判長は、定年なのだそうだ。定年ならば、その先は弁護士などになればいいのだから、天下りの心配もしなくていい。この先まだまだ任官が続くとなれば、左遷を意識するから、自分の思い通りの判決は書けないが、これで終わりならば、自分の思い通りに書ける。
 全く、ピッタリのタイミングで、この日を迎えたわけだ。

 と考えると、奇蹟の中身が分かる。そして、なぜ上級審の判決が、体制よりになるかも分かる。裁判官といえども人間だから、名誉欲も、金銭欲もある。肩書きが重くなればなるほど、それを失いたくないと思うだろう。
 自身の良心に従って判決を下し、それによって左遷などされない仕組みを作らねば、日本の裁判は死んでいく。
 

2008年4月18日(金)
早すぎるクーラーの使用は

  東京へ芝居見物に行こうと、最寄り駅からいつもの電車に乗った。
 5月上旬くらいの気温とかで、早足で駅まで行って電車に飛び込んだため、上着を脱がねばならなかった。
 昼間の車内は空いていて、すぐに座れたので、下車駅まで一眠りしようと目を閉じた。しかし、どうもスースーするので目を開けてみると、冷たい風が天井から来ている。「これってクーラーが入っているってこと」と、口が開いたままになった。

 職場では、今はクーラーが入ったようだが、私が辞めるまでは、教室にはクーラーはなかった。「暑いときは、暑いままで。寒いときは寒いままで」という暮らしに近かった。 それで鍛えられたというわけではないが、ちょっと暑ければ、上着を脱げばいいことだと思う生活スタイルが、できてしまった。しかし、都会の人間は、上着は着たまま、ちょっと暑ければ、すぐクーラーを入れろと言うのだろう。
 電車は客商売だから、客の要望を聞くことに努める。それが当然だという論理がまかり通っているのだろう。

 その結果が、京都議定書の削減目標に近づかないどころか、上回ってしまっている現状を招いているのではないか。
 電車だけではない。夏のデパートでの、寒いほどのクーラーの効かせ方も同様だ。
 一定の空間を均一に冷房するのは、なかなか難しいとかで、局地的に効き過ぎの場所ができてしまうという言い分らしいが、そもそも、30度以上の真夏日に、デパートの中を20度にしておこうなどと考えるのが、自然に対する傲慢だ。

 真夏日ではなく、まだ20度くらいの、生理学的には、熱生産も放散もしなくてよい、人体にとって最適といわれるくらいの温度の日に、なぜクーラーを入れる必要があるのか。 サービス過剰としか言いようがない。そんな過剰サービスをする金があったら、駅の安全に回してほしい。駅員さんを増やして、客に対応できるようにしてほしい。

 乗ってくる客のひとりひとりにも、温暖化の責任があることを周知すればいい。「車内が少し蒸し暑く感じられるかもしれませんが、温暖化防止のため、クーラーの使用はできる限り控えさせていただいております。お近くの窓開けにご協力ください」と社内放送すればいいではないか。経費節減にもなるのだから、会社にとっても悪いことではないはず。

 しかし、窓を開けない前提で作ってある車両があるので、厄介だ。暑くなればクーラー、寒くなれば暖房を使用する前提で作ってある。故障したらどうするのだろう。立ち往生した車内に閉じこめられて、気分悪くなって病院に運ばれるケースが増えたのは、若者がヤワになっただけでなく、窓の開かないせいもあるのではないか。

 文明の利器が使える前提で作られている、今の多くのシステムに疑問を感じる。

2008年4月14日(月)
いよいよラストスパートをかけてきた

原告記者会見を報ずる紙面。  東京新聞社説

 立川ビラ配布事件の、最高裁判決が出た。予想通り、有罪判決だった。
 地裁では無罪でも、高裁、最高裁では有罪になるパターンが、今回も踏襲された。
 
 映画化された冤罪裁判の『それでも僕はやってない』と同様、最高裁の判断が絶対ではない場合もある。
 刑事裁判でも、殺人罪などの場合は、再審で無罪を勝ち取るケースがあるが、今回のような「罰金刑」という「軽微」な刑でも適応できるのだろうか。
 ほとんどの場合は、最高裁で刑が確定すれば、それで終了になっている。再審請求ができないことを示しているようだ。

