2002年12月の日記

2002年12月25日(水) 晴れ
日記のページを作ってみた。

ページトップのイラストはBOBAさんのもので、自分のPCのデスクトップの背景に
使わせていただいている。

プロのイラストレーターさんで、いつか037のグループA・前期タイプの
イラストを描いて貰えたらいいなー・・・と思っている

2002年12月26日(木) 晴れ
1番と4番が有名だけど、2番が好き・・・

3・5・6・9番が有名だけど、4番&8番が好き・・・

6番が有名だけど、4番が好き・・・

9番が有名だけど、8番が好き・・・

40番が有名だけど、25番と29番が好き・・・

8番が有名だけど、7(9)番が好き・・・

クラシックの交響曲の話。
2002年12月27日(金) 晴れ
今年も残り4日になった。

仕事では、後半川口のSKIPシティーと六六フジタ劇場棟の2件の爆弾?現場で 終わって
しまったような気がする。

これだけの手間を費やしたにもかかわらず、何一つ収穫が無かったと言っても良い・・・
と思う・・・。
   
所詮、餅は餅屋・・・自分の技量を超えた仕事を安易に受注した会社に責任があると・・・
断言してしまう!

来年は会社の、そして下職の体質改善に乗り出さないと・・・。その為には、仕事が無い
状況が続かないと無理かも。

そうなった時、淘汰されればいい・・・と思うのだが・・・。 
2002年12月28日(土) 晴れ
昨日で今年の仕事は終了!

今日は家の掃除・洗濯・年賀状書きをそれぞれ少々

昨年の事は明日書きたい・・・と思う・・・?!
2002年12月29日(日) 晴れ
2001年は、最初で最後のラジコンの電動全日本スポーツマンクラス参戦を決意した
年だった。

1996年11月の初走行(1998年2月が初レース)から4年半。

年齢的にも、技術的にもこれ以上のレベルアップは無理と判断してのことだった。
(40歳後半ともなると、視力の問題が深刻。近視に乱視、遠視も・・・!)

23ターンという制限は有って無いような・・・数年前の15ターンに匹敵するスピードを
争って、全国の160人の枠に入りたい!と願って。

1次予選は、4月8日地元SSWで行われた為、問題なくパス。

7月1日の2次予選に向けて、開催地の茨城県・谷田部アリーナへ4月26日から
6月29日までの間に20日間練習に通った!

通い始めた頃の26周から最後は27周8分 2秒までタイムアップしたが、48人枠の
ボーダーラインと言われていた28周に入ることはできなかった。

結果はプロフィールにも書いた通り57位で予選通過は果たせず終了。因みに、48位の
人のタイムは27周8分5秒94で自分は27周8分8秒61だった。

終了直後から、終わった・・・という虚脱感でもうレースはイイヤ・・・と思った・・・。
  
これから、そんなに長くないラジコンライフを楽しむ為に、レースの参戦をやめてのんびり、
ゆっくり楽しむラジコンにしていきたいと・・・。   
 

2001年のもうひとつの出来事(?)は、パソコン。

6月に会社からパソコンを買ってもらい、仕事に使い始めた。

機種はIBMのノート型のTHINKPAD iシリーズ 73j。celeron750MHz 192Mb/20G/CD-ROM/
ME /officeXP掲載モデル。

最初は年間200件近い書類の整理が目的だったが、プリントアウトしたものを会社FAX〜
会社が職人にFAXする過程で表示が劣化。

判読し難いとのことで、会社にもメールを導入。

手書きの図面も送れるようにスキャナーを購入したが、フリーソフトのjwwで思考錯誤の
CADを使い始めたのが8月。

お盆休み中に練習で書いた割付図面が品川の大東建託本社ビル。

以後、割付図面・標準施工図施工計画書の副資材姿図等に使用。

このノートパソコンは今年10月に会社へ返して、11月2日自宅デスクトップパソコンを
購入。

IBMNetVista intel pentium4 2.4G/512M/80G/DVDコンボ/XPhome。

ADSLもNTTフレッツ1.5Mからヤフー12Mに変更。スピードは0.5Mから1.2Mに
少しだけアップ。

今年の12月からホームページ作成開始・・・。

今なお修行中!少し前まで、パソコンを毛嫌いしていたのがウソのよう・・・・。


2001年最大の出来事は・・・父親が亡くなった事だと思う。

4人兄弟の末っ子の自分は、兄弟の中で1番我儘で親父を苦労させたと思う・・・。

上の3人が社会人だったこともあり、しかしながら決して裕福ではないのに、浪人〜
大学中退〜専門学校へと好き勝手をした自分に援助してくれて、本当に感謝している。

小さいころに、豆腐屋の作業場の大豆の木箱の上に座って、親父の作った豆腐の
絞りかすの豆乳に砂糖を入れて飲ませてくれた事を思い出す・・・。

今 思えば、貧しいながらも、ある部分物凄い贅沢をしていたような気がする。

ダッシュ村で見る光景が、昔は当たり前だったような・・・。


商売でやっていたから当たり前の手作り豆腐・油揚げ・がんもどき。

ヤギの乳を搾って飲んで家の田んぼ・畑で採れた米・野菜。

ミツバチを飼っていたから自家製蜂蜜。

秋になれば、松茸取りの名人で、多い時は大小数十本も並べて、自慢げだったっけ・・・。

皆、家族の為、子供の為にと頑張ってくれた親父がいてくれたからだと・・・思う。

豆腐作りは1代で終わってしまったけれど、豆腐屋をやめる頃は「今日の豆腐はうまいで、
食べてみな」と何回か言われて食べた豆腐は、美味しかった。

なかなか満足のいく豆腐が出来なかったんだと・・・思う。

それぞれの過程で、微妙な違いが出来に現れたのだろう。

大豆にしても、アメリカ産・中国産・国産では品種の違いが大きいのだろうけど、
それぞれで味は物凄く変わるような事を言っていた。

機械化する前は、石臼だったような覚えがあるのだが・・・。

きっと石臼で挽いた国産大豆を作った豆腐は、ウマいんだろうなー・・・。
   
お茶にしても、自分の家で採ったお茶の葉を、蒸して揉んで作るんだもの美味しかったのは
当たり前だ!

こんな事をしていた家がお茶屋さん以外そんなにあったとも思えない。

祖父が京都(奈良?)にお茶作りの修行に行って覚えた事を、親父が継承したと
聞いたのだが・・・。

色々な事をしてくれた親父も、もういない。


最後は、段々病弱していって、仕方ないな・・・と思えるようになったのが救いのような
気がする。

10数年前、前の会社が長野県の仕事が多くて、よく顔を出せたのが親孝行だった
ような・・・。

早いもので、あれから1年3ヶ月。

あの9月22日から9月26日の5日間は忘れない・・・と思う。

2月17日の親父の誕生日に会いに行った日と共に。


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