 現政権に都合の悪い思想信条の人々を、警察権力が狙い打ちし、軽微な刑で逮捕し、長期間拘留する。
 警察側は、仕事でやっているのだから、ながかろうが、手間がかかろうが構わない。しかし、一般市民の方は、重大な損失を被る。失業するかもしれない。離婚になるかもしれない。周辺の住民から「村八分」を受けるかもしれない。子どもがいじめに遭うかもしれない。それらのすべての損失は、たとえ無罪になったとしても、取り返しがつかない。

 権力のある者が、それを偏った使い方をしたら、庶民はどうしようもない。
 「見ざる」「聞かざる」「言わざる」になっていくだろう。戦前がそうであったように。それをねらって、着々と進めてきているのだろうから。

 対抗手段は何か。勇気あるマスコミの出現は望み薄になっている。「東京新聞」は、社説で取り上げ「自由を萎縮させるな」と書いた。朝日新聞も「社会が縮こまっていいか」と書いた。毎日新聞は書いていない。
 読売新聞は「一定のルールが示された。チラシ、ビラ配布の法的ルールはより明確になるだろう」と書いている。随分おめでたい書き方だ。
 ルールが明確になるだろうか。警察の取り締まりなどというものは、全く公平性を欠く形で、平気でできるのだから。
 軽微な犯罪ほど、それが強くなる。立ちションしているときに、たまたま通りかかった警官が、「立ちションは違反だ」と言ったら、それっきりで、罰金になる。見て見ぬふりすれば、何でもない。というのが現状ではないか。

 だから、ビラ配布でも、ピザ屋や、不動産の配布は何も言わず、政党ビラや、反体制側の集会ビラなどは、逮捕される。という筋書きが、強固になるだけだろう。
 読売新聞は「体制側の新聞だから、関係ない」と思っているかもしれないが、包囲網を縮められたら、関係が出てくるに決まっている。しかも、関係が出てきたと分かったときには手遅れなのだ。そんなことは、歴史が証明しているのに、どうしてのんきにしていられるのだろう。まったく理解できない。
 他の新聞は、取り上げただろうか。産経新聞は、逮捕の正当性が認められたと、報道したのではないか。

  「最終コーナーを回った」と2006/12/17のはらだち日記に書いた。教育基本法改正が成ったから。
 今回は、ラストスパートをかけた地点だと思う。ゴールが9条改正とすれば、まさにラストスパートだ。  

2008年4月14日(月)
ここは日本国だ。欧米ではないぞ

  孫の誕生祝いに、レゴブロックを買いに行くことになった。
 1年に1度のことだから、1万円くらいまでならば奮発するかと覚悟していた。
 待ち合わせ時間より早めに着いたのを幸い、ブロック専門店へ下見に行った。

 駅の上が、ショッピングモールになっているから、すぐに分かると思ったら、大間違い。入り口にある案内板の店名は、全部横文字。何やさんなのか、全く分からない。「ええーい。面倒」とばかり、すぐ横にあったエスカレーターに乗り込んだ。エスカレーターの案内は、日本語も着いていたので、店が4階にあることが分かった。

 話には聞いていたが、子どもの玩具とはいえない様相の店内だった。私の背丈ほどもある動物が作ってあったり、万里の長城とまがうばかりの建築物があったりする。
 小学校低学年の孫が買いそうなブロックは、これかな。それとも、これはすでに持っているだろうから、こっちをほしがるのかな。いずれにしても、1万円あれば充分だ。と、胸算用を終わり、待ち合わせ場所へ。 

 外国かぶれのような店の数々に「ここはアメリカではないぞ。日本国だ。何で店名が全部横文字なのか。外人さん相手に商売しているわけではないだろう。横文字使えばハイカラだと、来る客が増えるのか」と、ひとりでいきまいても、息子に言わせれば、頭が固いということにしかならないらしい。 アメリカも、ヨーロッパも、点ではあるが一応見てきている身にとっては、チャチイ模造品を見ているようで、正視に耐えなかった。

 両親、叔父さん、ばあさんと、おとな5人を引き連れて、下見した店に入った孫が「これがいい」と言ったのは、私のイメージしたブロックとは、全く違うものだった。
 スターウォーズに登場するマシーンを作るブロックなのだ。「これって、作ってしまったらそれで終わりでしょ。いろいろ作る訳じゃないでしょ」と誘導してみたが、スターウォーズにこだわっている。
 パパ(息子)が言うには、何でも作れるブロックは飽きてしまって、これがいいのだとのこと。「お母さんいくら出せる」と来たから「1万しか出せないよ」と応じた。
 結局、パパとばあさんが折半して、約2万もするブロックを買ってしまった。

 今時の子とつきあうのは大変だ。我が家はひとりだが、孫が何人もいたら、なるほど出費が多くて、家計を圧迫してしまう。
 それにしても、たかがブロックがなぜ2万もするのか。著作権料、特許料、何とか料と、ブロック以外に金がかかるし、特殊なブロックを、1つの作品のためだけに作らねばならぬだろうから、割高になることは分かる。
 分かるが、子どもの玩具ではない。おとなの趣味の範疇だろう。万という金の品物を、ちょくちょく買える子どもなど、ほんの一握りしか居ないだろうから。
 
 それを買ってやったのは、ババ馬鹿かなと反省しきり。同様の物を、ママ方のジージに買ってもらったと言われると、何となく対抗意識が出てしまった。「負けるものか」と言うわけではないが「あっちが買ってやったなら、こっちも買ってやってもいいか」みたいな、自分だけの後ろめたさが消えて、妥協したことは確かだ。
 来年は、断然性教育の絵本だけにしよう。

2008年4月9日(水)
犬も老いれば、ひなたぼっこが好きになる?!
ひなたぼっこの好きなのは、猫と相場は決まっている。
 雨が降ろうが、槍が降ろうが、犬は散歩に行くに決まっている。だから、飼い主は大変なんだと、聞いている。

 しかし、今朝は、それを覆すような光景を見た。
 歩かせようとしている飼い主にはお構いなく、公園を見渡せる坂道で、座り込んでしまうラブちゃんを。ラブラドールは、飼い主の言うことを忠実に聞く、賢い犬だと聞いていたが、今朝のラブちゃんはちょっと違っていた。飼い主が引き立てると、仕方なく、5、6歩は歩くのだが、すぐまた座り込んで、公園を見渡しているのだ。

 体操が始まり、彼らの様子を見続けられなかったが、30分後に終了した時には居なくなっていたから、飼い主に負けて付いていったか、飼い主が負けて帰宅してしまったかだろう。いずれにしても、たいした出来事ではない。タダの一風景だ。

 それがなぜ気になるのか。ちっぽけな出来事を気にしている暇に、やらねばならぬことは山積みだ。
 医療費問題もひどいもの。要するに、医療費をいかに抑えるか。それが根本命題で、事が動いているから、あっちこっちで、ひずみが出てくる。こっちの綻びを止めれば、すぐさまあっちが綻びる。という具合。
 国民の幸せを考える行政。という立場に立ち返らねば、どうしようもない。

 犬は散歩に行くもの。と決めてかかっているから、行かない犬は、横着で、悪い犬ということになってしまう。
 犬だっていろいろなのだ。散歩が好きで、腰が立たなくなっても、紐でつり下げてもらって、散歩に行きたがる犬もいれば、もう年だから、家でひなたぼっこしていたい犬もいる。犬だって十犬十色なのだ。

 まして、人間は、考える動物なのだから、思いはいろいろのはず。出歩きたい人もいれば、家でゴロゴロしていたい人もいる。
 老人といえども、元気でいなくてはならない。そのためには体操もしなくてはならない。家でゴロゴロしていてはいけない。などと言われたら「ほっといてくれ」と言いたくなる。自分が出歩きたい。足腰がしっかりしていなくては、出歩けないと思うから、体操もする。しかし、出歩くのが好きでなかったら、体操などしないだろう。
 出歩かなくてはいけないから、体操をしなさいなどと言われて、無理矢理やらされるのでは、楽しくない。

 楽しくないことを、強引にやろうとしているのが、今の介護保険制度の要支援事業だ。行政は何を考えているのだろう。 
 
2008年4月7日(月)
たかが110円、されど110円

  毎朝やっている体操に持っていく、デッキ用の電池を買いに行った。
 どこの店も同じだが、同じ単2の電池でも、種類が多い。メーカーが違う電池があるのは当然だが、同じメーカーでも、同じ単2で、種類があれこれある。
 値段が違うが、どっちが割安になるのか。値段の違いは、どんな中身の違いなのか分からない。

 分からないときは、すぐ聞いてみる主義だから、店員さんに聞いてみた。見るからにアルバイトという感じの、ギャルっぽい店員さん。「アンタには、回答は無理だと思うよ」と思ったが、「何でしょうか」というから、仕方なく言ってみた。「こっちは、20%長持ちと書いてあるが、417円と527円との違いくらいに、こちらの方がお得なのか」と。案の定、分からない様子で、電池のパッケージを読み始めた。「パッケージを読んでも分からないから聞いてるの。読んで分かれば聞かないよ」と言いたかったがぐっと押さえた。

 手に負えないと分かり、正社員らしい年配の女性を呼んできた。しかし、それでもらちがあかない。単なる店員じゃ無理に決まっている質問なのだから。電池のことに相当詳しい者でなくては、分からないレベルの質問なのだ。
 いよいよダメだからと、店長を連れてきた。年格好からの推測では「名ばかり店長」のようだったが。

 さすが店長。こちらの質問趣旨は理解してくれた。私には分かりかねるから、メーカーに問い合わせてお返事したいという。「今問い合わせていたら、駐車無料時間を超えてしまう」というと、「それはスタンプを押します」と裁量権を発揮してくれた。名ばかり店長でも、それくらいの裁量権はあるらしい。女性店員には、それもないから、メーカーへの問い合わせができなかったのだ。
 どうしてもきょう買わねばならぬ物ではなく、他で用事を足していた時間の、駐車料金をタダにするための、スタンプ目当ての買い物だから、調べてゆっくり連絡でいっこうにかまわない。

 結果としては、駐車料金タダにするための、文句ッタレのような格好になってしまった。
 それでも、2時間ほどしてきた電話によれば、使用時の電力が多くない器機には、安い方でいいが、電力をくう器機の場合には、高い方を使わないと、すぐに電池が減ってしまい、結果として「安物買いの銭失い」になるのだとのこと。
 毎朝CDを30分も回すのだから、高い方の電池を使った方が得になることが分かった。

 高い、安いと言っても、たかが110円の差。手間を考えたら、聞かない方がエネルギー消費が少なくてすんだかもしれない。
 しかし、エネルギーの大小よりも、納得して買い物する方を選ぶのが、ツッパリばあさんのばあさんたるゆえんだと思う。

2008年4月4日(金)
笑うしかない、漫画のような?! 話

  テレビで、最新ペット事情を見た。特に犬の情報を特集していた。
 我が家でも猫を飼っているので、フードについては、多少情報を持っていた。年齢で、カロリーやら、脂肪やらを変えた方が良いので、何歳以上用などというフードが出ている。「なるほど。これなら太りすぎ予防に良いかも」と買ってきたりしていた。

 旅行などする時には、一定量のフードが出てくる容器も、あれば便利だと思った。ついでに、糞尿を自動的に始末して、きれいにしてくれるトイレがあれば、もっと良いと思ったが、その情報はなかった。フードと糞尿が何とかなれば、高いペットホテルに預けずに、旅行に出かけられる。需要は多いと思うのだが。

 この辺までの話なら、「なるほど。便利で良いわね」と見ていられたが、メタボになった犬の管理のために、体脂肪計がある。メタボ予防のために、散歩の時には、歩数計をつけて歩かせ、一万歩とかになるまで歩かせる。
 いよいよ、要介護になった犬のためには、紙おむつをして、「家で、死ぬまで介護してあげますからね」などと言わせている場面になると、あきれかえって笑うしかない、漫画の世界に見えてしまった。

 以前から、ペットと言われる犬の扱いには、疑問を感じていた。
 服を着せたり、帽子をかぶせたり、アクセサリーを着けたりと、犬にとっては、本当は迷惑な話ではないだろうかと思っていた。
 メタボや介護の話は、犬にとってはどうなのだろう。野生で生きているのではない犬には、人間並みの医療や介護が必要なのだろうか。
 本当に必要なのだとしたら、どの犬にもやれなくてはおかしい。しかし、現状では、金のかけられる家の犬だけが、どんどん高額医療を受けていく。 
 人間様でも、なかなか受けられないような、至れり尽くせりの医療や介護を受ける犬は、幸せなのだろうか。自然に任せていたら、とうに死んでいるはずの命をながらえることは、犬という生物にとって、幸せなのだろうか。

 医療や介護をしてやれる人たちは、どう考えているのだろうか。我が家のペットをどうしようと、他人にとやかく言われる筋合いはない。別に人様に迷惑かけている訳じゃない。という答えが返ってくるに決まっている。
 しかし、なぜ犬にそれほどまでに金をかけるのだろう。私には理解できない。
 充分食べられない。着られない。医療や介護を受けられない。そういう人間がたくさんいる。助けを待っている人々がたくさんいる。その人達には目を向けないで、我が家のワンちゃんには、至れり尽くせり。

 どっかおかしい。なんかゆがんでいる。そんな思いを強くした番組だった。

 

2008年4月1日(火)
老いてなお すてきな生を

 ネズミの実験結果を伝える紙面

 次第に「後期高齢者」に近づきつつある身には、嬉しいニュースがあった。
 年寄りは、体力では若手に負けるが、脳の働きでは負けていないというのだ。ただし、ネズミの実験だから、人間に即当てはまることではないのかもしれないが。

 「後期高齢者医療費」が「長寿医療費」と名前を変えるそうだ。名前が変わったら中身が変わるのかと思うが、そうではないらしい。
 名前だけが「長寿」などと、お目出度い風になったとしても、医療費を年金から天引きするなどの中身は変わらないのでは、全然意味がない。むしろ「バカにするな」ということになる。

 天引きするのは、納めに行く手間を省いてあげるためだと言っていた。必ず納める必要があるのに、わざわざ金融機関に行くのは高齢者にとっては大変だから、行かなくて良いように天引きしてあげるのだという理屈。
 必ず納める必要があるかもしれないが、毎日の食べることにも事欠く生活の場合は、食べることを優先し、結果として納められないということもある。
 家や土地があっても、それを現金に換えてしまったら、住む所が無くなるから、死んでからの精算にして、生きている間は納めないという人もいるようだ。
 天引きするということは、そういう事情に関係なく、納めるべきものだから、確実に国に入るようにするのだということでしかない。
 それが「長寿医療」などという、聞こえのいい医療費の実態だ。国は、長寿のお祝いに、「天引き」をするのか。

 老いてもなお、すてきな生を全うするためには、頭の働きも重要だ。それが、若い者とたいして変わらない働きができるとなれば、これからの見通しは明るい。
 医療費の取られ方がおかしいと考えるのも、頭の働き。変更を求めて、行動を起こすのも、頭の働き。
 若者が、日雇い派遣や、ワーキングプアーで声を上げだしたように、医療費や年金で行動を起こすことは、ますます頭の働きをよくすることになる。
 頭の働きをよくすれば、結果として、身体も元気になり、医療費が少なくてすむようになる。
 老いぼれは、黙ってお国の言うことを聞いていればいいのだ。などと言ってはいけない。黙ってハイハイ言っている年寄りは、どんどん医療費がかさむ人間になってしまう。
 大いに反論を言わせるような、行政の姿勢であってほしいが・・・

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